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ヒロシマ (ジョン・ハーシー)

(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)

 この時期には、毎年一冊は戦争関係の本を読もうと心がけています。

 本書はピュリッツァ賞作家ジョン・ハーシー氏による史上初の原爆被害記録だということで手に取ってみました。

 原爆投下から間もないころ1946年の取材による本編は、本書の訳者である谷本清牧師を含む6名の被爆体験が描かれています。
 谷本牧師以外の他の方は、東洋製缶工場の人事課員佐々木とし子さん、医師藤井正和博士、仕立屋の主婦中村初代さん、イエズス会ドイツ人司祭クラインゾルゲ神父、赤十字病院外科医佐々木輝文医師です。1945年8月6日8時15分、市内で原爆に見舞われながら幸いにも命を保ったみなさんです。

 原爆が閃光を放ったとき、いったい何が起こったのか見当もつかなかったといいます。そして、その瞬間から、各々それまでとは全く別世界で生きていかなくてはなりませんでした。

 たとえば、佐々木輝文医師。
 自身も被爆しましたが、その直後から赤十字病院には次々と何が起こったのか想像もできないような負傷者が集まってきました。

(p32より引用) ただの一撃で、人口24万5000の都会で、即死もしくは致命傷10万人、負傷者10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、この市内随一の病院に押しかけたのだが、病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていたし、こんなにこられては手も足も出ない。・・・あまりの多人数に度を失い、生傷のおびただしさに肝をつぶし、佐々木医師はまったく医者の意識を失って、思いやりのある、手慣れた外科医らしい手当はもうできなくなった。一つの自動人形となって、機械的に、拭き、塗り、巻き、拭き、塗り、巻くのだった。

 本書では、こういった原爆投下直後から数日後の様子が、それぞれの方々の日々の生活・体験を辿る形で書き留められています。
 それら一瞬一瞬の姿はもちろん言葉では表すすべを持たないほどの衝撃で尋常のものではありません。ここではその引用も控えたいと思います。

 第5章「ヒロシマ その後」、1973年6月7日中国新聞夕刊のエッセイ欄に谷本牧師はこう書いています。

(p206より引用) 広島の記念碑に「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」との碑文は弱々しいが強烈な人類の悲願がこめられている。ヒロシマのアピール・・・それは政治以前の問題である。広島を訪れる外人の多くが口にする言葉は「全世界の政治家はまず広島に来て、この碑文の前にひざまずいて政治問題を考えるがよい」である。・・・

 また、巻末の増補版訳者あとがきにはこう記されています。

(p240より引用) 1984年春、ヒロシマを訪れたハーシーは、広島市民に次のメッセージを送っている。
 これまで核兵器の新たな使用を防いできたのは、ヒロシマ・ナガサキに対する人類の記憶だ!

 今なお核兵器廃絶への前途は遼遠です。
 今を生きる人間の使命として、「ヒロシマ」「ナガサキ」の記憶は伝えられ続けなくてはなりません。自らその直接の体験がなくてもです。

 その第一歩として、まずは広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪れ、そこに残された写真・生活道具・石・・・、なんでもいいのでそれらの前に立ち止まってしっかりそれらと対峙して欲しいと思います。
 今年歴史的な出来事がありました。10分でも訪れたという意味はとても大きい、でもそこに残されたもののメッセージを受けとめるには10分はあまりに短過ぎます。

(注:本年(2023年)、広島で「第49回先進国首脳会議(G7広島サミット)」が開催されました。何人かの参加国首脳が平和記念公園や原爆資料館を訪問しました。そこで何を感じ、何を心に誓ったのか・・・)



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