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ルリボシカミキリの青 (福岡 伸一)
(注:本稿は、2020年に初投稿したものの再録です。)
分子生物学者福岡伸一氏の生い立ち、生物学を目指そうとしたきっかけ等々を自ら語ったエッセイ集です。
「週刊文春」に連載しているコラムを再編集したものなので、その時々の「時事ネタ」も取り混ぜられていてサクサクとページが進みます。
採録された約70ほどのコラムの中から、私の興味を惹いたくだりをいくつか書き留めておきます。
まずは、福岡教授がSSH(スーパーサイエンスハイスクール)で講演した際のエピソードです。
(p96より引用) 講演を終えて会場を後にするとき、生徒たちの会話が耳に届く。「モチベーション高まった!」うれしいなあ。教えることは同時に教えられることでもある。彼ら彼女らの澄んだ好奇心を目の当たりにして、あらためてそう思った。
これは嬉しいでしょうね。私もシチュエーションは全く異なりますが、人前で講演や講義もどきの話をしたことがありますが、こういった反応が返ってくると「ありがたい、やって良かった!」と心から思いますね。
もうひとつ、戒めの気づき。
日食を利用してアインシュタインの理論を実証しようとした科学者エディントンの逸話の紹介です。
(p154より引用) それから何十年も経過したあるとき、科学史家たちがエディントンの撮影した写真を詳細に再検討してみた。するとどうだろう。写真はいずれも極めて不鮮明で、そこにはたくさんの誤差要因が含まれていることが判明した。星のずれの角度は小さくも大きくも解釈可能だった。ずれの角度がアインシュタイン理論のとおりに結論できたのは、他でもない、アインシュタインの理論があらかじめ存在していたからなのだった。つまりこういうことなのだ。私たちは事実を虚心坦懐に見ているのではない。私たちは見たいものを見ているのだ。日食のニュースであらためて思い出した。福岡ハカセはこの逸話のことを考える。自戒の意味を込めて。
なるほど、ただ、このエディントンのエピソードはまだ「真面(まとも)」が部類ですね。
昨今、世の中で流布されている数々の主張や論説の多くは、もっと“露骨”で“意図的”な作為に満ちたものです。
それこそ、自説に誘導し、自説に与する “根拠?情報” を部分的に切り出して、その正当性を語ろうとしているものがかなり目につきます。自説に都合のいい情報しか公開しない、都合の悪い情報は隠蔽・破棄する・・・、さらにあり得ないことに、自説を裏付ける情報を創作するところにまで至っています。
議論の前提となる「事実の扱い」がこれほどまでに軽くなったのはなぜか?
「事実の追求」を使命としていた専門家の “矜持” が失われたのは悲劇です。
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