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山びこ学校 (無着 成恭 (編))

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 以前から気になっていた本です。

 戦後の教育に大きな影響を与えた著作だと評されていますし、当時の生活を知る民俗学的観点からも貴重な資料とも位置づけられているようです。
 本書に収録された詩や作文を書いたのは1950年ごろの中学生とのことですから、1935年ごろの生まれの私の父母とほぼ同年代ですね。

 自分の親や兄弟が出征し、自分たち自身も戦中・戦後の厳しい生活環境を生きている最中、彼らが綴った飾らない文章は心に響きます。
 その中からいくつか、特に印象に強く残ったところを書き留めておきましょう。

 まずは、「母の死とその後」という江口江一くんの作文から。

(p37より引用) 僕は、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科『私たちの学校』のまとめをやることができたのです。
 明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。

 とりわけ貧乏な暮らしをしている江一くんですが、この真摯で前向きな向学心と他人を思いやる優しい気持ちは素晴らしいですね。

 そして、次は、江口俊一くんの「父の思い出」

(p51より引用) そのころ「天皇陛下からきたんだ。」といって、役場で盃を持って来て仏壇にあげた。そのとき、弟が「とうちゃんばころして、さかずきなのよこしたてだめだ。」といって泣いた。・・・
 ほんとうのところ、お母さんも、私も、家の人はみんな、こんな、こんなさかずきもらうよりも、生きているお父さんをかえしてもらいたかったのだ。・・・
 ほんとうは、お父さんは、戦争になんか行きたくなかったんだと思う。自分の生活や、家のことをほんきで考える人は、だれも戦争に行くのなんかいやなことはあたりまえだと思っている。

 俊一くんと俊一くんの家族にとっての辛い「戦争の記憶」であり、正直な「戦争への想い」です。

 その他、門間きみ江さん、門間きり子さんが書いた学級日記「なんでも聞く子供」にはこういうくだりがありました。

(p117より引用) 「先生が『なんでもハイハイということを聞く子供は、封建的な子供でわるい子供だ。』とおしえていたべ。・・・」
 「それから、『百姓は、本なんかよむひまがないのはあたりまえだ。』というのにも○つけているぜ。」といった。
 このことでみながやがやになり、「ほんてん、ンだべか。(ほんとに、そうだろうか)」などと議論して、次のようなことが、黒板にかかれた。
 ⑴ ラジオなんか聞いていたり、本なんか読んでいたりすると「わらじでもつくれ」とごしゃかれる。
・・・
 ⑸ ハイハイとなんでもきく子供は封建的な子供だというけれども、ハイハイときかねば生活がますます苦しくなるから、ぜひともきかんなねんだ。
 この五つだった。先生はだまって黒板を見ていた。

 日々の生活の辛さという現実とこうあるべきという理想との衝突を示す一場面です。
 とはいえ、何か気になることがあると、みんなで議論し自分たちとしての考えをまとめていく、この時期、こういう思考様式や行動形式が当たり前のこととして身についているのは素晴らしいことだと思います。

 さらに、川合義憲くんの「くぼ」という作文にはこんなことが紹介されています。
 村の田畑の広さを実際に調べようとして、義憲くんはお父さんから強く止められました。

(p236より引用) 私たちの先生が、はじめてきたとき、
「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない。そして、正しいことは正しいといい、ごまかしをごまかしであるという目と、耳と、いや、身体全体をつくることである。そして、実行出来る、つよいたましいを作ることである。」
と壇の上で、さけんでから、もう一年たった。
 そのあいだ、どんなときでも、先生は、このことを忘れさせなかった。自治会はもちろん、どんなちっぽけなことでも、充分ロンギさせ、考えさせることを忘れなかった。

 そして、先生からそう教わった義憲くんは、お父さんの言葉と対比させて頭を悩ませます。

(p237より引用) はて?
 私は一体何を考えればよいのだろう。
 私は一体どうすればよいというのだろう。
 先生は、
 「ぜったいごまかしがあってはならない。」というし、
 おっつぁは、
 「ごまかしや、ヤミがなければ、今の世の中ではくらしてゆけない。」というし、いったい、何がわるいんだ。

 こういった自律を育む教育環境が大きく影響しているのだと思いますが、佐藤藤三郎くんの「ぼくはこう考える」という作文には、しっかりとした思考と主張が記されています。

(p155より引用) ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だがそんなによくなったにもかかわらず、たった1冊の本を読む時間すら持っていないのだ。これでは私たちがどうがんばってみたところで、本を沢山よみ、上の学校にはいった人から政治をとられるだろう。そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう。そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう。
 あらゆる少年雑誌を見よ!
 あらゆる少年新聞を見よ!
 あらゆる本を見よ!
 それがどうであるというのだ!
 そこにはまったく日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強の計画があるだけで、私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか!

 本書の最後に収録されている藤三郎くんの「答辞」に、山元中学校での彼ら彼女らの成長の証しが高らかに謳われています。

(p300より引用) 私たちはもっと大きなもの、つまり人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。
 ああ、いよいよ卒業です。ここまでわかって卒業です。本日からは、これも先生がしょっ中いっている言葉どおり、「自分の脳味噌」を信じ、「自分の脳味噌」で判断しなければならなくなります。さびしいことです。先生たちと別れることはさびしいことです。しかし私たちはやります。今まで教えられて来た一つの方向に向ってなんとかかんとかやっていきます。
 私たちはやっぱり人間を信じ、村を信じ、しっかりやっていく以外に、先生方に御恩返しする方法がないのです。先生方、それから在校生の皆さん、どうかどうか私たちの前途を見守って行ってください。

 山形の裕福とは縁遠い山村の中学校です。
 日々暮らしに苦労が絶えないような生活環境の中、ここまで自分たちの考えを見事に自信をもって宣言できる生徒たち。素晴らしい、これは本当に “驚き” 以外の何物でもありません。



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