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理不尽に勝つ (平尾 誠二)

(注:本稿は、2020年に初投稿したものの再録です。)

 平尾誠二さんの著作は今までも何冊か読んでいます。

 本書での平尾さんの主張は、“非合理的な「理不尽さ」” も時として必要というところが起点にあります。
 このあたり、昨今の思潮とは異なるものですね。理不尽なやり方は、時折「●●ハラスメント」と命名されて、ともかく避けるべきもの、否定されるべきものと位置づけられています。

 しかしながら、本書では「理不尽をどのように与えるか」という章すら立てられています。さらに「理不尽は、決してなくならない」との章もあります。
 平尾さんは、とてもスマートで合理的な考え方をされる方との印象があり、そのとおりだと思いますが、その考え方は「生の現実」を礎としているのです。それは、「スーパーエリート」だった平尾さん自身が、くぐり抜いてきた「現実の実態」をしっかりと理解しているからでしょう。

 どうせ理不尽さはなくならないなら、理不尽さに対峙したときには、それを “ポジティブ” に捉え「前進するためのエネルギー」にしてしまうこと、さらには、「理不尽さ」を肯定し、求めすらすること。
 表面的な “理想論” で、格差や不平等といった「理不尽」をなくすための処方を説くのではなく、理不尽さを認めたうえで、なお「それでどうするのか」を追求し立ち向かうという姿勢です。
 この方が、理想論を振りかざすよりも数段厳しい道程なのだと思います。

 本書の平尾さんの主張は、ご自身の実体験とご自身の頭で整理された内容なので、第一印象として100%の納得感がないものであっても、一本筋の通ったひとつの大切な考え方として心に響きますね。(それでも、この「理不尽」については、私自身、平尾さんの考えに全て賛同というものではありませんが・・・)

 さて、その他、「理不尽」について以外で、私が同感だと感じた平尾さんの考え方を紹介しているくだりも書き留めておきましょう。

 まずは、「勤勉」「この道一筋」について。
 平尾さんは、その価値は認めつつも、「ただ同じことを長く続けていることが目的化している」のだとすると、それは無意味だと考えています。「変わる」のが当たり前なのです。

(p114より引用) その人が言うには、三十年飽きることなくずっと同じことを言っている人間が多いのに、私の場合、昨日言ったことと今日言っていることが違っても、「だって、考えが変わったんだ」と平気で言う。「そこがすごいし、おまえのいいところ」なのだそうだ。
 たしかに、私はそういうことがしょっちゅうあるし、それは当然のことだとも思っている。なぜなら、時間が経過して、状況が変わったり、自分自身が物事の見方を変えてみたりするのだから、昨日と今日で言うことが違ってあたりまえ。それはより考えが深まったということだから、一種の進歩といえる。昨日と今日で言うことが違うと、「信用できない」となるけれど、私にいわせれば、むしろ同じことを言っているほうがおかしい。

 もうひとつ、「シミュレーションの功罪」について。

(p123より引用) シミュレーションとは、真っすぐ、最短距離で目的地を目指すようなものだ。けれども、道が工事中だったり、塀ができていたりして、横道にそれたり、回り道をしながら目的地に向かうしかないこともある。ところが、シミュレーションし過ぎると、アクシデントに出くわした時、いわば「次善の策」を選択できなくなってしまうのではないか・・・。

(p125より引用) データとは過去の経験値、経験則であるから、それに従っているだけでは新しいものが生まれるわけがないのだ。

 そして、最後に、もう一度、平尾さんが言う「理不尽」について。
 平尾さんは「理不尽」はこの世からなくならないことを前提に、「理不尽は、それに打ち勝つ努力をすることで、人を成長させる」と考えています。

(p221より引用) ただ、その時指導者が絶対に忘れてはいけないのは、いくら理不尽が人を鍛えるからといって、理不尽を与えること自体が目的になってはいけないということだ。
 理不尽を与える目的は、あくまでも「その人間を鍛え、成長させること」にある。鍛え、成長させるための手段のひとつが理不尽を経験させることなのだ。
 だから、手段と目的を取り違えてはいけない。取り違えてしまうと、「理不尽を与えるために」理不尽を強制することになってしまう。

 「理不尽」は “成長のための手段” として意味があるとの信念です。

(ちなみに、本書を読んだのは2度目です。読み終わっても気づきませんでした。最初に読んだ時の感想は、こちらです。)



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