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幸福論 (アラン)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

体の運動

 昨年の未曾有の大惨事を契機に「幸せ」をテーマにしたいくつかの著作が小さなブームになりました。その影響も受けて、以前から一度読んでみなくてはと思っていた著作を、今回手に取ってみました。

 著者はフランスの哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエ、「アラン」はそのペンネームです。

 本書は、フランス、ルーアンの「デペーシュ・ド・ルーアン」という新聞に寄稿した「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関わるコラムを採録したものです。
 興味深い示唆・思索が数多く紹介されていますが、その中からいくつか覚えとして書き留めておきます。

 まずは、不機嫌なこと、暗くなるような辛いことを解消する方法です。
 アランは、頭ではなく身体を使うことを勧めています。

(p48より引用) 気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。

 こういった体を使うことは「礼儀作法」を大事にすることでも満たすことができます。「礼儀作法」は、ある種、動作の型を示したものだからです。

(p61より引用) 礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響力を及ぼしている。優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ。こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。

 このように「情念」のコントロールは「思考」ではできないとアランは考えています。

(p64より引用) むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ。人は欲するようには考えないものだ。・・・不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身の方が責め立てられることになるから。

 「自分の理屈で自分自身の方が責め立てられる」、この指摘はとても示唆的なものですね。思考には際限がありません。考えても考えても、思索の深みに嵌っていくのです。

 しかるに、「人はみな、己が欲するものを得る」という章で語っているようにアランは楽観的でした。しかし、その背景には、大きな前提条件がありました。

(p98より引用) 望んでいるものは何でも、人を待っている山のようなもので、とり逃がすこともない。しかし、よじ登らねばならない。・・・われわれの社会は、求めようとしない者には何ひとつ与えない。辛抱強く、途中で放棄しないで求めようとしない者には、とぼくは言いたい。

 ただし、「求める」とは、単に「そうなりたい」と思うことではありません。思うことと志すこととは全く異なる次元のものです。

(p104より引用) 期待を抱くことは意志をもつことではない。

 意志とは強い決意です。こうありたい、こうなりたいとの決意は、その「望み」に向かう「行動」によってのみ顕れるのです。

(p96より引用) 運命とは移り気なものだ。指先の一はじきでもって新しい世界が出来上がる。どんな小さな努力でも、それをすることで、無限の結果が生まれてくる。

 本気で求めることは、そのための努力を惜しまないことです。どんなことからでもいい、ともかく、まず動き始めることです。

遠くを見る

 本書は、タイトルそのままの「幸福論」だと思って読むとちょっと感じが違うと思うでしょう。幸福も含めた「こころ」「気持ち」についての哲学的エッセイのような風情です。

 たとえば、こんなくだりがあります。

(p171より引用) 幸福は自分の影のようにわれわれが追い求めても逃げて行くと人は言う。しかしたしかに、想像された幸福はけっして手に入れることができない。でも、つくり出す幸福というのは、想像されないもの、想像できないものなのだ。・・・希望などは棚にあげて、信念を持つことである。壊すこと、そしてつくり直すこと。

 アランは、「思考」の中で「幸福」を論じることを是としてはいないようです。「考えよう考えよう」とすると、かえってその思考の虜になってしまって、結局のところ「幸せになるにはどうすればいいのか」と問い続けてしまう、すなわち、際限のない思索の谷間に落ち込んでいくとの危惧を抱いているのです。
 それ故に、本書に採録されている多くのコラムでは、アランは、あえて行動や体の動きという視点から、幸福の実現を語っています。

 幸福ではない状態のひとつは「憂鬱」です。アランが勧める憂鬱から脱する方法も、やはり「思考」ではありません。

(p172より引用) 憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。人間の眼はこんな近距離を長く見られるようには出来ていないのだ。広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼は安らぐのである。・・・自分のことなど考えるな、遠くを見るがいい。

 「遠くを見る」というのは思考スタイルの比喩ではありません。真に、夜空の星や水平線といったような遠くの風景を見ることが、思考の狭窄から心を解放させることになるとの論なのです。

 ともかく、頭を使うことより、行動です。
 その点では、読書に解決策を求めることも、アランは否定します。

(p173より引用) 書物の世界もまた、閉じた世界、あまりに目に近い、あまりに情念の近くにある世界なのだ。思考がとらわれて、身体がうめく。なぜなら、思いが縮まるということと、身体が自分自身とたたかうこととは同じことであるから。

 本書の最後のあたりに「幸福になる方法」というタイトルの章があります。ここに記されている「方法」とはこうです。

(p307より引用) そのための第一の規則は、自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。・・・自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ、つまり結局のところ、人に不快な思いをさせるだけだ。

 苦しみを語ることは、人に嫌な思いをさせるとともに、自分自身もそれだけ長く不幸を感じ続けるということなのです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 こういったコラムが新聞の連載になるというのも、すごいことですね。そもそも新聞というメディアの位置づけが今と異なっていたのかもしれませんし、その当時の世情でもあるのでしょうね。
 私レベルの知識と感性では到底全編頭に入ったとは言えませんが、確かに深遠で興味深い内容のものが数々ありました。

 とてもユニークな著作だと思います。



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