幸福論 (アラン)
(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)
体の運動
昨年の未曾有の大惨事を契機に「幸せ」をテーマにしたいくつかの著作が小さなブームになりました。その影響も受けて、以前から一度読んでみなくてはと思っていた著作を、今回手に取ってみました。
著者はフランスの哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエ、「アラン」はそのペンネームです。
本書は、フランス、ルーアンの「デペーシュ・ド・ルーアン」という新聞に寄稿した「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関わるコラムを採録したものです。
興味深い示唆・思索が数多く紹介されていますが、その中からいくつか覚えとして書き留めておきます。
まずは、不機嫌なこと、暗くなるような辛いことを解消する方法です。
アランは、頭ではなく身体を使うことを勧めています。
こういった体を使うことは「礼儀作法」を大事にすることでも満たすことができます。「礼儀作法」は、ある種、動作の型を示したものだからです。
このように「情念」のコントロールは「思考」ではできないとアランは考えています。
「自分の理屈で自分自身の方が責め立てられる」、この指摘はとても示唆的なものですね。思考には際限がありません。考えても考えても、思索の深みに嵌っていくのです。
しかるに、「人はみな、己が欲するものを得る」という章で語っているようにアランは楽観的でした。しかし、その背景には、大きな前提条件がありました。
ただし、「求める」とは、単に「そうなりたい」と思うことではありません。思うことと志すこととは全く異なる次元のものです。
意志とは強い決意です。こうありたい、こうなりたいとの決意は、その「望み」に向かう「行動」によってのみ顕れるのです。
本気で求めることは、そのための努力を惜しまないことです。どんなことからでもいい、ともかく、まず動き始めることです。
遠くを見る
本書は、タイトルそのままの「幸福論」だと思って読むとちょっと感じが違うと思うでしょう。幸福も含めた「こころ」「気持ち」についての哲学的エッセイのような風情です。
たとえば、こんなくだりがあります。
アランは、「思考」の中で「幸福」を論じることを是としてはいないようです。「考えよう考えよう」とすると、かえってその思考の虜になってしまって、結局のところ「幸せになるにはどうすればいいのか」と問い続けてしまう、すなわち、際限のない思索の谷間に落ち込んでいくとの危惧を抱いているのです。
それ故に、本書に採録されている多くのコラムでは、アランは、あえて行動や体の動きという視点から、幸福の実現を語っています。
幸福ではない状態のひとつは「憂鬱」です。アランが勧める憂鬱から脱する方法も、やはり「思考」ではありません。
「遠くを見る」というのは思考スタイルの比喩ではありません。真に、夜空の星や水平線といったような遠くの風景を見ることが、思考の狭窄から心を解放させることになるとの論なのです。
ともかく、頭を使うことより、行動です。
その点では、読書に解決策を求めることも、アランは否定します。
本書の最後のあたりに「幸福になる方法」というタイトルの章があります。ここに記されている「方法」とはこうです。
苦しみを語ることは、人に嫌な思いをさせるとともに、自分自身もそれだけ長く不幸を感じ続けるということなのです。
さて、本書を読み通しての感想です。
こういったコラムが新聞の連載になるというのも、すごいことですね。そもそも新聞というメディアの位置づけが今と異なっていたのかもしれませんし、その当時の世情でもあるのでしょうね。
私レベルの知識と感性では到底全編頭に入ったとは言えませんが、確かに深遠で興味深い内容のものが数々ありました。
とてもユニークな著作だと思います。
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