戦争と検閲 ― 石川達三を読み直す (河原 理子)
(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)
夏になると「戦争」に関する本を1冊は読もうと思っています。
そんな中、いつも行っている図書館の新着本の棚で目についたので手に取ってみました。
著者の河原理子さんは朝日新聞の記者とのこと、ある取材で石川達三氏の子息である石川旺さんと出会ったのが本書を記すきっかけになったそうです。
発禁処分を受けた「生きている兵隊」という石川達三氏の作品を材料に、当時の言論統制の実態を顕かにしていきます。
石川達三氏が起訴された罪名は「新聞紙法違反」でした。
1909年に公布された新聞紙法第23条には、
と定められており、同第41条には「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル」事項を新聞紙に掲載した発行人・編集人に対する罰則が規定されています。
もとより、ここでのポイントは「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル」事項の定義であり、その実運用の主体及び適用の実態です。
たとえば、1937年盧溝橋事件の直後には、具体的適用のため「標準」が示されました。こういった行政的指導によって、言論統制の範囲は、時局の緊迫化に呼応しつつ明確な意図をもって拡げられていったのです。
ともかく、国民の戦争遂行意欲を減退させるような軍部にとって都合の悪いことは知らしめない、こういった情報統制によって国民を判断停止状態に留め置くという為政者の志向はいつの時代にも少なからず存在します。
新聞紙法の公布は明治42年(1909年)、その前身の新聞紙条例は明治8年(1875年)の公布ですから、言論統制や検閲の下地は、西欧思想が導入され文明開化で沸き立つ明治初期から始まっており、長い期間を経て着々と塗り込められていったのです。
こういった流れに抗するのがジャーナリストであり作家の役割なのですが、当時は石川達三氏ですら、こういった心境だったのです。
時局がら止むを得ない面もあるのでしょうが、危うい良識の綱渡りです。
さて、戦時下において政府・軍部によって抑圧された「言論の自由」ですが、終戦後速やかに、GHQの指導により、制限を可能としていた各種法令の廃止が為されました。
しかしながら、その実態はというと、為政者の交替はあったものの、新たな為政者の望む方針に沿った水面下での情報操作の動きが続いていたようです。
高見順は「敗戦日記」の中で、
と記しています。
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