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建築家、走る (隈 研吾)

(注:本稿は、2020年に初投稿したものの再録です。)

 変わったタイトルの本ですね。
 今回の東京オリンピック開催にあたっての新国立競技場の設計者としても有名な隈研吾さんの自伝的エッセイです。

 建築家に至るまではオーソドックスなキャリアを歩み、主な経歴や実績だけを辿ると順風満帆のようにみえる著者の半生ですが、実際は、それこそ「走り回った」山あり谷ありの様相だったようです。
 そして、その過程で著者が経験し感じたことは、私にとっても刺激的な気づきになりました。

 たとえば、中国での仕事を通して知った「大人のロジック」について。

(p35より引用) 歴史的建造物の保存でも同じことです。中国ウン千年の歴史のゆえか、中国の官僚は「大人」のロジックで社会をたくみに誘導します。都市に高層ビルが建たないような都市計画では、中国の経済成長を継続できません。高層ビルを建てながら、その中に文化的な歴史を保存する方策を必死で探します。やみくもに原理主義に走らず、理想と現実の間、理想と欲望の間を、うまくパランスさせようとする意思がある。それがつまりは大人のロジックです。
 対照的に、日本の建築保存運動は、保存運動そのものの歴史がないから、都市の長期的オペレーションの手段としての保存という、「大人」の論理にはなかなか到達しない歯がゆさがあります。

 超中央集権国家の中国ですが、それゆえに「政策の柱」になる思想は徹底しています。

 もうひとつ、「歌舞伎座改築プロジェクト」で気づいた隈さんの覚悟について。

(p79より引用) 歌舞伎座のプロジェクトでは、お上との齟齬があったおかげで、設計チームの結束が一気に強まりました。「唐破風の屋根をはずして、わかりやすいハコにしなさい」といった、思わぬ提案をお上からぶつけられたおかげで、自分たちが本当に何を実現したいかが見えてきた。要するにぼくらは、この東京の中ではまったく例外的な、特別な形態、特別な場所を継承したいのだ、ということがはっきりわかったのです。・・・
 自分の内にある、建築の理想を極めたい気持ちと、あらゆる人たちの思惑が渦巻く現実とのジレンマを乗り越えていく方法は、単純です。作っている行為自体を楽しめばいいんです。作ることは楽しいし、誰かと一緒に何かを作ることはもっと楽しい。
 そのためには、世間から何をいわれても、「俺たちは、本当にいいものを作ろうと思ってやってきている」と胸を張れる仲間を作ることです。「自分たちを取り囲む条件の中で、これ以上のものはできない」と、いい切る努力は、仲間となる上での前提です。「俺」ではなくて、「俺たち」で作っているという実感。それがあるから、何をいわれても、何とかやっていけるのだと思います。

 このあたりの高揚感は、“さもあらん”と感じ入りますね。

 さらに、面白かったのが、モダニズム建築の巨匠と言われるル・コルビュジエの著者の評価(意味付け)を語ったくだりです。

(p100より引用) どうしてコルビュジエがサヴォア邸で、ピロティ建築の理屈をひねくり出したか。その手法だったら世界のどこでも通用したからです。場所と建築を切り離しさえすれば、アメリカでもインドでも、どんなところでも建てることができる建築の手法を、彼は早い時期から敏感に見抜いていたのです。
 どこでも通用するとは、つまり商品としてたくさん売れることです。その意味で、彼はマーケティングの天才でもありました。コルビュジェは、建築に「商品性」という新しい概念を導入したのです。

 痛快でとても納得できる指摘ですね。

 さて、最後の覚えは、本書を通じて現れ出た著者隈研吾さんの生き方のポリシーです。

(p236より引用) 今、ぼくの中では、自分の名前を残すというより、後世でも愛され続ける建築を作りたいという気持ち、楽しい人たちと一緒に楽しく仕事をしたいという気持ちが一番強くなっています。建築は形がはっきり見えるものですから、建築家は結果至上主義者と人には思われるかもしれませんが、世界中で切った張ったをやり続けるうちに、「楽しさ」という基本が一番大事なんだと、今更ながら気づきました。

 “「信頼し合える仲間」と建築という協業プロセスを「楽しむ」こと”、いいですね、素晴らしいですね。



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