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動物たちは何をしゃべっているのか? (山極 寿一・鈴木 俊貴)

(注:本稿は、2023年に初投稿したものの再録です。)

 いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。

 霊長類学者の山極寿一さん若手動物言語学者の鈴木俊貴さんとの対談ですが、タイトルをひと目見て惹き付けられました。

 類人猿や鳥類をはじめとしたさまざまな動物のコミュニケーションの最新研究成果から「ヒト」という生物の本性まで興味深い話題が尽きないのですが、それら中から、私の関心を惹いたくだりをいくつか覚えとして書き留めておきます。

 まずは、「Part2 動物たちの心」の章から。
 鈴木さんの研究対象であるシジュウカラの鳴き声には、「単語」としての意味だけでなく、「文法」(語順による意味の違い)も存在するとのこと。これには大いに驚かされましたが、さらに、それを証明するための「実験」の構成がとても面白いものでした。ちょっと長いのですが引用しておきます。

(p65より引用) 鈴木 ・・・すなわち、シジュウカラの鳴き声にも、「警戒が先、集まれが後」というルールが あるんです。
山極 なるほど。ではそのルールを破ると......?
鈴木 そこが重要なポイントです。このルールを破っても意味が通じるなら、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」は「ピーッピ」と「ヂヂヂヂ」を続けて鳴いているだけで、文ではない。でも、ルールを破ったときに意味が通じないなら、それは文法があることを意味する。
 実験で、シジュウカラに「ピーッピ・ヂヂヂヂ」という正しい語順の鳴き声を聞かせると、警戒しながらスピーカーに近づいてきました。しかし、ルールを破った「ヂヂヂヂ・ピーツピ」を聞かせると、シジュウカラはそんなに警戒しないし、スピーカーにもほとんど近付いてこなかったんです。
 つまり、シジュウカラはきちんと語順を理解して、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」=「警戒して集ま れ!」であることを理解したということです。

 理に適った “比較実験” なのですが、仮説設定の着想も含めよく思いつくものだと感心至極です。もちろん、研究者としては「持っていて当然」の素養なのだと思いますが。

 もう一点、「Part4 暴走する言葉、置いてきぼりの身体」の章から。
 ネット空間上のやり取りやAIとの対話が急速に進展している現代社会の行き様を憂える二人の議論です。

(p205より引用) 山極 しかし、仮想空間やAIには、感情や文脈はありません。巧妙に、あるかのように見せかけてはいるけれど、ない。すごく自然にしゃべっているように見えるAIも、言語と論理によって成り立っている計算機に過ぎない。
 私はそれが怖いんです。
 巧妙に現実世界を模倣しているけれど、実は言語化できない感情や身体性を切り捨てている仮想空間やAIが存在感を増すと、我々人間の脳もそちらに引っ張られて、感情や身体性を捨てることになるんじゃないのかと。
鈴木 たしかに、AIに頼ることで、言語の出現によって生じた問題がさらに加速するようなことがありそうですね。共感のない時代、言語化されたルールだけを重んじて文脈をおろそかにする時代……。

 合理性や論理性が最優先される社会の恐ろしさは、古くは「2001年宇宙の旅」を嚆矢としてSF映画で描かれる代表的なモチーフです。
 それが急速に “フィクション” ではなくなりつつあるのが現代だとすると、そこには、そういった流れを押し止め冷静に振り返る何某かの緩衝材や中和剤が必要となるように思います。
 それとも、そういった対応が為される前に “シンギュラリティ” に到達してしまうのでしょうか・・・。

(p205より引用) でも、僕たちが持っている感情こそ、大切な基準なのではないでしょうか。僕たちにその感情が宿っているということは、それが長い進化の歴史の中で維持されてきたということですから。

 危惧すべき合理性に勝る価値基準について、鈴木さんはこう語っています。

 さて最後に、本書を読み通しての感想です。
 一言、“面白かった”ですね。人間社会のコミュニケーションの将来をあれこれ考えるに、とても示唆に富む刺激的な対話集でした。



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