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大豆田とわ子を見た後の時間

盛大にドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」のネタバレをこれから書きます。
なんらかの事情で第5話まで見ていて、第6話以降を見ていない人は今すぐこのnoteを閉じてください。坂元裕二脚本のドラマは第6〜7話で一気に物語が予想外の展開になることが多く、このドラマもそうです。
ドラマを見てない人は読まなくてもいいし、サラーっと呼んでもらって良いです。私と親友しめちゃんの話です。

涙が止まらない。
ドラマや映画を見ながら泣くことはこれまでもよくあるし、泣いてスッキリするカタルシスを得たくてドラマを見て泣いてる時もある。ストレス解消にもなるし、あえて泣けそうなのを選ぶ時もある。だけど、あからさまなお涙頂戴系は忌み嫌い、こんな安っぽい仕上がりで私が泣くとでも思ってんのかと勝手にドラマの制作陣にキレることもある。
そんなドラマフリーク人間の私であるが、
大豆田とわ子(ドラマのタイトルが長いので以下略)のドラマは、私がこれまで40年近く見てきた数々のドラマの中でも、少し毛色が違う、どうにもこうにも泣けてしまうドラマである。
それは、見てる最中よりも見終わってからのふとした時にドラマを思い出して、泣けて泣けて仕方ないという現象。6話と7話に限るけど。
翌日の昼間のコンビニでドラマのことを思い出して泣けてしまったり、コロッケ屋を通ると泣けたり、私はどうしちまったのかというくらいあちこちでドラマを、大豆田とわ子のことを想い出して泣けた。
それは、ドラマが素晴らしいせいというのはもちろんある。セリフ全てが素晴らしいし、何もかも私好み。坂元裕二に弟子入りしたい。だけどそれだけじゃない。私の個人的なライフイベントを大豆田とわ子に投影し過ぎてしまっているのが原因である。



松たか子演じる大豆田とわ子と、市川実日子演じるかごめちゃんの友達同士、馴れ合う訳でもなく、全然違う2人が理解し合っている姿も、わちゃわちゃしているシーンも好きだった。
そして、かごめちゃんが目標を見つけイキイキとした姿を最期に、突然亡くなってしまった6話。
亡くなるシーンも映さないし、市川実日子も2度と出てこない。とわ子は、淡々とかごめちゃんのお葬式の花を選んで、葬儀の音楽を選び、涙も流さない。「家に帰って1人で食べたお茶漬けのわさびは少々効きすぎたかもしれない」という伊藤沙莉ちゃんのナレーションのみで1年後に飛び、日常が続いていて、毎日仕事をこなし、生活が続いている。誰の前でも泣いていない、泣けていないままの1年後。


これは私だと思ったし、私たちだと思った。
しめちゃんと私の両方の親友だったあの子を亡くした時間をドラマで追体験しているのだと私たちは気づいてしまい、キツかった。

「大豆田とわ子見た?」のLINEがしめちゃんから必ず火曜の21:54に届く。面白いドラマの時は大体そうしている。私は仕事で帰るのが遅いので、「追いかけ再生をしているから45分待ってて」と返事し録画した大豆田とわ子を見る。そして見終わってから、しばらく2人でLINEのやりとりをするのが常である。
それまでの1〜5話、いや6話の40分くらいは笑って見ていたし、大好きなドラマであることは間違いなかったが、後半そこまで面白くなるのか少し不安というか先の読めなさはあった。
それなのにあんな展開。
幼馴染で親友のかごめちゃんが突然心筋梗塞で死んでしまい、ともう、ここでそう書くだけで泣けてしまう。
ちなみにドラマでは6話で「親友を亡くした大豆田とわ子、こんなことがあった」みたいなあっさりしたナレーションのみで、死に顔も亡骸にすがりつくシーンももちろんない。
昨日の7話は1年後に飛んでいて、ドラマの間中、泣きっぱなしで胸が苦しかった。悲しいシーンなどほぼない。誰かを亡くした後の現実もそうだからだ。ただの日常のシーン(まあ、ラジオ体操でオダギリジョーと出会うなんて日常はどこにも存在しないが)で、仕事で大変だったり、シナモンロールを買ったり、バスに乗ったり。そんな連続。それなのに泣けた。

ちゃんと会社勤めができない自由なかごめちゃんが、社長業が辛いと言うとわ子に、「あなたみたいな人がいるってだけで自分も社長になれるって小さい女の子がイメージ出来るから、それはあなたがやらなきゃいけない仕事だよ」と諭していた過去のシーンを私は勝手に頭で思い出す。
私も「のりまきちゃんにはのりまきちゃんにしかやれない仕事があるよ」「のりまきちゃんはなんでもできるよ」「のりまきちゃんを待っている人や必要としてる人がいるから、そこで頑張り」とあの子に言われた言葉だけを支えに、あの子が亡くなってから仕事を普段通り続けていた日々のことを思い出す。その言葉は、支えでもあり呪いでもあった。
私の親友がガンになって死んだことで、自分や人の健康をとても気にして心配するようになったことも重なる。
私としめちゃんが2人で会えば、しょっちゅうガン検診のことを話題に出すし、最近病院にかかったことを報告し合うが、それはただの40代中年女性としてのよくある会話ではなく、深い意味を持ってしまっている。
ずっと一緒にいたのに、あの子の健康面での異変を早く気づいてやれなかったことへの後悔は、私から消えることはない。
しめちゃんは、私と違って最後の方のあの子の闘病中に会えていなかったから、突然親友がこの世から消えてしまったという、私とは違うショックが当時あった。しめちゃんはあの子とケンカした後悔を多分一生消せないでいると思う。
「どこに行ってしまったんだろう、何を思ってたんだろう、本当にどこに行ったの?」というドラマの中のとわ子のつぶやく言葉と、しめちゃんが過去に私に何度も話してくれた本心の気持ちとが重なる。

私の方は15年も前のことなのに、辛い気持ちは鮮明に思い出すし、親友を亡くした後の時間のこと、日々のことが、全くその通りだったなと思うシーンの連続で辛かった。
ドラマの中で特にキツかったシーンが、道行く知らない女性2人組が楽しく喋りながら歩いていて、1人の自分と通り過ぎていく時の辛さ。
これが本当に辛くてたまらないし、あんたたちもどちらか一方の友達を失ってみればいい、地獄だよ、と見ず知らずの何の罪もない女性ペアを恨んだこともある。とわ子は私ほど性格が悪くはないからもちろんそんなことを思ってないと思うが、当時の私は荒みまくっていて、笑っている人たちはもれなく全員憎かったし、どうしてこの人たちは死なずに笑えていてどうしてあの子が死んだのか本当に意味が分からないなと思っていた。
また、これもキツイシーンだったのだが、当人のことをよく知らない人が、「亡くなった友達」というワードを使って、悪気なく突然話題に出してくる無神経さとか。それに顔色一つ変えずに対応するとわ子というか松たか子の演技とか。
全く私と同じだと思った。
とわ子と違うのは、私は、話題として何も疑問に感じずに「亡くなった友達」というワードを普通の会話に入れ込んでくる人に対しては、私は心の中で「人の心の痛みに鈍感な人間」というチェックをもれなく入れていた。普通に会話に出されるたびに私の心がどうなるのか予想できない人たちに対して、誰であれ、この件に関しては心を開かないと決めていた。私は普通に仕事も遊びも生活をやれていたので、予想できない人がほとんどだったが。
かごめちゃんのことを思い出さない時もあって、あ、今忘れてたなと思うドラマの中のとわ子。
私たちもあの子を亡くして15年経って忘れてしまっていることも増えたし、思い出さない日もある。そのことへの後ろめたさもなくはない。
よく座っていたイス、食べていたコロッケ、言われた言葉、出られなかった電話。
ドラマの中の全部が全部、私が通ってきた体験だったし、しめちゃんが耐えた体験だった。
平気な顔して仕事をして人と会って大笑いもするけど、常にずっとどうしようもない喪失感がある感じ。
私もしめちゃんも正直、生きてても楽しいことなんてもう何もないくらいに思っていたし、「誰にも話せない。すごく孤独。こんなんだったらそっちに行ってあげたいよ」ってドラマの中で口にしたとわ子と同じように思っていたし、それをみじんも出さずに蓋をして生活する日々が私たちにもあったこと。

追体験がキツすぎて、しめちゃんと私は、ドラマの後に支え合わずにはいられなかった。
埋まってはいないし、埋まるはずのない喪失感の穴に蓋をしているだけの私たちは、ちょっと風が吹くと蓋が飛んでいってしまうような危うさがあり、大豆田とわ子のドラマはすごい風速で私たちの蓋を飛ばしてしまった。
2人で急いで蓋を閉めないと、喪失感に飲み込まれてしまう。
オダギリジョーがパリッとしててもボサッとしてても何しても格好いいという話をしたり、東京03の角ちゃんの芝居のうまさについて語り合って紛らせている。
オダギリジョーが話した、過去は過ぎ去ったものじゃなくて場所が違うだけとかいう、うろ覚えだけどそんな感じの時間に連続性はないみたいな概念の話とか、子供の頃に一緒にいて笑っていたかごめさんは、亡くなっても過去のそこで今も笑ってるんだという捉え方とか「亡くなった人を不幸だと思ってはならない」「生きている人は幸せを目指さなければならない」というシンプルな2つの大切なこととか、色々考えさせられた。オダギリジョーが、友達のことを「好きな人」と表現してくれたのもとても温かい気持ちになった矢先のあの驚きの展開。感動では終わらないこのドラマのクセの強さ。おかげで涙は止まったけども、坂元裕二には毎回とことんやられている。来週も楽しみだ、と私もしめちゃんも涙を拭いて気持ちを入れ替えることができた。

ドラマの中で3人の元夫たちは、とわ子に対してみんなそれぞれ優しく気にかけてくれていた。しかし、とわ子が色んな人に「元気?体に気をつけてね」というメッセージを伝え続けていたのに誰もとわ子の孤独をちゃんと向き合って受け止めてはくれていなかった。松田龍平だけが「元気?」ととわ子の方に静かに聞いてくれた。(しかし松田龍平のことは全くタイプではないし、格好いいと普段思っていないのだが、ドラマになるとたまらなく色気がもれるのは才能だろうなと思う、余談だが。)
かごめちゃんの名前を口に出さずにいてくれて、「ごめんね」とも口にして、それだけで泣けた。龍平もかごめちゃんの死に対してとわ子と同じくらい傷ついているから言えたのだと思う。
心の狭い私は、これは同じ気持ちでいる人間からしか言われたくないタイプの言葉だなとも思う。
しめちゃんがLINEで私に「のりまきちゃん、野菜食べや」と送ってきてくれたので、私もしめちゃんに「しめちゃん、ちゃんと寝てや」と送り返した。
私たちの喪失感の穴は、お互いの健康を気遣うことでちゃんとまた蓋できたような気がした。うまく隠せているから、きっと大丈夫だと思う。
とわ子と違って私には3人も元夫はいないし、オダギリジョーと出会ったりはしないが、同じ穴を持つ友達がいることは本当に救いだと今日も思ったし、昔より性格がマシになっている私は、好きな人たちには、ずっと健康でいてほしいと今は心から願っている。




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