日沼 紀子 スパイス調合師/スパイス料理家
2017~2021年に山陽新聞で連載していたエッセイに加筆訂正したものです。
●香りの記憶 香りのレシピ 2017~2021年、山陽新聞で連載していたエッセイを手直ししたものを上げています。無料マガジンです。 ●その他 思ったことや書きたいことなど、有料無料でバラバラとアップするかもしれません。
はじめて彼女がお店にきたときのことを覚えている。冬にはまだ早く、テラスには犬の散歩をする途中に立ち寄る常連さんたちがいて、わたしは彼ら(犬たちも含めて)とおしゃべりしながら、コーヒーを淹れていた。ざわざわする店内で、彼女の周りだけ、時が止まったように静かだった。すっと伸びた背筋、品のある装い。ほとんど白髪に近い髪はゆるくしかし上品にまとめ上げられていた。席につくと手袋をぬいで、赤ワインを注文した。 ビーフシチューを煮た日で、店内にはお肉の食欲をそそる香りとクローブの甘い香り
何日も雨が続いている。都会の雨と違って田舎の雨は、しとしととやさしく木々を濡らし、憂鬱よりも先に穏やかな心地を連れてくる。どろんこ道も、水たまりも、長靴をはけばへっちゃら。これは、雨の日に弾んだ気持ちを抑えられず転げるように外に飛び出していく息子から教わったことだ。 しずかな雨には、煮込み料理がよく似合う。来る冬に“能動的に”備えている、という思い込みが充足感をもたらしてくれるし、部屋に満ちる湯気とおいしい香りは、冷えた身体と空腹、憂いや疲れなど、一日を過ごして溜まった色々