ハーブティー研究家/植物養生研究家 赤川典子

鎌倉在住 「植物の生き方を人の暮らしに編集する人」 自然界のサイクルにあった二十四節…

ハーブティー研究家/植物養生研究家 赤川典子

鎌倉在住 「植物の生き方を人の暮らしに編集する人」 自然界のサイクルにあった二十四節気の暦と、植物から感じながら暮らしている。 季節の巡りを見立てたオリジナルのハーブティーを制作。 ▶︎暦と薬草| Soel soelherb.base.shop

最近の記事

「おいしい」は進化する

あなたは、何をしている時が幸せ?と聞かれたら、どう答えますか? 「美味しいものを食べているとき」と答える方も少なくないのではないでしょうか? 私も、「美味しいものを食べる」って、人生の中の優先順位も高いし、幸せだなって思える瞬間の一つだと感じています。 「美味しい」は育てられる人はこれまで数多くの危機や環境の変化に適合してきました。 現代のように、食べ物だって安定して食べられる状況にあったわけでもありません。生き残るためには、その時に応じて、色々な物を食べる必要があり

    • ハーブの魅力について考えてみた

      寝ても覚めても、毎日ハーブのことを考えています。 もちろんずっと考えているわけではないけど、頭の隅っこの方に、ぼんやりといつもハーブがある感じ。 なぜこんなに薬用植物に惹かれるのかなというのも、いつも考えていることのひとつで、気がつけば、ハーブの世界の何がここまで私をひきつけるのだろうと思いを募らせています。 ふと浮かんだ、その理由の一つを今日は言葉にしてみたいなと思います。 茶道とハーブには共通点があるかもしれない。私は、ハーブの他に、日本の文化である茶道の世界にも、

      • 3/23(木)春分のお茶と香油イベント開催

        植物の生き方を学ばせていただいている、Kigiの波多野ゆふさんとご一緒に、ワークショップを開催いたします。 古来から、人々は色々な方法で季節を感じる暮らしを大切にしてきました。 季節や自然を愛でる日本庭園を初め、茶道文化でも、外の景色を茶席に移します。 人は自然を感じ、季節が移りゆくさまに、安堵を感じ日々の喜びと癒しとなることを知っていたからなのだと思っています。 今回のワークショップでは、季節を感じることを忘れがちな現代の暮らしの中で、ふと自然を思い出せるようなプロ

        • 植物が教えてくれる優しい生き方

          春の花が次々と咲いて、外にでるだけで、幸福感に溢れる春の気配を感じています。 季節は雨水。 冬の固い土に水分が含まれて、土の中の生き物たちも動き始めます。 植物学を研究している先生と、街をあるくと、世界を見る目が変わってくるのですが、 植物は、虫や鳥を呼び、受粉を手伝ってもらい、命を繋ぐことを、生存戦略として選んだ そして、虫や鳥の栄養となる成分を作り、お礼としてお返しをする。 なんて優しい生き方なんだろう。 きっとこれからの時代は、植物から生き方を学ぶことも必

          立春の養生茶「春の憂」

          さむくて、いろんなことが捗らない毎日ですが、それもそれで、冬らしい毎日です。 ようやくまとまった、立春の養生茶は、滞りなく明日販売開始ができそうです。 ヨーロッパでは、昔から欠かすことのできない植物だったそうで、昔々の春季療法のレシピにもメインの植物として登場する、ネトルという植物をベースにブレンドしました。 ネトルは、血液浄化の作用が期待できるハーブで、春のムズムズとした季節にも、その成分は有効と重宝されているます。 ネトルの他には、爽快感のあるペパーミント、風の引き

          鬼も、福も

          2月3日節分 節分は、季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日で雑節のこと。 その昔は、季節ごとに節分という季節の節目を大切にしていました。現代では、その中でも代表的な2月3日を「節分」と呼んでいます。 落とすべきものを落として、季節をまたぐ日。 鬼とは、なにか鬼というものは、一体なんだったのか、これまで深く考えることもありませんでしたが、今年の節分を迎えて、鬼というものが、一体何だったのかと、無性に気になってしまいました。 鬼というものは、怪物の一つではな

          曼珠沙華の咲くころ

          彼岸花と呼ばれる、曼珠沙華の花が今年も一斉に咲き始めました。 曼珠沙華の花が咲くのは、わずか1週間の間。 その間に私たちの体も意識も、夏から秋へと、すっかりと移っていくのだから不思議なものです。 曼珠沙華の花を見ると、どうしてか懐かしい思い出に記憶がタイムスリップしてしまいます。 祖母との思い出や、幼かった頃のこと。 先祖を敬う彼岸の頃にさくこの花には、もしかしたら特別な力が備わっているのかもしれないなと、今年も少し足を止めて、過ぎた日々を思い出しています。

          風に揺れる秋の草花

          今年の夏はとにかく暑い夏でした。 こんなにも夏が暑くなったのは、一体いつからなのだろうと毎年思いながら、地球の危機を感じ、人の暮らしの在り方を、改めて考える夏となりました。 暑い夏の日差しの中に、冷たさの混じった風が吹き始め、「あれ?なんか涼しいな」と、僅かな風の変化が、毎年変わらず秋の知らせを届けてくれて、あたりを見回せば、秋の草花がめに止まる季節に変わっていました。 ススキに、萩の花、オミナエシ。 華美な華やかさはないけれど、線の細く楚々とした美しい草花たちは、秋

          思い出して

          神様から授かった 私の足は 大好きな人に会いに行くために 大好きな場所に行くために 私の手は 大好きな人に触れるために 自分を温めるために 私の耳は 美しい声を聞くために 優しい歌を聴くために 私の声は 優しい声をかけるために 深い愛を伝えるために 大切な事なのに 忘れてしまいそうになるけれど 思い出すたびに涙があふれるほど 命は尊くて 果てしなく愛に溢れている そして私も、あなたも そういう存在なんだ

          子供の頃に好きだった、「夕涼み」のあの時間を

          梅雨らしく雨が続いています。太陽がのぞけば、もうすっかりと夏の気を感じるほどになりました。 一年がすでに折り返しを迎えたのですね。 私が子供だった頃のなつとは、様相の変わった夏ですが、それでも私は、夏という特別な季節が、いまでも大好きです。 1.記憶の中の美しい夏の刻 昔の夏といえば、夜になると、日中とは違い、少しだけ涼しさが戻ってきたものです。 「夕涼み」という、涼やかな響きの言葉もあるくらい、過ごしやすく、体のほてりを癒す時間帯というものが存在していました。 私

          子供の頃に好きだった、「夕涼み」のあの時間を

          見たい景色は自分から産まれる

          am7:30 主人が久しぶりに会社に出勤する。 朝から出社するのは何か月ぶりの事だろうか。 ここ数か月の間、朝はゆっくりと迎えていたものだから、余計に忙しなさを感じながら、朝の支度をすすめていく。 そんな余裕のない、1日の始まりのくせに、自粛前にはなかった、朝の習慣を1つ追加してみた。 新しい習慣 マイボトルにお茶を用意するということだ。 当たり前の日常にあった、カフェや、外でランチも、今だけは少し慎重になってしまう。込み合う時間は、きっと重なるだろうから、都会でのそ

          芽生えた気持ちに素直になる

          いわゆる自粛期間というものを経験して、何も予定を入れない月日を経験した。 今までは、朝7:00には必ず起きて、夜は20:00頃に帰宅するという、日本では珍しくないスタイルで、週に5日働いていた。 違和感は唐突に朝の気配が残る時間帯に電車に乗り、夜はもう暗くなり、電灯無しでは歩けない程度の暗さだ。 それでも、過重労働などと呼ぶには、きっと大げさなくらい、一般的な労働スタイルだと思う。 だからこそ、違和感を感じることもなく過ごしていた。 自粛期間中は、この朝7:00から

          繋がる時間の作り方

          ここ数か月の自粛期間を経て 久しぶりにお茶を囲んだ。 少人数で、静かに始まるお茶会 鉄瓶でぐらぐらと煮立つ水の音が聞こえる お湯の湧く湯気の、ほんのりと伝わる 水蒸気の立つ しっとりとした空気 久しぶりに味わう お茶の時間を愉しむだけの時間 自分の感受性を高めて 五感を磨く 香木を焚いて お茶を味わい よけいな事を考える必要もなく 堪能する そして、こころの緩んだこの時間は、人との心の距離も縮めてくれるから、不思議。 堅苦しいことは抜きにして、自由に、お茶を囲

          ことばの力

          「必ず」という言葉を最近使わなくなった。 いつの日だったのか、覚えてはいないけれど、「必ず」という言葉に秘められた強さを、しみじみと感じたから。 言葉を選ぶという事自分において、この言葉を使う時は、 それは強い決意に変わったりだとか、 自分への誓いを、肝に据えたい時だったりだとか、 きっと強さを味方にして、自分の人生を生きていこうと、希望や期待を含んだ時に使う言葉なのだと思う。 言葉というのは、 使うシーンが変わると、その景色は、一変してがらりと変わることがある。 そ

          手のひらから、零れゆくもの

          「今までできていたことが、できなくなりました」 成長曲線の下り坂に入り始めたとき、それを直視することは、とてつもなくつらい事なんだろうと、若かりし頃の私はいつかくる老いへの恐怖を想像していました。 こんな言葉を使うときの私は、きっと自信を失い、失望し、未来への希望が見えなくなるのだと思っていた。 思っていたよりもずっと早く私はこの言葉を使うことになりました。 今まで当たり前のように出来ていたことが、突如として、できなくなってしまったのだ。 以前の私といえば、自分で言う

          巡るものには寄り添って生きる

          雨の降った夜は、少しだけ早く起きてみたいと思っています 雨上がりの翌朝は、雲が生まれるのを眺められるから 大きな雲に、霞がかかり、雲が生まれてゆく、壮大で神秘的な営みを目の当たりにしながら、生き方の指南を受けているような気持ちになります 自然には逆らえない。 逆らうどころか、一刻だって、その恵みを受けない時はないほど、自然の優しさを受けて、ようやく生きていけるのだと、当たり前のことに、幾度となく気がついては、忘れてゆく 頭の中で、沢山の事を考えて、未来を予測しすぎて