見出し画像

信仰 村田沙耶香

久しぶりにあった同級生に、一緒にカルト商売をはじめないかと誘われたミキ。友達との飲み会のネタにしようと話を聞きに行く彼女は「まとも」な側の人かと思って読み始めたんだけど。

庭の石を何気なくひっくり返したら、裏には小さい虫がびっしりとはりついていて、それがざわざわと蠢いていたような、ぞわっと身体中の産毛が逆立つような気分だ。

この人の小説はいつもそう。ぞわぞわするのに目が離せない。
気持ち悪いものを見た時って、そういうことがある。
「げっ」と思ったら見なきゃいいのに、ついじっと見てしまう。

「信仰」って、もともとは負のイメージがある言葉ではなかったと思う。昔からカルト教団はあったけれど、それは小さい範囲で納まっていた。
人に迷惑をかける、あるいは不愉快な思いをさせることがなければ、
ひとは何を信じても自由だ。
それで心安らかに生きられるなら、「自分はこれを信じる」でいいじゃないか。
それなのに、自分の信じてることは素晴らしいからあなたも信じてみて!と他人に勧めたくなる。
それは承認欲求というやつなんだろうか?

ミキの信じるものは「現実」だ。
正しいと思うから、どんどん布教する。
それがこうじて、家族にも友人にも避けられるようになったミキは
いまは、周りの価値観に従属しているふりをしている。

今や「信仰を持っている」といえばそれだけで「やばい人なの?」と思われかねない。
もともとは今の辛さを癒すために持つはずの信仰が、
未来への不安から逃れるためのものになったあたりから、
「信仰」することがおかしくなり始めたんじゃないだろうか。

うろ覚えだが、昔見た映画にこんなシーンがあった。
イエスキリストが足の萎えた女性に教えを施す。
女性の足が癒えたとの噂を聞いてやって来た人が彼女を見て、「相変わらず歩けないままじゃないか」というと女性はこう答える。
「キリストによって信仰を得た私にとって、歩けるかどうかは、もうどうでもいいのです。」
本来信仰ってそういうものだったはず。
信仰して癒されるのは足じゃなくて、こころだ。
それが信仰すれば足が治ると思う人が増えて、それにお金がからんできて、お金は不安を解消するための重要な要素であることは間違いないから、そこにつけ込む人もいて、そのあたりからおかしくなってきたのかな。

とにかく溢れんばかりの情報のなかで、不安は掻き立てられるばかりだ。
自分は人にどう思われているのか、今のままの生活で将来はどうなるのか
、将来のため今を変えるにはどうしたらいいのか、自己肯定感の低い私を変えるにはどうしたらいいのか、次々に提供される情報に翻弄される。
そして不安な自分を安心させてくれる「信仰」に簡単にひっぱられる。

繰り返しになるけれど、他人を巻き込まない限り、何を信じてどう行動しようと自由だ。でも、今の社会ではそれはとても難しい。
「カルト」を信じる人を周りもほっておいてくれないからだ。
最後「ジュウマンエンカエセ」と鳴くミキは「信じて悪いか!」と叫んでいるようでもある。

一緒に収められている短編「生存」や「土脉潤起」もデフォルメされてFS的に書かれているけれど、もう現実におきていることだ。
努力だけではどうにもならない格差が激しくなって、「将来」を考えた時に自分がどう生きていくかを選択しなければならない。
すっぱりとは決められない。不安や諦め満載だ。
とりあえず今日の1日は平穏に過ぎたのに、そのことを喜べない。
たえずもやもやが胸にある。
私を含め、いま世の中はこういう人たちがたくさんいるんだろうな。
そして何かの拍子にあらわになったモヤモヤの原因を、私はじっと見てしまう。




この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?