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マレーシアでの2歳差育児奮闘記

こんにちは!NORIKO@どっぷりマレーシアです。

ここでは娘たちが生まれてからの子育て奮闘記、そしてそれぞれ2歳でナーサリー(保育園)デビューした頃(2012年~2016年頃)の事を書いています。

マレーシアの保育園事情と私が選んだ道


長女妊娠10ヶ月で退職をした私は6年間専業主婦だった。
マレーシアの育休は2ヶ月(今は3ヶ月になったよう)。出産のその日まで仕事をし続ける人も多い。
私の元同僚に、朝営業先で陣痛が来て、「お腹痛くなったから今からこのまま病院行くね」と言って、夕方見事に第一児を出産したツワモノもいた。

そんな背景もありマレーシアには、生後すぐから預かってくれるナーサリー(日本で言う保育園。ここではナーサリーと表記しますね)がたくさんある。ベビーシッターやメイドさんを頼む等、選択肢も多く、私も産後働き続ける事もできた。けれど私は、自分の手で我が子を育てたい。お座りやハイハイ、初めてのあんよなど、自分の目で我が子の成長を見届けたいという強い気持ちがあり、退職をして専業主婦になるという道を選んだ。

2歳差育児の現実

長女だけの時は、何もかもが初めてで、離乳食など悪戦苦闘しながらも、周りに同時期に出産・子育てをしていた友人がたくさんいたため、みんなと一緒に育児を楽しんでいた。しかし2歳差で次女が生まれてからは、頼れる親戚も近くにいない中での海外育児で何度もキャパオーバーに。

次女が新生児の時、長女はイヤイヤ期真っ最中。朝立てた計画が、その通りに進んだ事は一度もない。何をやっても思い通りにはいかなくて、家の中で子供たち相手に大喧嘩したり(実際は私だけが怒っている)、一人でブチギレて(やはり私だけが怒っている)子どもたちを残しプチ家出をしたり(無駄に近所をドライブして結局子供たちが心配になり15分ぐらいで家に帰る)そりゃぁ色々ありました。

日本一時帰国の時アンパンマンのオムツをはいていた長女。マレーシアに戻ってきて、「アンパンマンのオムツじゃないとナーサリー行かない!」と泣き叫ぶ娘にパパが自作の絵を描く。
育児は育自。子供が私たちを親にしてくれました。

毎日のご飯。作るのも大変だが食べさせるのも必死。長女に食べさせた後、次女に食べさせ、自分の口に入れる頃には長女が次をくれと待っている。自分で食べさせれば、ぶちまかし、こぼす、体も服もテーブルも汚れまくる。落ち着いてご飯を食べることなど何年もできなかったのだと思う。作って片づけたらお風呂に入れて寝かしつけ…休む暇は無い。正直なところ、どんな風に毎日過ごしていたか、あまり記憶がない。日々一生懸命だったのは確かだ。

双子を育てている人、もっとたくさんの子供育ててる人、年子を育ててる人なんてもっと大変なんだろうな…世の中のお母さんはみんな、偉大です。

一人で幼い二人を連れて一時帰国した時。東京駅のエレベーターで、ベビーカーに乗せた長女を片手で押し、もう片方の手でスーツケースを転がす。背中には次女をおんぶしリュックを狸背負いした私を見た、見知らぬご婦人が「あなた、今とっても大変だと思っているかもしれないけれど、今が人生のゴールデンタイムなのよ~」と声をかけて下さった事があった。
振り返れば、本当にそうなんだと思う。

ママにべったりだった時期が、ぷにぷにの足や腕が、今となっては恋しい

ナーサリーで起きた珍事件

というような毎日で、心の余裕が欲しかった私は、長女が2歳を過ぎてすぐ、半日からナーサリーデビューを決行。そして次女が2歳になった時にもすぐナーサリーデビュー。

デジャヴか?と思うほどそっくりな二人のナーサリーデビューの日。2人とも2歳。同じ時期に社会への記念すべき一歩を踏み出した。

子供たちも2歳を過ぎた頃には活動範囲も広がり、好奇心も増え、家で1日過ごすよりも友達と過ごした方がきっと楽しかったと思う。事実、とっても楽しんでいたし、歌やダンスを覚えてきて家で披露してくれた。

最初に選んだのは、近所の住宅街にある、一軒家を改造した小さなナーサリー。きれいだし、家から近いからいいかなと思って選んだ。

ある日、お迎えに行ったら見たことない先生がいて、突然とんでもないことを告げた。
ここ、今月中に閉めることになったわ。早く閉めたいから今週中に他のナーサリー探して。そしたら今月分は払わなくていいから」とサラッと言うのである。え?今週中ってあと木金しかないけど?!しかも口頭でアナウンス?書類とかないの?てかあなた誰?!と開いた口がふさがらなかった。

翌日から急いでナーサリー探しに出かけた。
マレーシアは冒頭に触れた通り、ナーサリーの選択肢はたくさんある。3軒目に行ったナーサリー。沢山の子供たちの作品が飾られ、超笑顔の子供たち。いやぁここ前に行ってたとこと雰囲気全然違う!先生も親切だし最高じゃん!と思ったら、閉鎖するナーサリーで見たことある子たちが何人も…!!みんなここに流れてきてるのかぁ〜!速攻そこに決めました。そしたら先生「明日から来ていいよ」だって!これもザ・マレーシアだな笑 やっぱりこの国のこういうとこが好き。と再確認した出来事だった。

小児科の思い出

ナーサリーに行くようになってからたくさんの病気ももらってきた。風邪、インフルエンザ、手足口病、ロタウイルスなどなど。どちらかがもらってくると、時間差でどちらかにうつる。時には私にもうつる。
近所の小児科に毎週のように通ってたので、看護師さんには完全に顔と名前を覚えられ、今日はどっち?お姉ちゃん?妹?といつも聞かれていた。

振り返れば引っ越しもしたりして、放課後のデイサービスを入れると2人とも4つのナーサリー・デイサービスにお世話になった。幼稚園のドライバーに関しては長女は2人、次女は4人! その中で、社会性を身につけ、語学を吸収し、たくましくなったのだと思う。

ナーサリーではほぼ英語でのコミュニケーションだったが、幼稚園は英語・マレー語・中国語をまんべんなく学ばせてくれるところを選んだ。毎週英語の週は先生全員が英語を使い、英語の歌を歌う。 翌週は全員がマレー語を使い、マレーの文化を学ぶ。といった具合。友達は中華系が多く、ドライバーさんも中華系だったため、三言語の中では中国語がややできる。という状態だった。そして小学校では中国語を学んでいくのであるが、その後の子供たちの成長については別途書いていきたいと思う。

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