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Only The Piano Knows③

それから数日後、ノエルが店にやって来た。
そ知らぬふりで彼はやってきて、いつも通りのフランクさを見せる。
ジョンは恨みがましそうな視線をノエルに向けた。
「おい、ノエル…おまえアイヴィーに余計なことを言ったろう」
「え?なんのこと?」
ノエルはとぼけているのか、本当に忘れているのか定かではない。
彼もカウンターのそばにある小さなスツールを引っ張り出して、そこに座った。
「俺がピアノを弾いてたことだよ」
ジョンがぶすっとした顔のまま言うと、ノエルはああ、と言って笑う。
全く悪気はないようだった。
「だって、事実じゃん?」
「何言ってんだよ。俺がもうずいぶん弾いてないのは知ってるくせに」
「うん、だから弾けばいいじゃんって」
ジョンはまじまじとノエルを見た。
ノエルは全く雑念のない顔をしていた。
「ジョンはもう一度弾いてみたらいいのにってずっと思ってたんだ。あれだけの腕をもったいないよ」
「ノエル、俺は言ったろ?弾けないんだよ。鍵盤に指が触れられないんだ」
「デビーのことは、そりゃあ心痛だったと思うよ…でも、もうそろそろ…」
ノエルはデボラの最期の言葉を知らない。
だからこれほどにジョンがピアノを弾けないことを理解できないのだ。
「みんな、ジョンがピアノを弾いてくれたらなあって言ってるぜ。俺の知り合いはギター野郎で、みんなバンド組んでるから、そこにゲストとしてでも参加してほしいって」
ジョンは静かにかぶりを振った。
「ノエル…俺は技術的にも衰えてるが、精神的に弾けないんだよ」
「デビーのせいか?」
「デビーのせいって…」
「だってそうじゃないか。デビーのせいにしてジョンは弾かないだけだ。あの世でデビーが聞いたら怒るようなセリフだぜ」
「……」
一瞬、冷たい空気が流れた。
ジョンはむっとしたし、ノエルも不満気だ。
「悪かったよ…言い過ぎた。俺も、俺の仲間もジョンに弾いてほしいだけなんだよ」
ノエルはぎこちなくジョンに笑いかけた。
「別に、昔みたいにジャズピアノを弾いてくれって言ってるんじゃない。そりゃいつかはそうなってほしいけど、今すぐとは言わないからさ。ピアノに触れていたほうがいいんじゃないかって。だからアイヴィーにレッスンをつけるのはすごくジョンにもいいんじゃないかって思って」
はっと、思い出したかのようにノエルは目を見開いた。
「アイヴィー、あいつすっごい喜んでたんだよ。ジョンおじさんもジャズやってたんだねって。だから、最初に僕がお店に来た時、追い返さなかったんだねって」
きゅっと心臓を掴みとられた気がした。
追い返されるかもしれないと思って、ジョンの店に来たアイヴィーのこころうちを考えると、どうにも胸に迫る。
30年前のデボラのように、断られるなどこれっぽっちも考えずに『私を弟子にしてください!』と言えたのは幸せだったのだろう。人がきちんと応えてくれることを彼女は知っていた。
だが、アイヴィーは人に無意識に失望している。だから、なにも望まない。望まなければ裏切られないからだ。だが彼はまだ子どもだ。ちょっとした暖かさをその人に見ると、多分その人を少しずつ信頼するのだ。その中にはジョンもノエルも入っている。
「ノエル、おまえ策士だな」
「なにが」
「アイヴィーをだしにつかえば俺が嫌だと言えないことをわかってるだろ」
「あはは。勘ぐりすぎだよ」
そういいながら、いたずらっぽい目がそれを肯定していた。
「ジョン、アイヴィーな、ジョンのこと、本当の父さんじゃないけど僕にとって二番目の父さんだって思ってるって。僕の父さんはギターが大好きだった。ジョンおじさんはピアノが大好きなんだねって…ジョン、俺思うんだよ。アイヴィーをジョンに結び付けたのはデビーじゃないかって。魂が抜けたようになっているジョンを、デビーが見かねたんだよ。生きてくれって」
「生きて…どうするんだ」
「もう一度、ジョンのピアノを弾いてくれよ」
ジョンは激しく動揺する自分に気づいていた。
デボラがわかっていて、ノエルやアイヴィーを焚きつけたかのようにすら思えた。
―ジョン、あなたのピアノを、聴かせて―
夢見るようなあどけないひとみで彼女は誘う。
そしてそのまなざしはいつの間にかアイヴィーの澄んだヘイゼルの瞳に変わった。

次の日。ジョンは店から帰ってすぐに2階のグランドピアノの部屋に向かった。
デボラの写真が相変わらずスタインウェイの屋根の上にある。
ジョンは鍵盤蓋を開けた。それから鍵盤を覆っているキーカバーを取った。
椅子に腰かける。
そっと両手を白い鍵盤に置いた。
何が弾けるだろう。
デボラはきっと笑う。笑うのだ。
―ジョン、弾かないからこんなに下手になっちゃったじゃないの―
「うるさいな。ろくろく弾いてないんだ。あたりまえだろう」
わかってるわ、とデボラは頷く。
―私のピアノが、あなたのピアノだったものね―
「え?」
―私のピアノは、あなたの愛から奏でられていたのよ―
ジョンは思わず天を仰いだ。もちろんそこには何もない。
―私という弾き手を通して、あなたは私への愛をたくさん奏でてくれたの。私の音はあなたの音…でも、私はもう奏でることができない―
デボラの手がジョンに触れた気がした。
彼女は首筋にその腕を巻き付けるときゅっとぴったりくっついて抱きしめる。
彼は鼻の奥がつん、として、瞳を閉じた。
余計にデボラの腕や頬の感触を思いださせた。
―ジョン、その手で私への愛を聴かせて。これからはあなたのピアノが私のピアノになる。私のあなたへの愛と感謝があなたの音になる―
「いなくなって3年も経つのに、俺がまだ君を愛してるってうぬぼれてるぞ」
けらけらと快活な笑い声さえはっきりと思い出せる。
悔しいが、デボラの言う通りなのだ。
―だってそうじゃない?―
「一択かよ」
―ええ。いつもどおり選択の余地なんかないのよ。だってそうなんだから―
ジョンはうっすらと笑った。
それでこそデボラだった。
ふうっと深呼吸すると、ジョンは目をあける。
目の前にモノトーンの鍵盤が88鍵広がっている。
「かなわねえな」
呆れながらも笑ってしまう、ジョンのいつものセリフだった。
ジョンの両手が数年ぶりに、鍵盤をたたき始めた。
曲はWaltz For Debby。ビル・エヴァンスの曲で、ジョンがかつて十八番としていた、なんども弾いた曲だった。
指は覚えていた。だが、かつてオーディエンスの賞賛を浴びたプレイはできない。
つっかかるし、指が絡まる。うまく動けないからテンポもおかしくなるし、指の力が衰えたのか鍵盤がとても重たく感じる。
これほどまでに衰えてしまっていることにショックを受けながらも、ジョンはいけるところまで奏で続けた。
指が止まる。
それは…彼の目からぼろぼろと滂沱の涙が落ちていたからだった。
胸が熱くなる。高鳴る。そして湧きたつ…
ああ、なぜこの感覚を自分は見失っていたのだろう。
オーディエンスの笑顔。喝采。スタンディングオベーション。
それらはすべて自らのピアノが、ピアノが好きだという気持ちが生み出してきたものではないか。
「デビー…会いたいな…君に会いたい」
声が震えた。会いたかった。叶わないとわかっていながら、ジョンはデボラに会いたくてならなかった。今のこの気持ちをデボラだったらわかってくれる。
―ジョン、私もあなたを愛してる。ずっと…今も―
ジョンにその愛を告げたのもデボラだった。彼女は思ったように生きる人だった。
その天真爛漫さが今は恋しくてならない。
―ジョン…今度はあなたの番よ。あなたが弾くのよ。そして、もう気づいてるでしょ。私はあなたのまわりのあちこちにいるんだって―
「…うん…ああ」
言葉にならない。
彼は涙にくれる。両手で顔を覆う。涙が手を伝う。どこにこれほどの涙が隠れていたのかと思うほどに。
そんなジョンをデボラは微笑んで見つめているに違いない。
かつてロンドンに旋風を巻き起こしたその手を、ジョンの肩に載せながら。


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