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Only The Piano Knows②

アイヴィーは7歳の時にブリストルからグロスターに来た。
それは彼が望んだものではなかった。
両親が交通事故死するという不幸に見舞われ、彼は父方の叔父に引き取られた。
これだけでも彼の幼い心には深い傷を残したというのに、引き取られた先で叔父の妻である叔母から虐待を受けていたのだ。
彼は子どもなのに全くの無表情に陥っていった。ただ、日々を耐えて耐えて、心を殺し、叔父や叔母に怒られないように、機嫌を損ねないように生きていくしかなかった。
そんなアイヴィーとジョンが出会った頃、ジョンも最愛の妻を亡くし呆然自失のまま日々を送っていたのだった。
捨てられた子犬のようにアイヴィーはこの店に来た。
ジョンはこの小さな彼を放ってはおけなかった。
何の縁もない他人の家の子どもであるし、精神的にジョンも多大なるショックから立ち直れていなかった。でも、アイヴィーがまるで自分のように思えた。独りぼっちで誰もいない。そして大切なものを失って、ただ耐えて生きているだけ…
そんな境遇にジョンは無意識でアイヴィーに手を差し伸べていた。
それから、ジョンはアイヴィーにとっての第二の父のような存在となっていたのだ。
父というにはやや年嵩ではある。だが、彼にはまるで末息子のようだった。
彼の実の息子たちは音楽を嗜まないから、ギターを弾くアイヴィーがジョンには憧憬も含んで可愛かった。彼が望むなら、何でも叶えたいと思う。
これまで実の両親から注がれた愛情には及ばないかもしれないが、それでも精いっぱいの愛情を注ぎたい。
だからつい、本当はピアノにすら触りたくないのに、アイヴィーにレッスンをつける、と言うようなことを言ってしまった。
ジョンの家はグロスターでも比較的大きな家だ。
母はピアノの心得のある人で、ジョンは母からピアノを教わった。その後は数人の講師に師事し、クラシックピアノを習得した。
だが1960年、15歳の時に聴いたビル・エヴァンスにすっかり魂を持っていかれてしまい、そこからはジャズピアノ一辺倒だ。来る日も来る日もピアノを弾き続け、そしてロンドンのアートカレッジを卒業した彼はグロスターのあちこちで弾き始めた。瞬く間に彼は若き天才ジャズピアニストの名前をほしいままにした。世間ではロックやロカビリーも流行りだし、ジョンはえり好みせずロックバンドなどにゲスト参加もしてその腕を余すところなく披露した。
ジョンは静かに2階への階段を上がる。
観音開きになる、大きな木の扉を開けた。ランプをつける。
そこに、大きなグランドピアノがある。年代物のスタインウェイ。
蓋は閉じられ、うっすらと埃が膜を張っている。
ブラウンのベルベットのカバーの上に、一つの写真がある。
ジョンはその写真を手に取った。
一人の勝気そうな若い女性がジョンを向いて微笑んでいる。
手には譜面抱えて。
じっと見つめるジョンの瞳から静かに涙がこぼれて落ちた。
「デビー…」
いつの世も恋に落ちるのは突然で必然だ。それは人間の意思の赴くところにない。
恋はするものではない。落ちるものだから、避けられない。
ジョンの人生が変わったのは、のちに妻となるデボラ・シンプソンと出会ったからだった。
当時飛ぶ鳥を落とす勢いでグロスター中に名前をとどろかせていたジョンは、ある日ジョンを出待ちしているデボラに出会った。
彼女は彼の都合などお構いなしに彼に突進し
「私を弟子にしてください!」と直談判したのだった。
当時デボラは16歳。その幼さと、レッスンの時間など取れないほど忙しかったジョンは断り続けていたのだが、とうとう根負けしてレッスンをつけることになった。
彼が手ほどきしたジャズピアノは、デボラを夢中にしピアノの虜とした。
一生懸命に熱を込めて弾き続けるデボラ。心から笑い、そして心から悔しがる。その裏も表もない彼女にいつの間にかジョンは恋に落ちてしまったのだった。
そうして、二人はジョンが26歳、デボラが18歳の時に結婚する。
運命は幸せな二人を嘲笑うかのように過酷な試練をジョンに科した。
二人は互いにピアニストとして切磋琢磨していた折、デボラにインプレッション・レコードからアルバムデビューの話が舞い込んだ。妻への愛と師匠としての立場、そして自ら命を賭けてきたほどのピアノへのはざまで激しく苦悩した。
悩み抜いた挙句、受け入れたのはデボラへの愛だった。
「デビー…俺の愛情が足りなかったのかな…俺の方が歳上だし俺が君を遺して逝くことを心配していた。まさかこんなに早く君が俺から去ってしまうとは思わないじゃないか」
写真を見つめながら、ジョンはデボラにささやいた。
彼女は笑顔のままだ。
3年前だ。彼女は体の不調を訴えて、病院に行った。そこでガンだと診断された。
なにしろ42歳の若さだ。手術や抗がん剤で治療してもガンはみるみる転移して手の施しようのない状態になってしまった。
あとはもう…痩せ細り、動けなくなった彼女の手をただ握りしめるしかなかった。
弾きたい、弾きたい…とうわごとのように言っていたデボラはいよいよ昏睡状態に陥ろうとしていた。命の灯がだんだんとかそけくなってくるのが見える。
「ジョン…」
精一杯の力を振り絞り、ジョンに手を差し伸べたデボラの声が今でもよみがえる。
手は骨が浮き出ていた。もはやピアノを弾けるような手はない。震えながらそれでもベッドから懸命にその手を伸ばした。ジョンはその手を両手で包んだ。必死でよびかける。
「大丈夫だよ。ここにいる」
ジョンの声にデボラはうっすらと笑った。
あの快活で顔をくしゃくしゃにしてまでも笑う、かつてのデボラはもういなかった。
「…生きたい…生きたい…生きて、あなたともう一度弾きたい…」
そう、掠れた声で彼女は言った。
ジョンはその言葉に応えられなかった。
衝撃のあまりに、彼はそこにただ岩のように固まってそこにいた。
その言葉を最期に、彼女は昏睡状態に陥り、二度と目覚めることはなかった。
ジョンは、ふうっと大きなため息をつきながら、ピアノの前に座った。
ピアノから遠ざかったのは、デボラがジャズピアニストとしてデビューしてからだ。
プロとして活躍する彼女を支えるために、ジョンが裏方に回ったのだ。
彼女のマネジメントと、やがて生まれた二人の息子の育児と家事それを担ってジョンも慌ただしい時を過ごした。当然、ピアノを弾けない日々が増える。弾かなくなれば、どんどん腕は衰える。
わかっていたこととはいえ、反対にデボラはどんどんその腕を磨き、あげていく。
ピアノを弾けばその対比がくっきりと明らかになるからあえてピアノではない別のものに集中した。
デボラはしょっちゅうジョンに「一緒に弾かない?」と誘っていたが、ジョンはこの状態でオーディエンスの前で弾くことなどできないと断り続けてきたのだった。
だが、どうしようもないタイミングでジョンは気づかされた。
デボラの最期の言葉はジョンに深い悔恨を落とした。
彼女はただ、ジョンと一緒に弾きたかっただけなのだ。
それだけのためにピアノを弾き続け、彼の背中をずっと追い、そして思わぬ形でプロデビューしてしまった。
―本当はジョンと一緒に弾きたかっただけ―の彼女の希望を、ことごとくジョンは叩き落してしまったことに気づいたのだ。
デボラにも負い目があったのだろう。断るジョンを、いつもの強引さで説得したりはしなかった。
愛していたたった一人の女性の、生涯の望みを叶えることもできなかったことに激しく自身を責め、それからピアノに全く触れられなくなってしまったのだ。
ジョンはまたしても溜息をつきながらピアノのふたを開ける。
鍵盤が少し退色しているのは年代物のせいだ。
またジョンは涙にくれる。鍵盤が涙でぼやけて見えなくなる。
弾き続ければよかった。そうしたらせめて二人で何度かは弾けただろう。
そっと彼は鍵盤のCを叩いた。
ポーン、と昔と変わらぬ音が響いた。
彼には全く自信がなかった。
だが、脳裏にアイヴィーの顔が浮かんだ。顔を輝かせた彼をまた俯かせることはしたくない。 


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