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Waltz For Debby⑤

ジョンは翌日実家に帰った。
母は驚いていたが、ジョンの憔悴した表情に何も言わなかった。
いくつかブッキングされたステージがあったけれども、この状態でステージに上がることは苦痛でしかなかった。
苦痛が苦痛を呼んで、ジョンはなんとか1週間ばかり全くステージのない日を捻出して、引きこもった。だが、こもればこもるだけ自らを責める声とデボラ以外の誰かにまた抜かれるのではないかという恐怖が生まれた。自らの葛藤の末、ロンドン・カレッジ時代の友達がステージにがむしゃらに向かっている姿を見れば…見られなくても、ピアノやステージにまつわる熱い話を聞ければ、再びピアノに向かう気持ちになるかと考えた。
実家に引きこもって3日目にして、ジョンは学生時代の友達を訪ねた。
彼はジョンと同じようにピアノに傾倒し良きライバルだった。学校を卒業してロンドンで弾いていると話を聞いていた。
彼の家に電話をすると、驚いてはいたが、ぜひ会おうと言ってくれた。
「やあ、ジョン!久しぶりだね」
その日の昼下がり。ロンドンはハマースミスで待ち合わせたジョンを、友達である彼―フレデリック・アンカーソン―は昔のままの笑顔で彼は迎えてくれた。
「フレッド…急にごめん…」
「何言ってるんだよ。俺も卒業して全然会ってなかったから会いたいなとは思ってたんだ。ジョンの噂はここにも聞こえてたよ。グロスターでめちゃくちゃうまい弾き手がいるってね。俺はジョンだってすぐわかったよ」
フレッドには悪気はないのだ。わかっている。
でも。今の彼にはその言葉が一番ショックだった。
もう、グロスターにおいてすら1番でないんだと…自分の口から告げることが苦しくてならない。
雑多な路地を男二人で歩きはじめる。何から話せばいいのか考える。
「フレッド、どうしてる?」
友達の賞賛をあいまいにぼかして、ジョンはそう尋ねた。
「ん?俺?俺はいま小学校の音楽の先生をやってるよ」
「え?」
ジョンは立ち止まって隣を歩くフレッドを見た。
2、3歩ほど先を歩いて、フレッドは振り返る。ジョンの驚きに決まり悪そうに笑う。
「ジャズ…やってなくて驚いた?」
「…うん…」
戸惑いが生まれる。好敵手だった彼はピアノをすでに諦めていた。これは、何かの暗示なのか…
「フレッド、ステージには…」
「もう2年ばかり立ってないな」
2年…予想外の時間の長さにジョンは言葉を失う。彼に何があったのか。なぜ教師という道を選んだのか。かつてともに切磋琢磨した時間からはそれが夢だったとはとても思えなかった。
「あ、ジョン、お昼まだだろう?ランチにしようぜ」
「ああ…」
二人は通りを歩きながら他愛のない話を始めた。
だが、ジョンにはあまり話すことがなかった。他愛のない話でもジョンの場合は全てがピアノに、デボラに結び付いているからだった。
それ以外のものがほとんどないことにジョン自身驚いた。
ピアノを取ってしまえば、彼には何も残らないことに。
「あ、ここだここ。俺ここ好きなの」
緑広がるの公園の向かいにあるカフェに二人は入った。
「時間的にアフタヌーンティーにしちゃおうかな」
フレッドは嬉しそうにメニューを見ながら言った。そういえば彼は昔から甘いものが大好きだった。
二人は学生時代に戻ったかのように同じものを頼んで、甘いケーキやマカロンやフルーツやクリームに舌鼓を打って、アールグレイをいただく。
お菓子は甘くてジョンの顔を意外にもほころばせたし、一杯の香り高いアールグレイはジョンのため息を導き出した。これほどまにもしみじみと味わいながら食すのは実にしばらくぶりだった。
こんなことすら、ジョンはしてこなかったほどにあわただしく過ごしていたのだ…
フレッドも空腹が落ち着いたのか二杯目のアールグレイを店員に注いでもらっている。
「で、ジョン、どうしたの?なにかあったんでしょ」
フレッドはカップを傾けながら優しい笑顔を見せてそう聞いた。
「…なんでわかるの」
「さっき、俺がジョンのステージの話をした時に…君は何も言わなかった。むしろ話をそらした」
「……」
「でも、さっき言ったのはほんとだよ。こっちの新聞に君がロンドンで弾いたときの事とか載ってたんだ。すごいなあ、ジョンはさすがだなあって思ったよ」
「……」
「黙っちゃったなあ…昔はずっとピアノの事と、ジャズのことをしゃべり倒していたのに」
「フレッド!」
思い詰めた声は予想以上に大きく響いた。
フレッドが目をちょっと丸くして驚いたようだった。
「なんだい?」
「…俺、もう弾けないんだよ、もう無理なんだ…今精神的に…」
「どうして?」
ジョンは友達に告白するのすら苦痛ではあった。でも、誰かに聞いてもらわないと生きていけない気すらしていた。どうしていいのかわからなかった。こんな状態でステージにも立てるわけはない。
ひとつ、ひとつ、説明する。デボラのことも。
「…そうかあ…」
フレッドはまず、それだけ言うと、ストロベリーを口に入れた。
「苦しいな、それは…」
言いようのない苦みが、フレッドにはわかる。愛するからこそ苦しいのだ。
「デボラ・シンプソンの名前だけはちらっと聞いたことがあるかな…まさかジョンの奥さんだったとはね」
「……」
「ジョン…さっき、俺が小学校の先生をしているって言った時、すごい驚いたよね」
「うん…フレッドはめちゃくちゃ上手かったから」
「…打ち負かしたかったんだよ。本当は」
「え?」
「君を。ジョン。君には絶対負けたくなかったんだ」
ジョンを見つめるフレッドの瞳も声も限りなく穏やかだった。
絶対負けたくない、という嫉妬を思わせるものは何処にも感じない。
「君のことは大好きだった。だけど、ピアノの腕は本当に嫉妬してた。君みたいに弾けない自分が悔しくて仕方なかった。君はグロスターに帰って、グロスターから名前を轟かせてやると言ってたよね」
「…そんなこと、言ってたな」
それは数年前の話だ。ロンドンの音楽学校を卒業するときに…
ロンドンばかりがUKじゃないぞ、という地元愛のようなものに突き動かされて、グロスターからジャズを発信してやると意気込んだものだ。
「それが言える自信がうらやましかった。だから俺はロンドンに残った。ロンドンで君を追い抜いてやると思ったんだ」
「……」
口調はどこまでも明るかった。それが違和感を生んだ。
「だけどさ。ロンドンにいても俺は抜け出せないんだ。仕事としてあるのはバーやパブのピアノだけだ。行き詰った俺は君に会おうと思ってグロスターに行ったんだ」
「知らなかった…」
「そりゃそうだ。俺は君の舞台を観て、その終演後に楽屋を訪ねようと思ってたんだよ。でも……今でも覚えている。Waltz For Debbyだった。あんなに愛がこもっていて…テクニカルなのにテクニカルさを感じさせないほどに柔らかく優しく響くピアノを俺は知らなかった。心から負けたなって思いしか出てこなかった」
どうして、そんなに穏やかに負けたなど語れるのか。
それもライバルと思っていた男の前で。ジョンにはどうにもわからなかった。
「……」
「そうして、俺は、教師になったってわけ」
何か言う言葉など見つけられない。
当時のジョンはデボラであり、当時のフレッドは今のジョンだ。
「ジョン…デビーがインプレッション・レコードってのはすごい話だ。彼女はそれだけ才能があるんだろう。でもな、君の話からだと…彼女の才能を引き出しているのは君なんじゃないかな。確かに、表舞台にはデビーばかり出るかもしれない。だけどさ、デビーはきっと君への想いゆえにそれだけのピアノを弾くのだと思うな…心と体は連動するじゃないか。デビーの心を支えながら君も弾き続ければいい。納得いかないかもしれないけど…そういう表現だってあるんだと思うぜ」
表に出ない表現方法などなんの表現になろう。
デボラの影に隠れて、不満や嫉妬を抱きながら、デボラを支える…それは愛と言えるのだろうか。
すべてを乗り越えるほどの器が自分にはないような気がした。
俯いてアールグレイのカップをのぞく自分がひどくみっともなく見えた。
「ジョン、一つ確実に言えるのは…君がいなきゃ、デビーはバイエルすら弾けないんだ。逆もしかりだ。デビーを失ったら、君はピアノに触ることすらできなくなる、だろ?」
デボラの残像が浮かんだ。ジョンの腕枕で眠るデボラは幸せそうに微笑み、その手は彼の胸に沿っていてぬくもりを伝えてくれる。愛おしいという気持ちが溢れてジョンは何度眠るデボラを強く抱きしめてしまいそうになっただろう。
二人でピアノを何時間も汗を流しながら弾き続けて、くたびれ果てて、二人でカウチでぐったりとしたこともあった。
連弾をすれば楽しくて笑いが止まらなくて…
ジョンの人生はデボラによって虹のごとく彩られていた。
ジョンはフレッドを見つめると、かすかに頷いた。
「だとしたら、君が採るべき道は一つだろ。家に帰って、デビーとともにピアノを弾く。それだけだ」
「…1択か」
ふっとジョンの口元に笑みが浮かんだ。
1択…デボラらしいジョンへの告白が思い出された。あの時から、もう骨抜きなのだ。
「当たり前だ。こんなこともわからないほどおかしくなっちまったか」
「ありがとう。フレッド…」
「俺の言うことが信じられなかったら、今日デビーの舞台をこっそり見たらいい。絶対に、デビーは調子を崩している」
確信をもって力強くフレッドは言い切った。


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