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Only The Piano Knows①

UKはグロスターに小さなレコードショップがある。
ミレニアムが近い1999年になっても、売っているものは「レコード」という店だ。
店に主に並んでいるのはジャズやロカビリー、クラシックロックなどだ。
そこは初老の男性がいつもカウンターに座っている。
店に来るのは常連たちがほとんどだ。マニアックな客が良く覗いて行っては買っていく。
そして、今日も彼はカウンターに立つ。
カラカラン、とドアベルの音がして、店の中に春風が吹き込んできた。
振り返るとそこに男の子が息せき切って走り込んできた。
まるで、突風のようだ。
「ジョンおじさん!」
彼は息を切らしながら店主の彼を呼んだ。
ジョン・シンクレアはやれやれ、という顔をして笑った。
「なんだ、アイヴィー。走って帰って来たのか?」
彼はアーヴァイン・ウィンスレット。愛称はアイヴィー。12歳である。
「うん。ノエルから昨日聞いたことを確かめたくて!」
アイヴィーは学校の鞄を勝手知ったるかように店の奥にぽん、と置くと、ジョンが立つカウンターにある小さな椅子に座った。
「ノエルがなんか言ったのか」
ノエル、というのはジョンの仲間のジャズギタリストである。
アイヴィーがアコースティックギターのマーティンを抱え、ジャズのレコードを聴かせてほしいとこの店に来た時、ジョンはウェス・モンゴメリーをかけたのだった。
アイヴィーはジャズの何たるかを当然ながら知らず、それをコピーしようと一心不乱にレコードに合わせて弾いた。当時はまだたったの10歳ではあったがそのギターに、ジョンは見るものがあると思い、ノエルにアイヴィーを紹介したのだった。
ノエルは快くアイヴィーを弟子にすることを承諾した。
それから彼は毎日時間が許す限りノエルのレッスンを受けているはずだった。
「あのね、ジャズやるなら鍵盤もできたほうがいいかもなあってノエルが言ってね。ジョンおじさんに教えてもらえばいいって言うんだ。ジョンおじさんは昔めちゃくちゃすごいジャズピアニストだったんだぞって!」
春風から急に冷水を浴びたような気分になる。
ノエルの言ったことは事実だ。だが、ジョンはもうピアノを弾いていない。と言うよりも弾けないと言ったほうが正しいのかもしれなかった。
ノエルが仕組んだな、とジョンは感じた。
その昔、ノエルがまだ20歳だったころにジョンがジャズピアノを手ほどきした。
そのころはまだ、ジョンはピアノを弾けていたのだ。
だが、今は弾けない。精神的に弾けないのだとわかっている。
ノエルはそれがわかっているから、もう一度踏み出せと言いたいのだろうと思うが…
「おじさん?」
長い沈黙にアイヴィーが不安に思ったのか、顔を曇らせて声をかけた。
ああ、ダメだな…ジョンはアイヴィーに笑いかけた。
そして、彼の頭にその大きな手を置いた。
「ごめんな。ちょっと昔のことを思い出しただけだ。ノエルの奴、そんなこと言ったのか」
「うん。だから、アイヴィーも習えばいいよって。でも、おじさんが嫌だったらやめとく」
アイヴィーは、育った環境からか周囲の空気を非常に読んで、察する。
きっとジョンが沈黙した数十秒に、彼の過去を慮ったのだろう。
そして、そこには触れないほうがいいと、アイヴィーが判断したのだ。
「アイヴィー、いつも言ってるだろう。嫌なんてことはないんだぞ。本当に昔のことをふっと思い出しただけなんだ。俺に気を遣わなくていいんだぞ」
アイヴィーの頭に置かれた手がくしゃっと彼の髪を撫でまわした。
にっとアイヴィーは笑った。でもその笑顔もきっとジョンを安心させるために不安を隠して笑ったのだ。
―まだ12歳なのに…―
子供らしからぬ気を遣うアイヴィーにまたジョンの胸は痛むのだった。
「じゃあ、やってみるか?」
「え?いいの?!」
ぱっとアイヴィーの顔がきらめいた。
その表情は嬉しくもあり、そして切なくもある。
昔々…30年ほど前の出来事を鮮明に思い出させるからである。
「いいとも。だが、しばらく俺はピアノを弾いてもいないんだよ。だから、少しリハビリの時間をくれよ」
「ありがとう!おじさん!」
アイヴィーがようやく屈託なく笑った。
こんなはずじゃなかったんだがなあ、とジョンは思ったが、すでに後の祭りである。
アイヴィーに必要以上の気遣いなどさせたくない。子どもは子どもで伸び伸びとあれがしたいこれが欲しいと言えばいいのだ。
だが、アイヴィーははっきりと「これがしたい!」「これがほしい!」とは言わない。
言っても、叶わないことばかりだった彼の過去にジョンはまた胸が締め付けられるのだった。


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