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Waltz For Debby②

コミュニティセンターの小ホールは満員の観客で埋められた。
子どものための、と銘打ってはあったが、子供向けだけのナンバーをそろえているわけではなかったから、大人も多数来場してくれている。
ジャズのナンバーからSing, Sing, SingやTake the A Train、大好きなビル・エヴァンスからWaltz For Debbyをセレクトした。クラシックはショパンやリストの小作品を並べた。
その日の演奏も絶好調で、彼は天才ピアニストの名をほしいままにした。
子どもたちの目はキラキラと輝き拍手は絶えず沸いた。
嬉しかった。彼らの笑顔が目の輝きがまたジョンに力と自信をくれる。
舞台を降りて、彼はピアニストから普通の24歳に戻る。
オールバックに決めた髪を崩し、いつものようにジーンズとシャツを着て、煙草をふかす。
彼のミドルブラウンの髪は目や耳にかかるほど長い。
椅子に座りながら一服する。天井を見つめるアンバーの瞳は次なる舞台を見据えていた。
おかげでスケジュールはタイトに埋まっている。
ロンドンで腕を披露するのもそう遠くはないかもしれない。
ここグロスターからロンドンにのし上がる感じが彼を震えさせる。
ジョンは譜面や音源の入った大きなバッグを抱え、楽屋口から外に出た。
すでに昼を過ぎてティータイムの時間となっていた。遅い昼食をどこかで摂ろうかと考えた。
その時だった。
バタバタッと誰かが走ってくる音がした。
あっという間に一人の女の子が彼に至近距離まで近づいていた。
「うわっ」
その勢いに危険すら感じて思わず一歩後ずさる。
「ジョン・シンクレアさんですよね!」
その子は真剣な表情でさらに間合いを詰めた。
手には大事そうにコンサートのパンフレットを持っている。観客の一人のようだった。出待ちをしていたのかと想像する。
「…そ、そうだけど…何」
ジョンはもう一歩下がった。
「今日の演奏、素晴らしかったです!すごかったです!私、私…感動しすぎて泣きました。涙が止まらないんです、私もあなたのようなジャズピアノを弾きたい!」
彼女は興奮しているのか、大きな声でまくしたてるように彼に訴えた。
ジョンは思わずのけぞった。その勢いに驚くばかりだ。
「あ、ありがとう…」
「お願いがあるんです!私を弟子にしてください!」
「は?!」
「ジャズピアノを弾きたくて仕方なくなったんです!お願いします!なんでもします!私に教えてください!」
勢いのまま、彼女はじりじりとジョンに詰め寄る。
ジョンは楽屋口から出たばかりというのに、また楽屋口へとじりじり後退させられているのだった。
「お、落ち着いて…俺じゃなくても…先生は他にもいるでしょ」
「シンクレアさんがいいんです!あなたの技を私に少しでも見せてください!」
「いやまて、俺は教えられるような資格は…」
「いいえ!ピアノは資格じゃないです!私はあなたのピアノに惚れたんです!あれほどに涙で前が見えなくなるほどのピアノは初めてでした…どうか、お願いします…」
率直に嬉しい、嬉しいが、ジョンは結構スケジュールがタイトで忙しい。
しかもレッスンだなんてやったこともない。
「あの、俺、結構忙しいのよ。だから時間取れないから、ちょっと無理かな」
「そしたら、私と結婚してください!」
「はい?」
思いもかけない言葉に、ジョンの声が裏返った。
「いえ、それが無理だったら住み込みの家政婦でもいいです!そしたら、10分くらいは私に時間を割いてくださいますでしょう?」
なんだ、この女は…
ジョンはかなり引いて、気味が悪くなった。
人の都合などお構いなし。自分が望むから、なんとかそれを得ようとする。
子どもも子ども。あげくに、人の希望など放っておいて結婚してくださいなど…
落ち着いて彼女を見れば、まだ10代のようだ。みつあみを結って、あどけない顔をしている。白いリボンボウブラウスにドット柄のブルーの膝丈スカートをはいていた。若さゆえなのか思い込みが激しすぎて手に負えない。
「結婚とか…簡単に口にするものじゃない。みたところ、君は学生だろう。学校に行きなさい」
「ごめんなさい。でも、それくらい…あなたのピアノに魅入られたと魂を抜かれたと言えばわかってくださいます?それに、私は学生じゃありません。卒業しましたから」
ジョンは目論見が当たったとはいえ、あきれ顔を臆面もなく表に出していた。
「それはありがとう。だがいくら18歳だからと言って、俺だって男だ。あんなこと軽々しく言ったらダメだ。いいヤツばかりじゃないんだぜ」
説教臭いな、と思いながらもことさらしかめ面をしてジョンは彼女を諭した。
「あ、あの、私18歳じゃありません。16歳です」
なぜ彼女が訂正したのかわからないが、ジョンは彼女の言葉を反芻する。そして改めて我に返る。
「無理!絶対にダメ!ご両親を悲しませるようなことはしちゃダメだ!とっとと帰りなさい!」
ジョンはぴしゃっと叱りつけて、その場を後にした。


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