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浅川マキを聞く

真夜中に目覚めて「浅川マキ」を聴くと、何故かまた寝られたりする。不思議な癒やしと存在感のある歌。昭和と言う「成長する世界」の裏側で生きて、そして死んでいった人の歌を彼女は歌っているのだと思う。いくら頑張ってもなんともできない閉塞感を今のほとんどの人は味わっているだろうが、昭和という時代はなんでもやればうまくいくと考えられていて、実際にもなんとかなることが多かった。今日より明日は良い日になると誰もが思っていて、今年より来年が良い年になると、誰もが思っていた。そんな時代に挫折すると言うことは「みんなと同じ」が明るい将来に向かって礼賛されていた時代にあって、多くの人に置いていかれると言う恐怖が、さらに挫折の敗北感に重なっていただろう。そう言う人が実はリアルにいてこその昭和だったのだと思い出せば、その裏と表がひっくり返った今という時を、ぼくらはなんとか生きられるというのではないが、人というものの存在をなんとか肯定はできると思うのだ。

ロボットや人工知能、それを支える経済原理が全盛のこの時代、中身が何もないのに言葉の器用な繰り手ばかりのYoutuberが機関銃のような隙間のない、聞き手に心地良いリズムにしか聞こえない、中身のない言葉の礫(つぶて)を、お経のように隙間なく繰り出す。この現代を生きるのに必要な麻薬をぼくらに浴びせかける。

そういう時代が終わろうとしているその向こうの風景は、おそらく、裸の人間が、見渡す限り何もないNASAの映像に見るあの火星の荒野の大地に立つような、そんなイメージがある。荒野を超えてもまだ荒野が続く。そんな景色を思い起こさせる。その景色の中で、この、もともとが頼りなく、だらしのない人というものの存在を肯定してから、そこから全てが始まる、という新しい価値観の時代がこのトンネルの向こうに広がるであろう荒野の中に見えなくもない。頼りないが、結局人にはそれしかないのが、見えてきているのじゃないか?

正しい人がいるのではない。そこを目指すのでもない。そういう「人」が最初にあって、それを肯定して原点に据えてこそ、おそらく次の時代の扉が開くのだろう。なんだ、そんなことだったのか。何も変わらないが、変わった世界は少し見えるように思える。

トンネルの先に開けた荒野で、タバコを片手にくゆらせた浅川マキがこちらを見ている。「バカが。やっとここに来たか」そんな視線をこちらに投げかける。何が始まる、という予感はないが、どこかほっとしたものがあたりに漂う。

ただここに生きてあることだけが価値の全てであったと。

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