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第8話 僕が起業するまでの話(3) ついに両親の破産宣告

父の自殺未遂があった翌日から僕は会社に行くことになるが、最初の仕事は、金融機関回りだった。

入院している父に、右に行け、左に行けと言われて当面の資金繰りをすることになった。

あるサラ金では、応接室に通され部屋を見渡すと、3角形をした置き型の看板が置いてあり、そこに書いてあったのが、

「年利75%」だった。

「75%?」いや「7.5%」だろ?と目を疑った。

7と5の間に小数点を探したが、小数点は見当たらなかった。

銀行には、約束手形を持っていって、それを銀行に買い取ってもらった。

そのなかには、いつも同じ会社の名前があった。あとから、からくりがわかるのだが、いわゆる融通手形といって、取引がないのにお互い示し合わせて同額の手形を渡し合い、それをもとに現金をゲットする方法だった。そんな仲間もいたようだ。

会社では、資金繰りで奔走するほかは、印刷機を回すことはできなかったが、その後工程をやった。裁断機といって、人間も切れてしまうだろう紙を切る機械を覚えた。その切ったものを梱包して、お得意さんに届ける。そんな毎日になった。

ただ、自殺未遂をしようとするくらい、父の会社は追い込まれていたのだから、借金はそんなものだけではなかった。親族からも多額の借金をしていた。たしかに、これは回らない。僕が手伝っても焼け石に水だった。

僕は、父の友人で、僕が小さいことから家族ぐるみでお付き合いしていたTさんという方に相談に行った。Tさんは、ご自分で通信系の会社を興し、天皇陛下が視察に来られるほどの会社に育てられた方だった。社員は100人以上いたと思う。

Tさんは、ご自分の創業のころ、印刷会社に勤める父にずいぶんお世話になったと常々僕に話してくれていた。僕の話を聞いて、最初はそこまで深刻だと知らなかったといい、弁護士に相談するから、時間がほしいと言われた。

数日後、回復して仕事を再開していた父と僕は、ある喫茶店にTさんから呼び出された。

「ここに100万円ある。これで夫婦で破産宣告をしなさい」と言われた。

「顧問弁護士には話をしてある。この人を訪ねて手続きを進めなさい」と弁護士の手はずまでして下さっていた。

父は、「はい、わかりました。ありがとうございます」と涙を流し、安堵したようだった。父もやはり限界だとわかっていたのだろう。すんなりとお受けした。命を絶つ以外は、この方法になることを。

あとで聞くと、Tさんは男の子供がなく、後継者に悩まれており、小さいころからの僕を見ていて、後継ぎ候補として目をかけてくれていたそうだ。その僕を守るためにも、お金を出して下ったそうだ。実際、僕が銀行を辞める時、自分の会社に来ないかとお誘いを受けた。

父は、すでに半分ノイローゼのような感じで、この破産手続きに前面に出れるような状態ではなかった。


そこで、破産手続きは進めながら、並行して夜逃げの準備をすることになった。



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