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「文を書く」という娯楽

仕事で生成AIに触れる機会がだんだんと増えてきて、まとめの作成や、検討の土台作りなどは、実際にAIにやってもらうことを心がけています。

まだまだ全然使いこなせていないですが、それでも「自分で書いたら15分くらいかかりそう」という文章量が秒で出てくるので、ものすごく便利だと感じています。

どんどん活用して、仕事の効率を上げていきたいと思っているところです。

一方で、秒で軽く1,000字を超える文章が出力されていくのを見て、なんとなくの寂しさや虚しさを感じていたりもします。

変化する時の感情の揺れ、みたいなものだと思いますが、自分がなぜ寂しさや虚しさを感じたのか、少し考えてみようと思います。


たぶん”あるある”な「変化への抵抗感」

人間は変化を嫌います。これは生存本能ですよね。
なので、今までのやり方が根本から変わる(変えることができてしまう)と想像できたときに、本能的に抵抗感を抱くのだと思います。

私はきっと、無意識的に抵抗感を抱いています。
これはきっと「寂しさ」の部分です。

よく聞かれる「AIに仕事を奪われる」という感覚は、私が感じた「寂しさ」とつながっている感覚なのかもしれない。「知ってしまったら、もう知る前には戻れない」という類の寂しさもあると思います。

使い慣れたものとお別れしないといけないような、そんな寂しさです。

「勝てない」感覚

割と文章を書くのは得意な方だし、書くスピードも速い方ですが、例えば要約とかアイデア出し用のアジェンダとか、そういう類の文章であればAIの方が圧倒的に速いうえに精度が高いです。

AIとはそもそも競争するものでもないのですが、使い始めた頃は「AIってすごい!」と感じると同時に、「これは勝てないな」という感覚にもなりました。

ここはきっと「虚しさ」の部分です。

文章を書けるようになるために、それなりに努力をしてきたので、「あぁ、あの時間と労力をこんなにも軽々と凌駕されてしまうのか」という虚しさがあったんだと思います。

好きな時間が減っていく

でも、それよりもインパクトが大きいのは、「書く」という行為ができないことです。

AIを使うようになって改めて、私は「書くこと」そのものが好きなのだと感じました。

それがどんな文章であれ、「書くこと」が好きなので、仕事の中でも文書作成は好きな時間だったんですよね。それが減っていくことに、寂しさや虚しさを感じているのだと思います。

仕事においては、効率化できるものは効率化していくことが絶対的に正解。なので、AIはどんどん活用していきたいと思うし、使いこなせるようになりたいとも思う。

自分が感じた寂しさや虚しさを処理するためには、今まで「書くこと」と一括りにしていたことを、分解していく必要があると思いました。

「書く」という娯楽

ひとつの解として、私は「書くこと」を自分のための娯楽として位置付けることにしました。

文書作成の仕事に感じていた楽しさはいったん捨てて、そこは効率化へ振り切ります。(「楽しく仕事をする」を捉え直すタイミングなのかもしれません。)

そして、「正解と形がないものの言語化」の部分を、娯楽として楽しもうと思います。もともとnoteは趣味で、脳内整理や感情の言語化のために活用してきましたが、それを、より「自分だけの感情を大切にする時間」にしていきたいと思っています。

私が抱く感情は、私だけのもの。感情は、その人だけに与えられたギフトです。思考や価値観も然り。

自分で文章を書くときは、「書いていて楽しい」という気持ちを感じながら、娯楽として楽しんでいきたいです。


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