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ソフィ・フォン・フェルセンと彼女の過ごしたロフスタッド城

 皆さんはフランス王妃マリー・アントワネットの愛人と言われる、アクセル・フォン・フェルセンに妹がいたのはご存じでしょうか? 彼女の名前はソフィ・フォン・フェルセン。アクセルがマリー・アントワネットの他に心から愛した女性がいたとすれば、このソフィでしょう。私はこの夏、スウェーデンのノルチェーピングにあるロフスタッド城を訪れました。ロフスタッド城はソフィ・フォン・フェルセンが晩年を過ごした城なのです。


Eva Sophie von Fersen (婚姻後:Sophie Piper) スウェーデン国立美術館所蔵 

 今回のNoteでは、ソフィ・フォン・フェルセンをご紹介したいと思います。ソフィの正式な名前はエヴァ・ソフィ・フォン・フェルセン。婚姻後の名前はソフィ・ピパー(パイパーという表記で書かれた日本語文献もある)。ソフィは1757年、ストックホルムのヤコブス教区で誕生しました。父親は王室顧問官のフレドリク・アクセル・フォン・フェルセン侯爵、母親はヘドヴィグ・シャーロッタ・デ・ラ・ガルディエ、そして兄がアクセル・フォン・フェルセンでした。

Hans Axel von Fersen

 ソフィは10代の頃からその美貌と魅力的な立ち居振る舞いで社交界の注目を浴びる存在でした。貴族の子女として高い教育を受け、母国語スウェーデン語の他、フランス語、英語、イタリア語を話すことができました。17歳の時にはすでに、当時の国王グスタヴ3世の弟、フレドリック・アドルフ公爵から熱心な求婚を受けていました。

 1774年当時、スウェーデン国王のグスタヴ3世と妻のソフィア・マグダレーナの間には子どもがいませんでした。継承者がいないことは、王室にとって大きな問題です。そこで白羽の矢が立ったのが、現在のドイツにあるオイティン出身のヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプでした。まだ15歳でありながらグスタヴ3世の弟、カール公爵に嫁ぐことになりました。このシャルロッテをオイティンまで迎えに行くように命じられたのが、17歳だったソフィ・フォン・フェルセンでした。10代にしてソフィがすでに宮廷の仕事に携わっていたのがわかります。
 シャルロッテとソフィはオイティンからストックホルムに向かう船の中で深い親交を結ぶことになります。

Portrait of Hedwig Elizabeth Charlotte of Holstein-Gottorp (1759-1818)

 このふたりの美姫の友情を作家のアンナ・ラエスタディウス・ラーションが『幼き花嫁(Barnbruden)』という小説の中で描いています。本書の中では、ストックホルムに着く前、シャルロッテは不安にかられてソフィに言います。
「私を手助けしてね。私を手伝って、ソフィ。私ひとりじゃとても耐えられない」
ソフィもそんなシャルロッテを励まします。
「あなたをひとりになんてしないわ。みんなが私を引き離そうとしてもあなたのそばにいる。約束するわ」
 『幼き花嫁』はフィクションではありますが、15歳と17歳の少女が固い友情で結ばれた時、お互いに助け合い、ずっと一緒にいようと約束するのは、ごく自然なことではないでしょうか。

 シャルロッテは美貌と機知に富んでおり、やがてスウェーデン社交界の花形になります。

 王室の存続のためにスウェーデンに嫁いできたシャルロッテですが、残念ながら子どもには恵まれませんでした。カール公爵との間にロヴィーサという娘とカール・アドルフという息子が生まれたのですが、ともに1歳になる前に夭折してしまったのです。
さらに、1778年にグスタヴ3世とソフィア・マグダレーナの間にグスタヴ4世アドルフが誕生します。

 シャルロッテは継承者を残すという役割を果たすことはありませんでしたが、グスタヴ4世アドロフが1809年に失脚したことでカール公爵が正式にカール13世として即位したため、王妃になります。

 シャルロッテは王宮であったことを日記という形で記録しています。この日記は1775年から1817年まで続けられました。元々はフランス語で書かれていましたが、1902年にはカール・カールソン・ボンデがスウェーデン語に翻訳し、編纂して本の形で出版しています。
 同書籍中にはシャルロッテがソフィ・フォン・フェルセンに向けて書いた手紙も納められています。
「私の大切なお友達。ここで周りに起こったことを詳細に書き送ってほしいとおっしゃっていましたね。ストックホルムを離れている間、この社交界で何が起きているのか、知りたくなるのは当然だと思います。あなたへの友情の証として、私は毎月手紙を送ります。それを通して私の知る限りの情報をあなたに伝えることができるでしょう。さまざまな不愉快なできごとや宮廷内での陰謀について語ります。さらに全ての祝祭についても書き送ります。私自身、この文通をとても楽しんでいます。友情関係を続けるのはとても大切なことですから 1775年8月」(『ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテの日記』から)

 1777年、ソフィはアドルフ・ピパー伯爵と結婚し4人の子どもをもうけましたが、婚姻生活は必ずしも幸せだったとは言えなかったようで、アクセルの親友、エヴァート・タウベと長い間愛人関係にありました。

 1786年、ソフィはシャルロッテによって、王宮の女官長に任命されます。ふたりの友情は、1798年から1799年にかけてのシャルロッテのドイツ行きにソフィが同行するのを断った時に一度は冷めたようですが、シャルロッテは後に再びソフィを唯一の真の友と呼び、1816年にソフィが亡くなった時にはシャルロッテがソフィの伝記を書いたそうです。

 ロフスタッド城には、シャルロッテが自分で刺繍をし、ソフィに贈った手芸品が残っています。

シャルロッテからソフィへのハンドメイドのプレゼント


 さてもうひとりソフィを心から愛したのは、冒頭でも述べたアクセル・フォン・フェルセンです。
 アクセルはフランスでの諜報活動のさなかでも妹ソフィに手紙を書いているところをみると、よほど信頼していたのでしょう。
 1786年1月3日、アクセルはソフィにマリー・アントワネットの巻き毛を一房送っています。それを使ってソフィがブレスレットを作れるように。
「あなたの頼みどおり、こちらにこの巻き毛を送ります。あなたがそれを欲しがっていると知って、彼女はとても喜んでいました」

 1793年、マリー・アントワネットの裁判が行われ死刑判決が下された後、アクセルはソフィにこのように書き送っています。
「なんて、なんて辛いのだろう。お前以外に私がどんな状況にいるか、わかってくれる者はいないだろう。私はこの世界にあった、全てを失った。私に残っているのはお前だけだ。お前だけは私を見捨てないでほしい。私を幸せにしてくれたあの人、私の命はあの人のためにあった。愛するソフィ、私はあの人を愛することを決してやめることはない。この世にあるものは全て、あの人に捧げてしまった・・・」
 あの人とはもちろん、マリー・アントワネットのこと。アクセルはこの時、まさに地獄の苦しみの中にいたのです。

 マリー・アントワネットの死後、アクセルはマリー・アントワネットの遺品を集めることに必死になります。その様子を、アクセル・フォン・フェルセンの日記をフランス語からスウェーデン語へと翻訳し、編纂したアルマ・セーデルイェルムはこのように記しています。
 フェルセン自身はこの時期彼女(マリー・アントワネット)のもとにあったであろう品々と思い出を集めるのに終始していた。過ぎ去った幸せな日々の、最後の残り香だった。「私は彼女が所持していた物を何もかも集めたい」そうアクセルが日記にも、妹ソフィへの手紙にも書いている。

 ロフスタッド城には、アクセルが手に入れたマリー・アントワネットの寝具が展示されています。


マリー・アントワネットの遺品。ベージュのふとんがマリー・アントワネットが使っていたもの

 なお、この頃スウェーデンの宮廷に出入りする上級社会の女性の間では、フランスの悲劇の女王の運命に対する興味から、フランスの商人を通してマリー・アントワネットの遺品を買い求めるのが流行になったとか。エリクスベリィ城にはヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテからグスタヴ3世の妹、ソフィア・アルベルティーナ王女へ送った手紙が残っており、そこにはカール公爵(後のカール13世)から妻のシャルロッテへ幅広のレースが贈られたことが書かれています。それはマリー・アントワネットのペチコートについていたものだったそうです。

 アクセルはマリー・アントワネットが処刑された後、生涯独身で過ごしました。そんなフェルセンがやはり心のよりどころにしたのはソフィでした。アクセルはマリー・アントワネットが亡くなった後、ソフィにこのように書き送っています。
「私はもう決して結婚することはない。そんなことはあり得ない。いつか私が母と父を亡くすという不幸にみまわれたら、愛するソフィ、君がこのふたりの代わりをつとめてほしい。また妻の役割も。君は私の屋敷の女主人になり、私の物は君の物だ。そして私達は決して離れることはないだろう」

 この言葉どおり、ソフィは夫アドルフ伯爵の死後、ストックホルムのブラシエホルメンにあるフェルセン家の屋敷でアクセルと共に過ごし、女主人として家政を取り仕切ったのでした。(https://stockholmskallan.stockholm.se/post/33661)

 1800年代冒頭、カール13世とシャルロッテの間に王位継承者がいないことは大きな問題になっていました。そこで迎えられたのがデンマークの王子、カール・アウグストでした。ところがカール・アウグストは突然馬から落ち、そのまま亡くなってしまいます。解剖の結果、カール・アウグストの死因は心臓麻痺(脳卒中という説もあり)だったことが判明しているのですが、人々は熱心なグスタヴ王朝支持者だったアクセル・フォン・フェルセンに疑惑の目を向けました。アクセルによる暗殺説が市中に広まり、怒りの矛先が向けられました。
 1810年6月20日、アクセル・フォン・フェルセンはカール・アウグストの葬儀のさなか、群衆によって凄惨なリンチを受け、命を落としたのです。
 この時、ソフィにも疑惑の目は向けられたのですが、ソフィは裁判によって無実を証明することができたそうです。

 ソフィはその後、ロフスタッド城へと移り、ひっそりと晩年をおくったそうです。彼女は主に広大な庭園で過ごしていたとか。そこには彼女の愛する兄、アクセルの記念碑が建てられています。

 

アクセル・フォン・フェルセン記念碑

 1816年2月11日、ソフィは生涯を閉じました。彼女の亡骸はフェルセン家の墓石があるエステルイェートランド地方のユング教会(Ljuns kyrka)に納められました。
 ソフィの死後、壮麗なロフスタッド城は子孫へと受け継がれ、最終的にはひ孫のエミリー・ピパーが大切に管理しました。彼女は独身のまま亡くなったため、城は彼女の遺言によりストックホルムの『貴族の館(Riddarhuset)』に寄贈され、現在はエステルイェートランド県美術館となっています。


 ロフスタッド城で撮影した写真をいくつかお見せしたいと思います。


ダイニングルーム


図書室


ロフスタッド城最後の女主人、エミリー・ピパーの書斎


サロン


庭園

 いつか機会があったらこの美しいロフスタッド城を訪れてみてくださいね。
文責:中村冬美

中村冬美(今井冬美):東海大学北欧文学科を卒業の後、スウェーデンのヴェクシェー大学(現在のリンネ大学)北欧言語学科に留学。主な訳書に『自己免疫疾患の謎』『よるくまシュッカ』『あるノルウェーの大工の日記』『海馬を求めて潜水を』『予測脳』など。デビュー作の『私を置いていかないで』は青少年読書感想文全国コンクールの「課題図書」に選出された。

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