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物語中で障がい者はなぜ残酷な仕打ちを受けたのか?――障がいを持つ登場人物が、負わされがちな役割について

海外文学の中で突然に殺された障がい者
 ある文学作品の中で、障がいを持つ少年が、残虐に殺された。作品を読んだ人の多くは、人間の狂気、残忍さを描いた傑作などと絶賛していた。
 私(枇谷玲子)も一緒に「いいよね」とうなずいて、仲間に入りたい。だけど、疑問を抱かずにいられなかった。「どうしてその障がいを持つ少年は、殺されなくてはならなかったのだろう?」「障がい者が物語の雰囲気作りの道具に使われたのではないか?」と。

私の世界を見る目を変えた、ある作家との出会い

 そんな風に感じたのは、自分自身の思考の癖によるのかもしれないが、ある作家との出会いも、無関係とは言い切れない。

 その作家とは、ノルウェーの作家、Jan Grueだ。1981年オスロ生まれで、現在、オスロ大学で社会学の教授をしている。2010年から作家活動を行い、『ボディーランゲージ――文化、社会において障がい者はどう表現されているか』をはじめとした作品で、高い評価を得てきた。

 そして2018年に発表した自伝的ノンフィクション『私はあなた達と同じような人生を生きている』で、その才能をさらに広く世に知らしめることになる。「ノルウェーのノンフィクションの世界における伝記文学を新たなステージに引き上げた」とMorgenbladet紙で絶賛され、批評家賞受賞、この50年間でノルウェーのノンフィクション作品で初めて、北欧会議/理事会文学賞にノミネートされたのだ。さらに同作は今年、英語に翻訳され、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出演し、近年は自身がパーキンソン病を患ったことから、病気や障がいについて理知的な発言を発表し、注目されているマイケル・J・フォックスに、New York Times紙で絶賛された。

 また英国Guardian紙への寄稿記事も話題になった。

 さらに先日、アメリカのKirkusレビューの選ぶ2021年ベスト・ノンフィクション100冊に選ばれた。

 世界でベストセラーになってから、遅れて日本でも注目された『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』の解説と共訳を手がけた作家デイヴィッド・ミッチェル(邦訳多数あり)との対談も先日行われるなど、話題が尽きない。

 さらに今年ノルウェーで発表した自伝的ノンフィクション作品『もしも私が倒れたら』は、ノルウェー国内で Fritt Ord賞を、お隣スウェーデンでP.O Enquist賞を受賞するなど勢いが止まらない。

どんな作品か?


 『私はあなた達と同じような人生を生きている』と『私が倒れたら』を私は読んだが、これら2作の類書は何だろう? 東畑 開人さんの『居るのはつらいよ』(医学書院)か? 自らの立てた問いとの向き合い方は似ているかもしれないが、いや、語り口が違う。ノルウェーの批評家達と同じく、私も「こんな種類の本があったのか」と驚かされるばかりで、類書がなかなか浮かばない。


 『私はあなた達と同じような人生を生きている』は、『タイムトラベル』(ジェイムズ・グリック作、夏目大訳、柏書房)の話をフックに、時間とは何か、筋ジストロフィーである自分にとって時間はどう流れるかという哲学思考の世界へ読者を誘う。学生の頃、アイススケートをした時に、クラスの皆が一列に並んだ場面などは、『世界の果てのビートルズ』(ミカエル・ニエミ作、岩本正恵訳、新潮社)の表紙のようなノスタルジックで美しい情景が読んでいて頭に浮かび、胸をきゅっとさせられる。他にも様々な印象的な言葉が雹みたいに私に打ち付ける。

「他者の視線は――とりわけ大人の視線は――時間を可視化させる。子どもというのは一体一日何をしているのだろうかと大人は首を傾げるが、特に何も、というのが子ども達の本音だ。だか大人が見ている前で、何もしないということは許されない。他者の――大人の見ている前では、何もせずにいるというのは至難の業だ」

 最新作の『私が倒れたら』は、車椅子を走らせていて、突然、ブレーキがきかなくなる場面からはじまる。続いて、アメリカ留学の際、降りかかる困難を切り抜けるための助けを得ようと、哀れで無力な存在を演じなくてはならなかった時の虚無感や、身体障がい者の隠れた歴史、家柄や階級のことは忘れろという平等社会、ダイバーシティの時代について語られる。ノーマライゼーションの理論を体系化したヴォルフェンスベルガーゴッフマン、また障がいを持つ表現者達が打ち破ろうとする固定観念について、Petra Kuppersの言葉も、物語に織り込まれていく。

           ↑ Petra Kuppers

 ルーズベルト大統領が権力者たるもの車椅子に乗っているところを民衆に見られてはならないとその姿を写真や映像に映されないようにしていたため、当初、多くのアメリカ国民に車椅子に乗っていたことを知られていなかったことや、鄧小平の息子が窓から飛び降りて半身不随になり、鄧小平が介護していたことなど、障がい者の歴史について、多くの読者が知らなかったであろう様々な驚きの事実が畳みかけるように次々に提示される。


 2009年春、サンフランシスコの障がい者の歴史セミナーに作者が研究者として参加した際、『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』(中山ゆかり訳、フィルムアート社)の著者ジョージナ・クリーグの講演を聴いた際のことを書いているのも興味深い。

 目が見えず、耳も聞こえず、口もきけないヘレン・ケラーに、サリバン先生が奇跡的に《水》という言葉を教えることに成功し、そこから次々に二人で二人三脚で困難を克服していき、ついにはヘレン・ケラーは障がいを抱える人のロールモデルとして語り継がれるようになる。ジョージナ・クリーグは、講演で、そんなヘレン・ケラーについて怒りを語っていた。怒っていたのは、遠い昔に亡くなった死者に対してではない。彼女についての逸話、そしてその逸話の利用のされ方に対してだ。

物語の中で障がい者がどう描かれているか?

 最初の問いに戻ろう。私がこの記事を書いているのは、特定の作品を非難するためではない。そのため、読んでいる皆さんには、これまで読んだ障がい者が出てくる物語を各自、思い浮かべながら、読み進めてほしい。
 Jan Grueは『私が倒れたら』でこう書いている。

『普通の体』などない。体はひとつひとつ違っている。なのに健常者、障がい者という概念で、二つに線引きされる。『彼達』は私達とは違うのだ、と。

 ここでひとつ、考えてみてほしい。あなたがこれまで読んだことのある、障がい者の出てくる物語の中で、障がい者が、健常者とただ不自由で哀れな存在という風にステレオタイプに描かれていませんか? どの人も――障がいがある人もない人も、それぞれ皆、異なる、かけがえのないひとりの人間なのに。

 またJan Grueは、フランス映画『最強のふたり』の舞台版を観にいった際、車椅子の登場人物が、脚に本当に麻痺しているか確かめるため、熱いヤカンを押し当てられる場面を観て、吐き気を覚え、たまらず会場を抜け出したとしている。たとえ痛みを感じずとも、肉体は傷つく。しかしその舞台では、麻痺した体が、アイデンティティを持った肉体、その人の一部としてでなく、まるで物のように描かれている。ユーモラスさが売りのこの舞台に観客が笑い声を上げる中、観客を驚かせる演出のため、肉体が残酷に痛めつけられる様に、Jan Grueは吐き気を覚え、会場を後にしたのだった。

 ここでもうひとつ、質問です。あなたの読んだことのある物語の中で、障がい者は、何の必然性もなく、ただ物語を盛り上げるためだけに、残虐な仕打ちを受けたり、物のように無惨で手荒い扱いを受けたりしていませんか?

 こんなことを考えた私は、不安になった。せっかく作品を面白い、素晴らしいと楽しんでいた人の、気分を害してしまうのではないか? と。 

 多数派の声が尊重されがちなこの世の中で、世渡り上手ではないのかもしれない。でもやっぱり私は考えたい。Jan Grueさんの作品に触れることで、自分には見えていなかった世界を見てみたい。自分がこれまで持ってこなかった視点で、世界を見ている人の思考をのぞいてみたい。そしてそれを訳して、世の中に示したい。たとえ全ての人に歓迎されずとも。

(文責:枇谷玲子
 

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