2018年 東松山市長選挙 2日目分析

 本日(2018年7月2日(月))、埼玉県の東松山市長選挙と東松山市議会議員補欠選挙の選挙公報が東松山市役所のwebサイト上に公開された。


■ 立候補者情報と選挙公報について(東松山市役所)


 安冨歩候補と森田光一候補の最大の相違点は、安冨歩候補は「現状のシステムや、現状のシステムの基礎となった近代経済学をはじめとする学問が、暴力や不幸を生む元凶になっていると捉え、子供をあらゆる暴力から守ることを最優先とし、人間の幸せを阻害する要素を取り除き、人間が幸せと感じ易くなる環境を整えるために、全てのシステムと政策を一から見直す。」という方針であるのに対し、森田光一候補は、「現状のシステムの中で諸問題に対処する。」という方針であることだ。


■ 2018年7月2日(月)夜  安冨歩候補 東松山駅前演説(文字起こし)

こんばんは、東松山市長選挙に立候補しております、安冨歩でございます。

(聴衆「イエーイ(聴衆の拍手)」)

ありがとうございます。
何回ここに立ったのか、段々記憶があいまいになってきたんですが、この時間にここに立ってですね、演説したのは初めてのような気がしました。たぶん。

この市長選挙で私がずっと訴えてきたこと、これからも訴えますが、子供を守るということにつきます。
「子供を守り、未来を拓こう。なつかしい未来を拓こう。」というのは、私のこの選挙にのぞむ根本的な方針であり、公人ですね、市長になった場合には、10年間の市政の基本に変えます。

なぜ子供を守ろうというのかというと、それが私達が現在抱えている問題全てを解決する鍵になるっていう風に考えているからです。

子供を守るというのは、もちろん、人類が普遍的にやってきたことですし、今も皆様はそのために頑張っていると認識されていると思っているんですが、実際、特にですね、近代になって、子供の死亡率というのは急速に下がってきました。

1918年、第一次世界大戦が終わった年というのは、明治以降ですね、幼児死亡率の統計の中で一番死亡率が高かった年なんですが、それはスペイン風邪といわれる悪性のですね、インフルエンザであって、全世界の莫大の人、戦争、第一次世界大戦で死んだ人の数よりも、その後の風邪の流行で死んだ人の方が多かったんですが、その時、1000人あたりの赤ちゃんの1年以内の死亡率は、188人でした。

つまり、赤ちゃんが10人いたら2人は、スペイン風邪で死んでしまったんですね。
現在日本では、幼児死亡率、乳児死亡率は1000人あたり0.9、1人を切っている。
赤ちゃんが1000人いたら、1人も1年以内に亡くなることは無いところまできました。
これは、子供を守るという意味で、非常に大きな前進であったと思いますが、重要なことは、近代社会の目標は、子供を守ることでは無かったということなんですね。
近代社会の目標は、富国強兵、国を豊かにして、軍事力を高めるっていうのが、近代社会の基本的な目標であり、私達も現在、私達が生きている社会も、その富国強兵のために作られたシステムで、基本的にできている。
その中で、経済発展が実現し、豊かになって、そのある意味副作用として子供を守るつもりなんかどこにも無かったんだけど、子供が死ななかったというのが近代の変化だった。
ですから、子供のですね、赤ちゃんの命を救うということに関しては私達はほぼ完全に達成しています。
じゃあ、なぜ、「子供を守ろう」と私がいうのか、というと、それは、子供の体は守っているかもしれないけど、心を踏み潰しているからだ、と思うからです。
特に、私のような、高学歴、京都大学、私は京都大学の卒業ですが、京都大学や東京大学といったエリート校を卒業する人々というのは、子供のときから、ずっと、■くらい勉強しています。
私が東大の試験監督をして毎年思うんですけれども、ものすごく沢山の学生が、トイレに駆け込む。
試験が始まる前も、トイレに長い行列ができます。
ある年には、あまりにも行列が長くて、試験時間を遅らせるっていうことが発生して新聞記事になったりもしました。
で、ある時、学生に、聞いたんですが、つまり、試験が始まってもですね、すぐにまた、トイレに駆け込む子供達がいます。
で、その子達に、付き添っていかないといけないので、そのときに、「なぜトイレに行くの?」って聞きました。
それは、東大の入試問題というのはものすごい量があって、それをですね、2時間とかの間に解かないといけないんですが、2時間では全然足りないんですね。
で、「どうして、そんなに大変なテストを受けているのに、トイレに行ったりするの?」って聞いたら、「お腹痛いんです。」って、その学生は訴えてきました。
「そうだな、そりゃそうだよな。」って、思ったんですが、その東大の入試会場に現われる子供たちは、生まれたときから18年間あるいはそれ以上に亘って、親の強い期待の中で勉強をして、その才能を伸ばして、東大に入って欲しいっていう、親の強い期待を受けて、そして、それに応えながら生きてきた子供たちで、それがですね、まさに、その最後の審判の日に鉢合わせた、審判の日がやってくるわけですね、そりゃ当然、お腹も痛くなるだろうと思うんです。
で、その、お腹の痛くなる人達は、おそらく、大学には合格していないだろう。
それだけの期待を背負い、孤独を乗り越えて、緊張しても、お腹なんかちっとも痛くならないような、鉄の情を持った人だけが東大に合格しているんだろうと思います。
ある年、数学の入試の問題が終わった時じゃなくて、テストが終わった時に、その部屋の中にですね、かなり感じの良い、女性がいたんですが、その女子学生はテストが終わった途端に、静かに涙をハラハラと流してそこに座っていました。
私は、「あぁ、この子はテスト、思ったよりできなかったんだな。」と思って、でも、それと同時にものすごく心配になって、もしかしたらこの子は帰りの電車に飛び込んだりするんじゃないかと思って、声をかけてですね、「こんな難しい変な問題、解ける方がどうかしてるんだから心配しなくてもいいよ。」って言ったら、本当にハラハラと涙を流して「大丈夫です。」と言って帰って行ったんですが、それが東京大学の入試というものです。
そういうところにですね、自ら飛び込んで行くっていうのは、やはり普通の人間にできることではなくって、それは、とてつもない強い圧力によって■されて、是が非でもですね、東大に行くんだ、みたいな、そういう力で勉強していくってことが絶対的に必要なんですね。
で、そのために、10歳から18歳くらいの人生で最も輝かしい時期を勉強に明け暮れるっていう生活を、それをいやいやするのでは絶対に東大には合格しない。
それを喜んでするっていうそういう精神状態になっていかなければ決して到達できるような、回答できるようなテストじゃない。
例えばどの科目の問題を見ても、試験監督のときに見たら私は全くわからなくて、「よくこんなもん解くよなぁ。」って思いながら、試験監督をしていましたが、非常に難しい問題なわけですね。
それを18歳という人生の最も輝かしくて美しい時代の時間を犠牲にして勉強を続けて、お腹が痛くなるような空間に■を残すことができるということは、子供たちは、間違いなく、自分は存在するだけで意味があるとは思っていないんだと、そうではなくて、自分は存在するだけでは意味が無く、成果を挙げることによってのみ生きることができるっていう風に信じている。
親から、毎日、いい子にしていれば生存していいよという、生存切符を発行してもらって、それを毎日発行し続けてもらっているっていうような、そういう体質の子供たちが、東京大学や京都大学のようなエリート校に合格するんだと思います。
私自身もそうでした。
私は、子供の時から、ずっと、いい子だったんですけども、成績が良くて、勝ち続けたことができて、誰からも褒められて、親は私をずっと自慢していました。
しかし、私の中の子供時代、青春時代というのは、何か、生身の雲がいつも漂っているような気分で、常にですね、自殺とか無差別殺人の衝動に耐えて、暮らしていました。
本当に、今も思いますが、あの時、自殺も、無差別殺人もしなくて、本当に良かったと思いますが、それはおそらく、たまたま、そういう機会が■の間、無かったってだけのことであって、何か、不運があれば、私はきっとどちらかをやっていただろうと思います。

そういう精神状態で、追い込まれた人間っていうものは、エリートになって、その後、考えることは、ただただ、偉い人に褒められたり、偉い人には叱られないようにしようという、そういうエネルギーで仕事を続けるのであって、自分がやりたいことをやり続けるとか、楽しいことをやるとかいうのは非常に強い罪悪感を覚えるようになります。
だからこそ、受験勉強をするという、自分自身にとっては何の意味も感じられないようなものに、全エネルギーを注ぐことが可能になります。

そうやって、勉強し続けた結果、大学に合格し、さらに、東大の前、恐ろしい進学振り分けというシステムがあって、1年生2年生の間にですね、教養学部というところで勉強するんですけども、そのテストの平均点で自分が希望の大学の学部に進めるかどうかが振り分けられるという2番目の選択、試験があります。
ですから、かなりの学生が地獄のような受験勉強を潜り抜けてきた直後から、2年後の進学振り分けを■して大学の教養学部で高得点を貰うぞということを始めます。
私が、東京大学の教養学部の助教授として赴任したときに、ある先生からですね、この学部の地域文化研究科というところなんですが、この学部の学生達は、東大でも最も優秀で、教養部の平均点が90点を超えている子が沢山いるんだっていう風に聞きました。
で、私はものすごくびっくりして、何でかというと、教養部の授業なんか適当にやってですね、試験なんかすごくいい加減にしてるんですね。
それで、「そういうもので90点取れてくるというのは頭おかしいんじゃないですか?そんな学生は退学させたほうがいいですよね。」と言ったら、先生はものすごく面食らったんですけども、そういう、ほとんど意味がわからないような難しい内容のテストでも、充分な感覚を得て、先生が喜んで90点をつけてくれるような回答をするっていう能力を磨き上げた人々が東京大学では成功を修めている。
さらに、司法試験とか、外交官試験といった多くの試験を潜り抜けることによって、東大のエリートたちは、官僚になっていきます。
で、そのような、人々が、私達の社会の中枢にいるっていうことを皆さんにご理解頂きたい。
最近の、モリカケ問題とかで、東京大学を卒業し、エリート省庁の本当にトップエリートにまで上り詰めた人々が、平然とですね、ニヤニヤしながらいい加減な嘘をついて政治家に媚を売るという様子を見てですね、何であんなに優れたエリートたちがあんなことをするのだろうという風に皆さんは思っておられるかもしれませんが、それは間違っている。
何でエリートなのにではなくて、あれは、エリート中のエリートだからするっていうことなんですね。
そのような人々によって、指導されている国は、必然的に子供たちに非常に強い圧力や抑圧を加えるということになります。
ですから、その現代のシステムは、そのような学歴エリートに有利なように、学歴エリートといったから、肯定されるように、設計されています。
なので、ごく普通にこのようなシステムの中で子供を普通に育てるということは、そういったシステムの中に、子供の魂を投げ込むっていうことになります。
私が、「子供を守ろう」といっているのは、そういう意味です。
現代社会で、普通だと思われているようなことに、子供を普通に育ててしまうと、子供の魂を踏み潰してしまうことになる。
最近発生した、恐ろしい、5歳の女の子を飢え死にさせるというような、酷い虐待の事件がありましたが、あれは、子供をしつけるという形で行われました。
子供をしつけるというのは、子供を餓死させることなんです。
それはいくらなんでもやりすぎだと思われるかもしれませんが、やりすぎなだけなんですね。
いってみれば、あの虐待は、虐待のストレートであって、日常的に私達が行っていることは、虐待のアメリカン。
水で薄く薄めた子供の虐待をしつけという風に呼んでいて、いくらなんでもこれはやりすぎだっていう風に考えているわけです。
もちろん、虐待がひとりの子供に集中すれば、その子は殺されます。
しかし、同じ虐待を1000倍に薄めて1000人の子供達に投与すれば、やはり、ひとりの子供が死んでいるわけです。
なので、子供をしつけるということは、子供を殺すということと変わらない。
私は、そう考えています。
「子供を守ろう。」と私が申し上げているのは、そういうことを止めようということです。
子供達にものすごい抑圧をかけて、造り出された、エリートという人間、学歴エリートという人間達に都合の良いように作られたシステムに松山の子供達を投げ込むのを止めて下さい。
松山の子供達は、世界でも最も恵まれた美しい自然の豊かな街で育っている素晴らしい人々です。
このような、私達の宝である子供達を学歴社会地獄の中に投げ込むのは止めましょう。
しつけと称して虐めるのを止めて下さい。
そうすれば、子供達は、梶田先生がこのノーベル賞の記念碑の中で書かれているように、豊かな自然の中でのびのびと育つということが可能になります。
松山の自然、文化、歴史、それらのことは、非常に豊かな知恵です。
その中で、子供を育むならば、私達は松山の全ての子供達の心を守り、豊かに暮らすことが可能です。
のびのびと心の翼を広げて、成長した子供達は、間違いなく、松山を発展させてくれるはずです。
子供を守りましょう。
子供に意味の無いことをさせるのをやめましょう。
一番意味のないのは、意味の無い勉強です。
子供達は好奇心に溢れていて、意味のあるものを深く理解する力を持っています。
例えば、梶田先生の、この記念碑の中に、ニュートリノの説明がありますが、これを読んだ大人は一体何人いるでしょうか。
梶田先生を尊敬しているといっても、梶田先生の仕事を理解しようと少しでもしない、そういうことを少しでも努力を払わないのならば、それは梶田先生を尊敬しているのではなくて、ノーベル賞を尊敬しているということになります。
ノーベル賞を尊敬して、梶田先生を尊敬しないのは、梶田先生に対する侮辱です。
子供達はひとりひとりに、梶田先生の記念碑だけではなくて、梶田先生の人生を描いたマンガを配布されていて、多くの子供達は難しすぎて読めないかもしれないですが、かなりの■の子供達はあのマンガを熱中して読んでいます。
ある小学校4年生の女の子は、11回読んだといっていて、その子は、「ニュートリノには3種類あるんだよ。」と、私に教えて下さいました。
子供達の好奇心と、理解する力は、とてつもなく高いんですね。
それは、私達大人がはるか昔に失ってしまったものです。
そのような、高い好奇心と理解力を持つ子供達を大人がしつけるなどというのは言語道断だと思います。
こんなくだらない世の中を作っておいて、子供を治療したり、しつけたり、しかったりする権利が私達のどこにあるんでしょうか?
子供達は私達よりも大人よりもはるかに秩序を作り出す能力を持っている。
子供同士の間で様々な問題を話し合って解決する力を持っている。
もちろん、ケンカもするでしょうが、しかし、大人と違って、殺人事件に及ぶようなことはあまりありません。
残念なことに、松山では、ごく最近、中学生が高校生に弄り殺しにされるという恐ろしい事件が起きました。
このような事件が起きたということは、私は、松山の社会が、どこか歪んでいるから、この社会の歪みが子供達に加わって、あのような事件に、帰結したんだと考えています。
私の「子供を守ろう。」という政治的なメッセージの最も直接的な表現は、決してあの都幾川殺人事件のような恐ろしい事件が起きないようにする、それは不良少年を取り締まるということではありません。
それは、私達の社会の何が歪んでいて、何が子供達に圧力を加え、どうしてあのような悲惨の事件に導いたのかを理解し、それを解決するということです。
もちろん、私達の社会の根幹は、日本国のエリート達によって決定されているので、簡単に変えることはできません。
例えば、子供達に対する最も直接な抑圧機関である学校というものは、様々な法律で縛られていて、「子供を守る基地に変える」という私の目標を実現することは簡単ではありません。
しかし、日本国の地方自治はそれほど脆弱なものではない。
東松山の人々が、子供を守るということを最優先、自分達の社会にとって最も大切なことだ。
そのように納得されたから、地方社会もこのように作動せざるを得ないし、地方政府もこのように、行政しないといけないし、そうすれば学校の構造は国によって決められていても実際の運営は全く違ったものにすることができます。
子供に余計な知識を詰め込むのは止めましょう。
大人の皆さんはよく知っていると思います。
学校で学んだことは、全部忘れるということを。
何年も何年もかかって、何千万円というお金を使って、私達は学校で教育されてきましたが、学校で習ったことは、全部、忘れている。
それは、税金の無駄遣い。
恐ろしい、無駄遣い。
お金の無駄遣いであるだけではなく、子供達の莫大な時間を奪い、先生方の莫大な時間を奪い、お父さん、お母さんの莫大な時間を奪い、全て、無駄にしていることになります。
こんな無駄を続けるのを止めましょう。

(安冨歩候補が、近くを通りかかった市議補選の井上しょうこ候補の街宣車に対して手を振って)
井上さん、どうも、頑張ってください。

このような無駄を続けるのは止めましょう。
子供達は好奇心と理解力に溢れています。
子供達が知りたいと思うことをしてもらいましょう。
子供達が不思議だと思うことを自分で解決してもらいましょう。
そのための支援をするのが学校であるべきです。
それ以前に、学校は子供達の命を守る基地であるべきです。
ご飯を食べていない子供がいたり、親に殴られてる子供がいたり、友達に虐められてる子供がいるというのに、授業をするというのは、私には狂気にしか見えません。
そんな状態にある子供には、何を教えたって、決して頭に入らないし、そんな友達がひとりでもいるっていう状態で平然と勉強できる子がいるとしたら、その子はどこか狂っています。
子供達が、全ての暴力から守られ、誰もが、食う、寝る、遊ぶ、基本的な条件を満たす時にのみ、私達は子供を教育することが可能になります。
もし子供達に知識を広げて欲しいと思うなら、まず、子供達の食べる、食うを守りましょう。
そして、子供達が、安心して寝られる場所を作りましょう。
その条件が満たされて初めて、私達は、子供を教育するということが可能になります。
ですから、学校は、教育の機関であるためには、何よりも子供の命を守る、子供の暮らしを守る、そういう機能を帯びていなければならないはずです。
子供達は、悲しいことや辛いことがあったら、まず、学校に逃げ込もう、そんなところに変えようではありませんか。
そうすれば、子供達が、学校に行かないなどということで悩むことがあるでしょうか?
学校から帰ってこないといって悩むようになると思います。
その時には、子供達が喜んで帰ってこれるような家庭にしましょう。
そうなった時、松山は、全ての子供達が楽しく食う、寝る、遊ぶ、楽しむことができる街になると思います。
日本中で子供達は苦しんでいます。
沢山の子供達が「自分達が生きていて何の意味があるんだろう。」「自分には生きている価値が無いんじゃないだろうか。」、そう思って、苦しんでいます。
松山がもし、子供を守る、子供を本当の意味で守る、そういう街に変わるならば、日本中から人が集まってくるはずです。
日本中から子供を連れて人々が集まってくるはずです。
それどころか、おそらく、世界中から、人が集まってくるはずです。
そのとき、松山は世界の中心になります。
私はこのようなことが、十分に可能だと考えている。
子供を守るのに、お金なんか要りません。

(市長選挙の森田光一候補陣営の方との交渉)
はい。
森田さん、ではあと10分くらいで私がここを■ます。
はい。
(19時)35分から■。
はーい、(19時)35分までやらせて頂きます。

松山には、豊かな自然が、資源があります。
松山には、豊かな文化もあります。
松山には、豊かな人々が住んでいます。
私は東京に2000年にやってきて、去年まで住んでいましたが、東京には空がありません。
東京に住む人は、本当の空が見たい。
松山には空があります。
本当の空があります。
毎晩、毎晩、私達は、美しい松山の夕日を見ています。
これは、どんなお金に換えることもできない、私達にとっての豊かな資源です。
松山には美しい、山があります。
松山には美しい、川があります。
松山には美しい、家があります。
松山には美しい、街があります。
しかし、日々、それらは敵に盗られていきます。
私達は、日々、家を壊している。
私達は、日々、自然を壊している。
私達は、日々、文化を壊している。
こういう破壊を続けていけば、松山もこの美しい自然、文化、歴史、そして人の心はやがて消え去ってしまう。
もしそうなってしまえば、この松山は、私が大好きな松山ではなくなってしまいます。
道を広げ、工業団地を作り、ショッピングモールを作り、便利にするという、そういう心掛けは完全に時代遅れです。
そのようなことを続けて、文化や、自然や、歴史を破壊してしまえば、松山は、もはや何の魅力も無い場所に変わります。
松山の文化や歴史や自然を守りましょう。
家を壊すのを止めましょう。
川を取り戻しましょう。
山を守りましょう。
そして、それらを繋ぎ合わせて、「なつかしい未来」を作りましょう。
農業の農薬を減らしましょう。
できれば、無農薬を推進しましょう。
そうして、川を作り替えましょう。
護岸を外して、もっと綺麗な川にしましょう。
そうすれば、川に蛍が帰ってきます。
全ての川を貝に住ませましょう。
全ての川に蛍を呼び戻しましょう。
松山の駅に蛍を呼び戻しましょう。
そうすれば、この街に誰もが憧れます。
今日、私は、松山のシャッター街を馬で歩きました。
馬と共に、歩きました。
松山には、つい最近まで馬がいました。
この地域が、関東の中心的な地域であったのは強力な騎馬軍団がいたからですが、それは、比企丘陵が馬の放牧に適していたからです。
馬はこの地域の魂です。
馬を呼び戻しましょう。
馬車を走らせましょう。
学校に馬を呼びましょう。
子供達が馬に乗れるようになって、運動会は本物の馬で騎馬戦をやりましょう。
そうすれば、テレビだってラジオ、新聞だって何だって取材に来ます。
観光客は運動会を見に来ます。
そういうことをするのにお金なんて要らない。
いくらでも、少し、私達が考え方を変えれば、なつかしい未来を取り戻すことができます。
子供達を守りましょう。
なつかしい未来を取り戻しましょう。
私はこのような未来が松山に訪れて、子供たちがこの街を愛し、決して腐らないようなそういう社会になって欲しいと切望しています。
できれば、このような政策を森田さんにも理解して欲しい。
もし私が勝っても、もし森田さんが勝っても、いずれにしても、こういった政策が実現できるように力を合わせていければと思っています。
どうもありがとうございました。

イエーイ(笑い声)
(聴衆からの拍手)

[安富歩候補の演説の文字起こし だいたい完了]

※ 聞き取れなかった部分は、■表示。

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■ 『東松山市長選』(#選挙ウォッチャーちだい @chidaisan / 2018年7月2日)

#やすとみ歩 候補の演説は、1時間20分34秒頃~


お読み下さいまして、ありがとうございます。