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「まちを元気に」を考える

 昨日、ある方がSNSでこんな問いを投げていました。

「まちを元気にする」ってなんだろう?

 この言葉、よく聞く言葉ではあるけど、とらえどころがなく不思議な言葉ですよね。まず、まち・地域って何なのか。そして、その地域を「元気」という、本来生物に対して用いる言葉にあてはめられるのか。考えれば考えるほど、複雑性は増しませんが不思議な感覚になってきます。

 僕にとっても、とても興味深いテーマだったのでとりあえず以下のようなコメントを送りました。

僕は元気かどうかは求めず、まちが生きてるか死んでるかを見ますね〜
生存の有無も切り口がいろいろあるとこ、死んでるからといって僕も終わりというわけではないとこが考えてて面白いとこですが

 何気なく送ったコメントでしたが、その方は丁寧に専門の生態学の視点で、まち・地域の生存について丁寧に考えてくださいました。

 せっかく、地域を生物・生態にあてはめて考えてくださったので、僕も地域を人間に例え、その人間に対する福祉の対応で地域の生存について考えてみることにします。

健康か否かは関係ない

 まず、健康について考えてみましょう。ある人は、毎日規則正しい6時間の睡眠を夜に取り、規則正しく3食とり、必要な運動を毎日している。人間関係にも恵まれ、いざというときは助けてくれる人がいる。

 もう一人の人は、昼夜逆転した生活を送り、不健康なバランスの悪い食事を一日2食しかとらず、ヘビースモーカーで検診ではE判定のオンパレード、いざとなった時助けてくれる親族はいません。

 世間一般的にみると、前者の生活の方が健康的で望ましいものでしょう。ではどちらが、福祉の介入が必要かと問われると、後者の方が可能性はありますが、この時点で両者とも平等に介入の必要はない。つまり、福祉の可否の判断基準には健康かどうかはありません。

 では、何を判断基準にしているのかというと、多くの場合、本人の現在性と未来性で判断しています。現在性では、生存権(とりわけ選択権)の有無を見ます。未来性では、その状態が持続可能かを見ます。

Lifeの視点

 後者の人の喫煙にフォーカスしてみます。喫煙してるか否かは福祉的に見ればどちらでもよく、健康には確実に悪いけど、長生きする人はするし、他者(他生物)を害さなければいいんじゃないということになる。そこに、タバコを吸わされた(選択権がなかった)、受動喫煙で苦しんでいる(他者の生存権)、上手く処理できず火事のリスクがある(持続不可能)、大量の吸いかすを不法投棄している(近隣住人生活の未来性)、タバコを買うために他者を恐喝している、あるいは借金やギャンブルにはまっている(持続不可能)といったとき、福祉の介入が行われます。

 この基準は、自分らしく人間性をもって生きられない(現在性)、このままいけば絶対死ぬ(未来性)という、生命への視点に因ります。つまり、生きてるか死んでるかです。

 現在性と未来性がぶつかったときの優先順位は、現在性>未来性という判断を取ります。たとえ、こいつは死ぬなと思われる判断であっても、本人が強く望み、本人の強いパワーによる選択の結果なのであれば、それは自立している証拠なのだから受け入れなくてはなりません。

 これを、まち・地域にあてはめて考えてみると、いろいろ当てはまることが出てきますよね。まち・地域が生命維持装置に囲まれ、つながれ自由がない状態であったとして、それが生きているといえるのか。あるいは、あまりに忙殺される抜け出せない状態にあるがゆえに、生きることに無気力になって自殺手前になっていないだろうか。

 ちなみに、本来人間にあてはめる生存権の考えを国家にあてはめた考え方が国家安全保障(National-Security)になったわけですが、この考え方は国家には成立しないという意見もあります。

地域を一つの体ととらえた場合

 たとえ体としての個人(ブレイン)が生きることを望んでも、あるいは喫煙を望んでも、体内の細胞、組織、細菌がそれとは異なる反応を取ることがあります。事故がなくても人間はいつ死ぬかなんてわからないといった状態です。組織や細菌がホルモンとしてブレインを動かすことも日常的にあります。

 ここでわかるように、ブレインと体内の個体は必ずしも意志が一致しているわけではありません。ときとして、体内に不要とされた諸々は老廃物として体外に出されますし、汗としての体の状態を良好にするための排出、ホルモンとして体外生命へ影響を及ぼすこともあります。

 喫煙を例にするなら、喫煙によるニコチンやタールを受け入れられる体もあります。そこには、喫煙を受け入れられるブレイン(思想・思考)や細胞、組織、細菌、環境があることが前提になります。それがない体であれば、喫煙そのものを嫌悪して近づけさせないでしょう。入れば即排除・拒絶反応が起きます。

 これを、まち・地域にあてはめたなら・・・。地域が元気であっても、それは単なるハイの状態で、体内では緩やかな崩壊が起きているなんてことがあるかもしれません。

体が朽ちても未来は続く

 最後に、まち・地域が朽ちた先のことを考えてみましょう。地域というのは死ぬことがあるのか、未来永劫続くのか。僕は、体、シェルターとしての地域は、いつか死ぬものだと考えています。これはあくまで思想の話なので悪しからず。

 では、体が朽ちた先に、その中の細胞や組織、細菌は死んでしまうのか。確かに、多くの体と同じDNAは崩壊することでしょう。しかし、土葬をイメージで考えてみると、それはこれまでに体験したことがない世界へ放出されるとも考えられる。別の生物として生きる、別の生物の養分となるとも考えられます。あるいは、昔に血を分けたDNAの担い手が、別の生物としてDNAを残していくことも考えられるでしょう。

 また、キリスト教的に考えるなら、肉体の死はあっても霊的な尊厳がある限り決して滅びることはないという思想もあるわけです。結局、どうこの地域と生きていくかということですね。地域の自立と私の自立が違うように、死ぬタイミングもおそらく違う。体が死んだあとの私の生きる道を考えることも、おそらくありな発想だと思うわけです。

 住みよい体はブレインだけに任せていいのか、ホルモン分泌という役割を放棄した体が正常といえるのか、そして、地域を殺さないことが至上命題でいいのだろうか。一地域住民として、この体の未来を、熱い心と冷たい頭で考えていきたいですね。

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