労働相談をした話、そして去るさみしさと去られるさみしさと
今週は週6で働いた。あ、まだ終わってない、明日もだ。とほほです。
12月に仕事を辞めることになって、引き継ぎとかあれやこれやと忙しい。
ただ、もう辞めると決まっているので適応障害と診断された症状はかなり和らいだ。
よかった、辞めるの決めて。と思う。
それでも、原因となった上司の顔を見るとズキッと動悸がしたり、変な緊張が身体にはしって言葉が発せなくなってしまったりする。
実は行政の労働相談に今回の件を電話で相談してみたのだが、「全面的に上司の人がおかしい」「妥当性も正当性もない」「これで辞めるのは不当解雇にもあたります」「上部機関や労働局に申告した方が絶対にいい」と力強く言われ、しまいには「頑張ってください。応援してますから」とねぎらわれてしまった。
そうか、やっぱりこれ、おかしいんだな。と腹の底からふつふつと怒りが湧いてきた。
あなたがおかしいですと言ってやりたい。
無知さを思い知らせてやりたい。
痛い目にあわせてやりたい。
砂をかけてやりたい。
そんな負の感情が湧いて湧いて、お腹が痛くなる。
でも、そうしたいのかな?
本当にそうしたいのか、わたしは?
よく分からない。
もう一秒たりともあの上司のために人生の時間を使いたくない、そんな気持ちの方が勝っているかもしれない。
とりあえず上司には極力近づかず、視界に入れず、話しかけないように工夫しながらすごしている。
職場のわたしの席の目の前には、デビさんが座っている。
彼はわたしの辞職に至る事情をすべて知ってくれているため、そして大いに共感してくれているため、たまにふたりでこっそり上司の悪口を言って憂さ晴らしをしている。
デビさんは最近よく、
「ののっつさんいなくなっちゃうのか~……」
としょんぼりと呟いている。
「野球の話もできなくなりますね」
「さびしいですよね」
本当にそう思ってくださってるのだろうなあという感じで言ってくれ、ありがたくも、わたしもさびしいなあと思う。デビさんと毎日野球の話をしながら仕事ができた時間は宝物だ。
また、わたしが尊敬する還暦のヤマさんにも本当の事情を話した。時間的にそこまで長くは話せなかったのだが「まさか、そんなことが……」とびっくりしていて、その日の夜、わざわざ心配のLINEをくださった。
モヤモヤします、このままでいいのだろうか、なんとか阻止できないか、ののっつさんが心配だ、と言ってくださってとても有難かった。
「わたしは○○さん(上司)と同じ職場で働くことはもう心身的にも無理なので、これでいいと思っています。ご迷惑をおかけして本当にすみません」
など、いくつかのやりとりをして、
「身体が1番、家族も1番☝️
その他はきっと後から考えればいいと思いますです」
というヤマさんのメッセージが身に染みた。
本当にその通りだよね。
担当していた若者たちにも辞めることを伝え、「さびしいです」と言われるのでなんだか胸が痛くなってしまう。
去る人よりも、去られるほうがずっとさびしいのだということを、わたしは知っている。
・・。
四季さんと亀戸でランチをした。
まぁ、話題はやはり今回の辞職に至る経緯なのだが、四季さんと話しているとそれが笑いに昇華されるところが最高に救われる。
「頭おかしいでしょ!」「気持ち悪!」など上司をケチョンケチョンにこきおろしてくれ、笑った笑った。
今回も素敵なイッセイミヤケの洋服に身を包み、コムデギャルソンの赤いチェックのストールを巻いて、四季さんは四季さんなのだった。
そんなところにも元気をもらう。
友だちはどんな時でも変わらずにいてくれて、本当にありがたいものだ。
・・・
さて、娘は最近かぎ針編みに凝っています。
不登校になっていた娘は11月に入りなんとか授業に復帰し、がんばっている。
出欠数が2学期の成績がつくかどうかの瀬戸際なので、なるべく……と思っているようだが、わたしは正直成績なんてどうでもいいから、ともかく元気でいてほしい。
母としては毎日お弁当をつくり、困ったことがあれば手を貸したり、しんどそうな朝はラッシュの電車にともに乗り込んで学校まで送るなど、できるかぎりのケアをするしかできない。
私立なので11月を乗り切れば、12月の頭からもう期末テスト、そして冬休みに突入する。あと少しだ、がんばー。
日曜恒例、お弁当用のつくりおき大会。
なすの南蛮漬け、キャベツとツナの和え物、ピーマンとちくわのきんぴら、さつまいもの黒糖レモン煮。
・・・
さっそく、というか、そろりそろりと就職活動をはじめてみている。
しかしゼロからの就活は新卒のとき以来だ。
大学4年で必死の就活をして(ザ・氷河期世代です)ある出版社に就職したのだが、そこを辞めたあとは、知り合いからの「やってみない?向いてると思うから」という声がけに乗る形で仕事をしてきた。いまの支援の仕事も、きっかけは友だちからの誘いだった。
しかし今回は違う。
ハローワークの求人を見たり、ネットで検索しながら社会福祉士の求人を探している。
20年ぶりの就活なので、ちゃんとしたジャケットも購入した。なにしろスーツを着る仕事を長らくしていなかったため、礼服か、父母会用の紺のワンピースみたいなのしかなかったんです。
おとといは1か所目の就活先の見学に行ってきた。自分でも「どうなってんの」と思うくらい緊張して、あまりに緊張しすぎてたどり着くまでに失神するかと思った。
とりあえず和やかに見学させていただき、これから履歴書やらを送って面接していただけるかなというところ。
とほほー。これからもさんざん緊張するんだろうなあ。
・・。
🐹最近のふくちゃん🐹
ふくちゃんのことが本当にかわいくて、かわいくてかわいくて、ふくちゃんはわたしの重た~い愛を一身に受け止めてくれている。
なんでこんなにかわいいんだろう?と思う。
ただひたすらにかわいいのだ。
で、ふと気がついた。
これは子どもに対する感情とは違うなあと。
子ども(娘)のことはもちろんかわいい。娘は世界で一番の宝物である。だがしかし、その感情は「かわいい」だけではなくて、もっともっとさまざまな感情が層になり、入り交ざっている。
ひと言では表せない、たくさんの絵の具が混ざったような深い感情だ。
まず育てていく責任があって、簡単にペットホテルに預けて旅行に行ったりすることもできなくて、小さい頃にはひとり置き去りにすることもできず、三食をつくり、そもそも産むところから始まってそれはそれは大変な思いもしながら育て、育てられてきた。
だから「かわいい」のひとことでは言い表せない感情がある。
ふくちゃんに対して感じるかわいさって、きっと、孫に対するかわいさに似ているんじゃなかろうか。もしくは、甥とか姪とか。
わたしには甥っ子や姪っ子はいないし、まだ孫もいないから分からないけど。
娘が不登校になったり、苦しい思いをしたりしているのを母としてともに受け止める中、ひたすらにシンプルにかわいい!とだけ言えるふくちゃんの存在にわたしは救われているかもしれない。
ふくちゃんありがとう。きょうもかわいい。