知覚できないままに、下降する。

和歌山の知の巨人、南方熊楠は、生命現象にとって、観察者の立場は相対的なものにすぎない、と強調していたらしい。つまり、「生物を観察している人間は、それを生命の内側からではなく、外側にあらわれた行動を観察して、さまざまな判断や推測を行っているにすぎない」ということらしい(南方熊楠「南方熊楠コレクション-森の思想」)。

粘菌を例にあげると、粘菌はアメーバ状になっている時と、茎が伸びて胞子を出している時があるらしいのだが、当初人はこれを見て前者の時を死物同然と、後者の時を活発な活動時期と見てしまう。
ところが実際は逆で、アメーバ状のときは人間が知覚するには遅すぎるスピードで動きまわり他の生物を捕食して「生きている」状態であり、胞子を出している時は活動的部分が死んでいる状態なのだという。


この文章を読んだとき、人生も同じなのかな、と思った。


真剣に生きていれば、人生には山もあれば谷もあるわけだけれども、自分の経験上「今運がいいな、調子がいいな」と思っているときは上昇しているときではなかった。
そういったときは仕事で評価されてはいたり、人に囲まれていたりはするけれど、それはその直前にあった暗黒期に稼いだ辛く苦しい勉強なり下積みなり他人への配慮気遣い(言い方を変えれば、「媚へつらい」)なりの貯金の切り崩しであって、後々考えてみたら、「調子がいい」と思っていた時期に得られたものは何もなかったことに気がつく。

他人から、そして当時の自分から見れば「勢い付いていて生き生きしている」と見えるのだけれども、実際は緩やかな死に向かっていたんだと思う。

頭のいい人は、そんな時でも謙虚に気を引き締めてやれるんだろう。
私の場合は「謙虚に気を引き締めて」やってるように自分も思っていたし他人からも「謙虚に気を引き締めてやってるね」と言われたけれど、後々に考えてみたらそんなことはなくて、今までのやり方を盲信して猪突猛進していただけだったりする。


一方で、この考えが真ならば、何もかもうまく行かないときは、実はそのときは気がつかないだけで、何か成長している最中なんだと考えられなくもないだろうけれど、それが真かどうかは分からない。ただ、今が辛く苦しいなら、「今はつらいけれど、これは後々役に立つ」と考えるのは、辛い思いをまぎらわせるにはちょうどいい。実際のところは地獄の底はないわけだけれども、ただ闇雲にもがくよりかは空を見上げてもがいた方が息はしやすい、というものだ。

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