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僕の人生と価値観の話

今日朝はとても気分のいい朝から始まったはずだった。

昨日の夜にドン・キホーテに枕を買いに行き、今日は朝から勢いよく仕事を始める想像をしていた。

しかし、単発の仕事の雲行きが怪しくなり中止。

三月末までに頼まれている仕事2件について悩む。

そして、僕が10年間お世話になっていた親戚の少し悲しい知らせ。

・・

色々と選択に悩む。決断を迫られる状態に一転した。

自分の生活、自分に関わる人の命の話。
二つ三つ大きな話が続けば僕は今でも苦しくなる。

そして、こういう事がもっともっと増えるのが大人だと思っている。

大人になれば背負うものがある。
責任、かかってくるものがある。

それをこなしながら自分がしたい事もしたい。

自分の機嫌は自分で取るのは、本当に大変だ。

辛いとは言えないが、辛いと言いたい。

けれど今の僕は、思い出せないくらい昔の僕のように、悲しんだりしていない。逃げ出したくなったり、絶望のような不安に暮れる事はない。

そう言いたい。

事は無いと言うより、そんな暇はない。

実際に時間はある。確かにある。そう見えるだろう。
でも頭の中は一杯一杯だ。今夜もこんな話があった。

「こうして見たら、私たち暇人みたい」


・・

今夜は悩み事ばかりで苦しんでいた。

決めなければならない事を自分で決める不安。


これは意外と出来る人と出来ない人に分かれるらしい。

決断力というと大袈裟に聞こえるかもしれない。
でも、意外と自分で物事とを決めるのが大変だ。
慣れる必要がある。

時と場合によると思うけど、意外と人は不安になるらしい。

僕は不安ばっかりだ。

今でも不安はあるが

「そんな事ばっかり言ってられるか」
「そんな事言ってられないよな」

と、当たり前のように目の前の事をこなしていくしかない。
出来るだけ問題なく、極力無難に処理していくしかない。
解決していくしかない。

これが大人だと今は強く思う。

・・

そんな中、改めて考えていた。

やっぱり人間は経験して解る事もあれば、やっぱり分からない事もある。

この問題をどう乗り越えるのか、どう解決するのか。

物事、時間は止まらない。必ず前に進む。

その時に、それを越えた人が何を思うのか分からない。
何を考え、その問題から何を得るのかは、人それぞれだ。

ある人は気にも留めない、気にもしないような些細な事かもしれない。
ある人にとっては大きな感慨深い事かもしれない。

ある人は、別の事を考えているかもしれない。
ある人は違う見方でその問題、物事を見ているのかもしれない。

それを記録するのか、生かすも殺すも、人それぞれ。

そこはもう個性と言うしかない。

むしろ、ここまで考えれば
「普通」
と言う言葉が本当に陳腐だと僕は思う。

全員がそれぞれに違う事を考え、それぞれに違う事情があり、それぞれ別の人間なのに、それでいて共通の認識がある。

普通とは違うが、社会のルールがある。法律がある。
決まり事、決め事みたいなものがある。
それも分かっている。

けれど、それ以外の事に対して、人の中には

「普通」

という言葉が全員の胸の内にある。

「普通は」

という言葉が必ずある。

何が普通だ。
何をもって普通と言うのだ。

あなたの普通は、隣の人の普通では無い。
あなたの普通が、みんなの普通だと思い込んだ前提で、全員が普通と言う話をしている。

世の中、どれだけ曖昧な境界線で溢れ返っているのだろうかと思う。

これも楽しむしかない。

楽しめ。
いつか
誰かの後片付けを代わりに自分がする日まで。

・・

僕はやっぱり関連付けと、想像や、感情の起伏が激しいのだと思う。

想像力が強いと言われるけど、想像できない事もある。
共感力が高いと言われるがそれも違うと思う。
だから、やっぱり「普通」と言う価値観は変だと思う。

でも、これはあまり考え過ぎない方が良い。

考え過ぎると、迷宮入りして病むだけだと思う。

・・

僕は昔の僕の気持ちが思い出せないくらい今を生きている。

何故であんな事したのか。

それはその時の自分が決め、その時は必死だったのだ、とすら言えないくらい思い出せない事が自然とある。

その時の必死の心境や感情、考えていたことが思い出せない。

人間は不思議だけど、そういうものなんだと理解した。


過去に生き続ける人もいれば、今を生きる人もいる。

その時、過去に生きている人もいれば、その時は今を生きている人もいる。

・・

今日僕がどんな一日で、どんな事があって、最近どんなことがあって、今どうしてそんな状態なのか、人は知らないし、そんな事とは関係なく、人は僕の事をこうだと決めつけて言う。

僕は今日も何度か

「あれ、俺今おかしいのかな」
「今俺変な風に見られてないかな」

そう自分で自分を確認していた。

けれど、その答えは出ない。

自分では今自分の目の前や自分の中で観えている事で考えている事も思っている事も状況も心境も体調も変わるのだから、他人に人間性や、根本みたいな部分を、勝手にどうのこうの言われても困る。

・・

人は笑えれば、楽しく一日が終われるように精いっぱい生きている。

そう思って毎日を生きるしか人間、僕らに選択肢はない。

それが分からないのは、子供だと僕は考える。

・・

僕は音楽の好み、価値観、感覚(感性)が合わない人とは一緒に居られない気がする。

僕はアーティストの作品と、アーティストの物語(人間としての背景)を好みや評価に大きく影響させる。

ここでナンバーガールを例に挙げてしまうと、僕がナンバーガールが好きだからそう言っているように聞こえると思う。

だから今では好きでも嫌いでもないアーティストを挙げます。

・・

神聖かまってちゃん

僕は彼らをデビュー前のインターネット配信をしている時に見ている。
僕が東京に行ったときに下北沢でも見かけたことがある。
デモCDも実は持っている。

神聖かまってちゃんの存在や音楽を聴いたのは、当然、CDを聞いてから。
インターネットの配信を見て気になったのではなく、音源を聞いて

「これはカッコいいぞ」
「これはロックかもしれない」

と思い興味を持ち、パソコンで彼らを調べた。

神聖かまってちゃんの中心の「の子」は、幼少期から人生の苦悩や困難から当時は完全にメンヘラだった。
精神病で、薬をODし、酩酊錯乱状態と通常状態を行き来しながら音楽活動をしていた。

僕は彼の日常生活をパソコンの画面越しに追いかけていた。
彼がリストカットをし、精神が不安定な日々を送る姿を見ていた。
その彼が作る音楽からロック(ロックンロール)の精神や、原動力、衝動的なものを感じたから僕は好きになった。

音楽を作る事は誰でも出来ると思う。
ただ、それを人様に聞かせて感動させられるかは別だ。
高評価(好評価)を受けることはそう出来る事ではない。

みんな、自分には才能がある、自分が作った曲はカッコいい、素晴らしいと思うから火傷したり、間違えてしまう事がある。
自分で曲を作った事が無い人が、コピーバンドをしているだけで、自分も音楽が作れると錯覚してしまう事もある。
そうやって誤解をするのは、誰しもが通る道だと思う。

そこからの差が「才能」だと僕は思っている。

僕は音楽やロックと真剣に向き合った時、自分の周りには才能がある人たちが多くいたおかげで自分には才能が無い事を理解していた。

それは辛い事だ。苦しい事だ。

現実は残酷で、その現実を妙に最初から知っていた僕は、数年間は

「いや、自分は違う」
「自分にも才能があるんだ」

と思い込もうとした。
けれど大学を卒業する頃には自分の才能を理解出来た。
現実を受け入れることが出来ていた。

理想の自分と、現実の自分の差を理解できた事は、本当に僕にとって良かったと感謝している。

・・

この話は、人間としての背景の話から、少し脱線しているように見えるかもしれないが、背景とは、努力、練習量の事も指している。

一日中、音楽や楽器の練習をしていれば良い訳ではない。
練習をすれば夢が叶う、報われると言うのは嘘だし、危険な思考だ。

ただ、実際には、練習や知識は必要だ。
だから勉強しなければ形にはならない。

ちなみに今は機材やソフトの進化で、知識や練習をしなくても音楽は作れる時代になってきている。

けれど、僕が大学生の頃には当然そんな機材もソフトも無かった。

今でも例えサンプラーを使ったとしても、サンプラーの勉強や知識、努力する練習は必要だ。

ちなみに、さっきの神聖かまってちゃんで考えれば、彼らの曲や、ライブを見れば、彼らが相当練習したのだろうと僕は思う。

ただのラリった連中が、偶然作った曲がウケた、というものではない。

それでも今の彼らを僕は知らない。
僕はフロントメモリーの頃から一切聞かなくなった。

それは音楽的な魅力を感じなくなったからだ。
そこは努力や練習ではなく、感覚の問題、好みの問題だ。

それでも僕は僕が好きだった頃の、「ロックンロールは鳴り止まない」の初期衝動性、内包する感情を作品の込めた音楽性を高く評価し、今でも大好きだ。

ちなみに、最後に見たライブは、大阪で、友人と見に行った。

そのライブは酷い物だった。
プロのライブで、ここまで酷いライブは今のところ人生の中でない。
それだけのクオリティだったが、それでも当時の僕は他のライブの完成度や作品のクオリティが下がっているように感じていなかったので、変わらずに好きだった。

・・

僕はこのように、アーティスト本人の人間としての色、個性や人生背景も含めて感情移入させる。

それは格闘技もお笑いも同じだ。
作品やコンテンツには物語性、背景にも僕はかなりの重きを置く。

お笑いで例えるならキングコングの漫才は面白いか面白くないかと同じだけ
【これをするのにどれだけの練習量が必要で、この人たちは練習をしてここに立っているのか】を想像し、作品の評価にもつなげる。

・・

ナンバーガールの僕の中で最初から特別だった。
ナンバーガールは僕の中で誰も超えられない存在だ。

けれどナンバーガールの解散後に向井秀徳が作ったザゼンボーイズは違う。

けれど、他の特別な存在、好きなアーティストと同じだけ好き。

それはジャンルを変えれば、呂布カルマと同じだけ好き。
ロックで言えば、ルミナスオレンジやチョモランマトマトと同じだけ好き。

映画で言えば「眠り姫」と同じだけ好き。

場所で言えば難波・心斎橋・アメ村・堀江などの僕の想いでの場所と同じ。

「アートアクアリウム」と同じだけ好き。

僕が人生の宝物としている存在、者たちと同じだけ好き。

こういう風に書くと、特別観が無いように感じる人がいると思う。けれど、それは大きな間違い。

僕にとってナンバーガール以外で上に挙げたものは、僕の青春であり、僕の生きた証の場所だ。

それでも、ナンバーガールを誰も超えられない。

・・

ザゼンボーイズの音楽は個性的だ。好みがはっきり分かれる。
ナンバーガールのファンでも、ザゼンボーイズは苦手と言う人は多くいる。
あまりにも違うジャンルと言うか、別物だと思う。

僕は向井君たちのザゼンボーイズ、その物語を追いかけている。

作品を作る為に、どれだけ人生を賭けているのか。懸かっているのか。
その曲をライブを再現する為に、演奏するのに、どれだけの練習量が必要なのか。

想像するだけで僕には死んでも出来ないという事だけは理解できる。

特にザゼンボーイズの難解さは、コピーできる人はいるだろうが。

ザゼンボーイズの曲を0から作って、あの難易度の曲を作品として完成させ、それをライブで演奏する事がどれだけ至難の業なのかを感じている。

僕がここで書いている事が理解できない人や、共感できない人と僕とでは感性と言うのか。

簡単に言えば好みや、物事の捉え方が大きく違ってしまう。

・・

音楽と言うと人は、楽しむものや娯楽と捉えると思う。
僕もそうだと思う。
趣味は楽しむものだとも思う。

けれど僕は違う。

生きている日常には欠かせない物。
生きている中で死にたくなるような感情。
苦労や絶望、葛藤など、すべてと向き合い、うまく正しく自分の中で整理や折り合いをつけていく為に、音楽は絶対的に必要なのだ。

ジャンルの話をしているのではないです。
ロックの精神は人生、生き様、感情の土台となっているのです。

生きる力は音楽やロックから、ロックスターたちの背中から得て学ぶ。

好みや価値観(感覚・感性)の話。

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追記
2024/03/20

この記事を久しぶりに読み返した。

理由は僕の日記にコメントを書いてくれた人が、この記事にスキを押してくれていたからだ。

この日記は長々と好きな音楽や、思い出の話を、いつもと同じように、何度も何度も同じ話を、また繰り返し書いているただただ長ったらしい日記。
読み返している自分も途中で読むのに飽きたような。疲れた。

僕は人間と言うのは群像しているし、現実はあるけど、真実は神様にしか分からないし神様の存在だって人それぞれの価値観、見方、見え方、考え方、想い方の主観の話だ。

だから僕は誰に対しても今は否定もしないし肯定もしないようになっている。

僕に対してのメッセージに対して、僕はいつも嬉しい気持ち。
ありがたいなと思う。

表から見える所に書かれているコメントやメッセージだからと言って、みんなが僕を好意的に見て書いてくれているとは限らない。

僕はいつも何かしらの告知があると、ドキッとする。
不安と期待が入り乱れる。

今回は、嬉しい文章だったけど、本当に否定的な意見や攻撃的なメッセージは、たぶん、あなたが想像している以上に僕には届く。

それだけ僕の文章や見せ方が下手なのだと思う。
過激な事は言わない方が良い。
あまり人の事を書くのは良くない。
別に誰の事を指しているとは表向きは言っていても、実際に僕の腹の中は違う。
当然、何かなければ僕は日記も発信もしない。
日記だから生きている事を書いているだけだけど、それでも僕は変な奴だ。
狂っていると言われても、ぶっ飛んでるとも言われても今は何とも思わない。
嬉しいとか、そんな言葉が言われたいと言うのも実は少なくなっている。

そりゃ、褒められたい。好意的に見られて評価されたい。
でも、その反面、それ以上に、攻撃されたり否定されるような好機の目に見られるのは悪い事ではないけど、好奇の目には触れたくないのだ。

自分勝手な得手勝手。エゴだ。

好かれたい癖に、褒められたいくせに、そこに僕は普通や無難を選ぶ選択肢を持っていないのだから、ややこしい。だから、めんどくさい奴だ。

ありがとう。

世界のどこからか、僕への何かは届いています。

僕は物事を全力で見る。
相手の心も想像するし、ふところ、腹の中も、真実も知りたいと思う。

世界のどこかに向けて、僕は今日も生きております。

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