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「やりたいことをやりましょう」型のまちづくりが勃興してしまう背景には、地域の合意形成機構の権威の衰えがあったんじゃないかって話。

 「まちづくり」って多義的な言葉なので、議論で使うためにはまず定義が必要です。で、僕は「まちづくり」とは、「まちの人なら誰でも使える公共財づくり」であると定義しています。誰でも使えるわけですから、例えば道路や橋、景観なんかも公共財であることがわかります。とすると、勝手にまちづくりされては困る人もいることがわかってきます。

 まちづくりには、どこか善のイメージが伴っており、まちづくりで困る人がいる、というのはなんだか想像がしにくいかもしれません。しかし、例えば道路に不快な絵を落書きすることも、実は「まちの人なら誰でも使える公共財づくり」という、まちづくりの定義に当てはまるんですよね。目にしたくないのに、そこを通りすがるならば、目にせざるを得ない。それは善のイメージとはほど遠い、迷惑行為でしょう。先述の通り、まちづくりには善のイメージが伴っているので、こういった「道の落書き」なんかは、まちづくりと思われていないかもしれません。しかし、「まちの人なら誰でも使える公共財づくり」という意味では、まちづくりの一種であると言えるわけです。

 じゃあなんで「まちづくり」を「善の行為」に限定しないか。それは、そもそも善というのが、「人による」からです。もしまちづくりに「善の行為」という意味を付与してしまうと、「俺のやっていることはまちづくりだから、お前の従え」という強要が成り立ってしまうんですね。例えば、「俺の書く道の落書きは、まちづくりを意図してやっているんだ、まちづくりとは、善だ、だから文句いわず見てろ」ということを言われたらどうでしょう。困りますわな。何かが善かどうかは人によるわけですから、まちづくり=善の行為と定義すると、こういう乱暴が発生するわけです。

 誰でも使えるってことは、利用者を選べないってことです。その結果、それを望まない相手にも届いてしまう。これを「誤配」と僕は呼んでいます。誤配が起こりうるということは、「まちづくりだから善だ」というわけではないってことなんです。まちづくりには、誰かにとって善として作用するものも、善として作用しないものもあるんですね。

 まちづくりには誤配が起こりうる。勝手に公共財を作ってしまうと、誰かの生活を損なってしまう事もありえる。だからこそ、かつてまちづくりをする場合、人々は慎重であったんです。勝手に作らず、みんなで合意してから作るってことが大事にされてきたんですね。

 翻って、地域の合意の調達はまちづくりそのものよりも時に大きな懸案であったわけです。自治会などの地域団体や、そこをベースとしたまちづくり協議会などの組織が尊重されてきたのはそういう事情も会ったんですね。

 しかし、これはまだ経験的な印象論の粋を出ない話なんですけど、どうもゼロ年代あたりから、「やりたいことをやりましょう」型のまちづくりの入り方が珍しく無くなってきたように見えるんですね。

 とはいえ、そもそもの話として、「本当の意味での全員合意」の調達なんて、まず不可能ですよ。というか、コストがでかすぎるんです。二、三人の少人数でならさておき、200人くらいの町内会でも難しい。1万人くらい住んでいる町ではなおのこと。さらに1億人の国家となるとなおさら難しいんですよ。コストがでかすぎる。おそらくは、その結果生み出せるまちづくり活動の価値を上回るほどに。だから、ほんとうの意味での合意を調達してからじゃないとまちづくりをしませんとなると、誰もまちづくりができない。しかし、誰でも使える公共財はやっぱり必要だとすると、そのためにはみんなの合意が必要だっていう循環に陥ってしまう。

 だから、民主主義は、特定の権威ある手続きをもって合意を調達できたと「見なす」ことにしてきたんですね。低コストで実施できる儀式でもって、合意を取れたと見なすというわけです。民主主義と社会的合意は「見なし」で成り立っているんです。劇場型政治なんていいますけど、「見なし」ってそもそも演劇の方法論ですよね。「この役者さんは、どう見たって若いんだけど、おじいさんだと見なす」ということをしないと演劇なんて成り立たない。

 「見なし」は大事です。例えば僕らは、どんな法律でも、正当な手続きで作られたものなら従いますよね。軍隊や警察に強制されなくても従っています。これ、僕らは、日本の法律の作られ方、「儀式」に対し、一定の権威を認めているってことです。「権威」っていうのは、権力の中でも「自発的に受け入れられる」性質のことです。

 しかしこれが、例えば政治家や官僚が腐敗して、不正な手続きが横行すれば、なんでお前らの決めたルールに従わなあかんねん、となりますわな。これが、「権威が地に落ちた」状態です。ウェーバーは政治は結果責任だといいましたが、結果出してないと、信用されない、権威を見出してもらえないんです。そうなると、国家統治のために、警察や軍隊を使って支配を強制しないといけなくなるんですね。いま香港とかそんな大変な状態になっていますわな。社会の統治者から権威が失われるというのは、コスパ悪いってことなんです。

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