寂しさは、いつも遅れてやってくる

私は、卒業式で泣けなかった。

みんなと明日から会えなくなる。
頭ではわかっているはずなのに、どこか信じられない自分がいて、気づけば別の場所にいた。

卒業してから、しばらく経って、同級生と会った。
楽しく過ごして、別れるとき、
「またね」という言葉が、ふわっと宙に浮く。

「また明日」じゃないんだ、と思ったとき
寂しさが、どっと胸に押し寄せる。


学校の卒業式だけではない。

留学先のヴェネツィアから日本へ帰るときも、そうだった。

帰るときは、家族に会える、恋人に会えるとわくわくしていたのに、
日本でヴェネツィアの写真を見たとき、どうしようもなくヴェネツィアの街が恋しくなった。


大好きなおじいちゃんが亡くなったときもそうだ。
もういないんだと頭で理解しても、またどこかで逢えるような気がしていた。

そのたびに、自分の手で遺骨をおさめた感触を思い出して、なんとか寂しい気持ちになろうとしていた。

テレビから流れるハーモニカの音を聞いたとき、
ああ、もうおじいちゃんの奏でるハーモニカを聴くことはないんだと悟って、ようやく涙が出てきた。



いまも、私はまだ寂しくない。

私は、もうすぐ実家を離れる。

お母さんは、ももちゃんがいなくなるなんて寂しいと、ことあるごとに言う。
正直、ちょっと、鬱陶しいくらい。

でも、そんなふうに、寂しいと言えるお母さんがうらやましくもある。


お母さんに、私はまだ寂しくないと伝えた。
たぶん、あとから寂しくなるんだと思う、と。

「旅立つ側は寂しくないんじゃないかな。寂しくなるのは、残される側なんだと思うよ。」とお母さんは、うらめしそうな顔で言う。


けれど、私は、あとから寂しさがやってくるのだと知っている。


だって、寂しくないわけないじゃないか。


これまで、家族とはいつも一緒だったのだから。
でも、毎日会えるのがあたりまえすぎて、会えなくなるなんてなかなか想像できない。

ヴェネツィアにいた1年間は、家族に会えなかったけれど、留学が終われば帰るとわかっていた。

今回は、婚約者と一緒に暮らすために家を出るから、できれば戻ってきたくはないわけだ。

恋人と暮らせるようになるのはうれしい。
でも、家族と離れるのがうれしいわけではない、という私はかなりの甘ったれなのだろう。


最近、お父さんは、私の大好物ばかり食卓に並べている。

私が、その優しさに気づかないわけがない。

お父さんは、お母さんとちがって、寂しいとは言わない。
けれど、お母さん以上に、私が家を離れたら、寂しがるのはお父さんじゃないかと思う。

私がヴェネツィアに行っていた間、お父さんは料理をする張り合いをなくしていたよと、お母さんや妹が話していた。


この前、妹と久しぶりに二人で出かけた。

「ももちゃん、いつ行くの」と聞かれた。

あれ?言ってなかったっけ、と思った。

「もうすぐだね」と言った妹の顔が、ほんのり寂しそうに見えたのは、私の気のせいかもしれない。


それでも、私の寂しさはまだやってこない。

家族からは、薄情な娘・姉だと見えるかもしれない。

それでもいい。

でも、家を離れるのが寂しくないわけじゃないよ。私だって。
ただ、実感が湧かないだけ。


それに、私は家を離れるけれど、お父さんとお母さんの娘を卒業するわけではない。妹にとっても、ずっとお姉ちゃんのままだ。

「寂しい」と言い続けるお母さんに、
大丈夫、何も変わらないよ、と私は話す。

さすがに、何も変わらないなんてことはないと、私もわかっている。

でも、私は、ずっとみんなの家族のままだ。
離れて暮らしたって、家族だ。
家族と過ごした思い出は、消えない。
家族の絆も消えない。

私は、家族を卒業するわけではない。


だから、お母さん、寂しいって言ってもいいけどさ。
そんなに寂しがらなくてもいいよ。


まあ、そんなこと言いつつ、
きっと、私にも、あとから寂しさがやってくるんだろうけど。