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おうちリストランテ開店!
おうちのごはんが好きだ。
実家にいた頃、どこで食べるよりも、父や母のつくるごはんが一番おいしいと思っていたし、今もそう思っている。
実家を出るまで、私はほとんど料理をしなかったが、両親が料理をつくる姿を見ていたからか、毎日おいしいものをつくってくれた両親に味覚を育ててもらったからか、料理をするのにそれほど苦労はなかった。
まだ父や母のように料理が得意とまでは言えなくとも、私は料理が好きなのだ。
新鮮な食材を手に入れるとほくほくしたきもちになる。
手を動かして、食材に触れ、食材がパチパチとフライパンのなかで焼ける音を聴き、コトコト煮込まれるスープの湯気を見つめていると、いつもよりもゆったりと時間が流れ出す。
そして、自分で料理をしていると、毎日おいしくてあたたかい手料理をつくってくれていた両親と離れて暮らしていても、つながっていられるような気がする。
両親が大事にしていたものを、私も大事にできていると思いたくて、毎日料理をしているのかもしれない。
料理をするのは楽しい。
だけど、料理をするのは楽なこととは思わない。
料理は、ほかの家事よりも責任が重いと私は思う。
食材は命をつくるもので、命からできているものでもあって、それを無駄にはできない。
それに、おいしいものを食べられたら、それだけでしあわせな日になれるというのは、言い換えれば、つくったものがおいしくないと、悲しくなってしまうということでもあると思う。
おいしいものをつくれなかったとき、私はかなり落ち込む。
だれかのごはんをつくること、だれかと一緒にごはんをたべることは、とてもしあわせなことだとわかってはいるけれど、やっぱりそのだれかのしあわせをつくる責任を感じるのだ。
でも、最近そんな責任の重さをふんわりと軽くしてくれる本に出会った。
『プロの味が最速でつくれる!落合式イタリアン』というレシピ本だ。
この本を買ってから、料理をするのが楽しくて仕方ない。
このレシピ本を買ったのはつい先週のことなのに、もうすでに何品もつくっている。
皮がパリパリの「ディアボラチキン」と、ただ茹でただけなのにしみじみとおいしい「ゆでズッキーニ」。
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トマトジュースを煮詰めてつくる「思い出の野菜パスタ」。
![](https://assets.st-note.com/img/1720441884595-Q4LL2GSvCX.jpg?width=1200)
ほんのひと手間で、トマトの味を最大限に引き出す「トマトマリネのカプレーゼ」。
![](https://assets.st-note.com/img/1720441884573-AScQLed8np.jpg?width=1200)
ブイヨンを使わないのに、奥深い味わいの「シンプルリゾット」。
![](https://assets.st-note.com/img/1720497081474-0iv7ERQKxp.jpg?width=1200)
どれも私の手でつくった料理だが、私は口に入れるまでどんな味かわからない。
すべてこの本に書いてあるとおりにつくったから。
つくっているのは自分なのに、口にするたび、どこかレストランにでも来たような新鮮な驚きがある。
私は大学生の頃に一年ほど水の都ヴェネツィアに留学して以来、イタリアンはそれなりにつくれるようになっていたから、あらためてイタリアンのレシピ本を買う必要はないと思っていた。
それなのにこの本を手に取ったのは、ちょっとした郷愁に駆られたせいかもしれない。
イタリアから帰国してからもう8年が経つ。
仕事を辞めたり、大学院に入り直した私は、海外旅行をする経済的な余裕がなかったし、コロナ禍で海外旅行が遠ざかり、ようやくコロナが落ち着いてきて、なんとか再就職も叶ったと思ったら、今度は円安だし、仕事の合間に行くには、やっぱりイタリアは遠すぎる。
イタリアンを食べたからといって、イタリアへ行きたいきもちがおさまるわけではない。
だけど、新鮮な味と新たな学びは、どこか遠くへ行きたいきもちや知的好奇心をじんわりと満たしてくれる。
この本の帯には、「ギリギリまで省略しました」と書かれている。
その言葉に偽りはないのだけど、もっと省略しようと思えばできるな、というところを省略せずに、ちゃんと残しているレシピだと思う。
たとえば、このレシピの「かんたんボロネーゼ」では、赤ワインを省略していない。赤ワインなしでも、それなりにおいしいボロネーゼにはなるけれど、赤ワインを入れたボロネーゼは、入れないボロネーゼよりはるかにおいしいということは、このレシピを買う前から知っていた。
しかし、私はこれまでケイパーやバルサミコ酢やアンチョビはなくてもいいかと省いていたし、パルミジャーノ・レッジャーノや本物のレモンのおいしさは知っていたが、粉チーズやレモン汁で代用していた。
でも、これらは、私にとっての、ボロネーゼにおける赤ワインのように、なくてはならないものなのだ、ギリギリまで省略されたレシピにも残したのには理由があるんだろうなと思って、これらをスーパーで買い揃えてみた。
全部揃えたって、外食一食分の金額にもならない。
私が「なくてもいいもの」と思っていたものは、おいしいイタリアンにとって、「なくてはならないもの」だった。
材料だけでなく、調理手順もそうで、このレシピに難しいところはないけれど、必要な手間をかけていると思う。
普通のカプレーゼなら、モッツァレッラとトマトをあわせて、オリーブオイルと塩をふりかけてバジルを散らしておしまいだ。それでも十分おいしい。でも、このレシピでは、トマトを湯むきして、特製のマリネ液に漬け込んで、冷蔵庫で2、3時間冷やすという手間を加える。このひと手間で、トマトはこれまで食べたことのないほどおいしいトマトになる。
このレシピのカプレーゼを口にした私と夫の第一声は、「んぎゃー!」だった(笑)おいしすぎてびっくりしたのだ。
ほんの少しの贅沢、ちょっとしたひと手間で、日常に彩りが加わる。
遠くまで行かなくとも、変わり映えのない日々のに新しい風を吹かせることはできる。
イタリア語で中級から高級な料理店を指す「リストランテ」の語源は、「リストラーレ」で、「リストラーレ」には「元気を取り戻させる」っていう意味がある。つまり、食べて飲んでしゃべって、イタリアのレストランは、そこへ行ったら力をもらえるパワースポットなんだ。気取った店じゃなくて、そういう本来の役目を担えるレストランを僕はやりたいと思った。
こう語る落合シェフのレシピは、本当においしくって元気が出る。
そして、一緒にこのレシピの料理を味わう夫からもらう「おいしい」の言葉が、明日の料理をつくる元気の源になるのだ。
落合シェフのおかげで、私は毎日料理する元気を取り戻した。
実家で両親がつくってくれたのはイタリアンではなかったけれど、実家の食卓は、私にたくさんの元気をくれる「おうちリストランテ」だった。
両親から教えてもらった味も大事にしながら、実家で食べていたのとはちがう新しい味も取り入れて、私は、私なりのおうちリストランテをひらけたらいいなと思う。