ふつうがいちばん…
小学生の頃、長期休暇の前にはかならず成績表が配られた。
家に帰ると、私はまずそれを母に見せた。
母は、私の成績表を見ると、いつも同じ話をした。
私の通った小学校の成績表は、すべての評価科目が三段階で評価され、「よくできた」「できた」「もう少し」のどれかに〇がついている。
私の成績表は、体育以外どの科目にも「よくできた」ばかりに〇がついていた(体育では「よくできた」は一つもなかった)。
成績表の一番下には、先生から3行くらいの言葉が書いてある。いつもいいことが書いてあったから、小学生の頃の私はいつもるんるんとした気分で、母に成績表を渡した。
母は、いつも「すごいね!」と褒めてくれた。
いつも同じような成績なのに、毎回ちゃんと驚いてくれた。
父に見せても、「勉強だけできても何もすごくないんだ、ちゃんと家でお母さんの手伝いをしなさい」と小言を頂戴するだけなので、あまり父に見せるのは好きではなかった。今なら、自分の好きなことばかりをしている私に、父がそう言いたくなったことも理解できるけれど。
それはともかく、母に見せると母がうれしそうにしてくれるから、私は誇らしいきもちになった。
私が成績表を見せると、母は幼い頃の母の話をした。
母は、小学生の頃、オール3の成績表を渡されたらしい。
母の成績表は5段階評価だった。
オール3ということは、全部ふつうということ。
小学生の頃の母は、憤慨したらしい。
全部3なんて、先生はなんてテキトーなんだろう!と。
そして、憤慨したのちに、悲しくなったらしい。
全部3なんて、自分には得意なことがないんだと。
悲しい気持ちになった母は、泣きながら、母の祖父に成績表を見せたという。
すると、母の祖父は
「全部ふつうなんて、なかなかとれるもんじゃないぞ。」
と笑ったあとで、こう言ったという。
「ふつうが、いちばんだ。ふつうは、いちばん難しいことなんだ」と。
母は、笑い話としてこの話をした。
「お母さんは全部『ふつう』だったのに、ももちゃんは全部『よくできた』なんて、すごいねぇ」と言って、目を細める。
私はこの母の話を聞くのが好きだった。
自分は母よりもすごいんだと思える、そんな優越感も少しはあったと思う。
けれど、それではなくて、この話を、恥ずかしそうというよりも、どこか楽しそうにする母を見るのが好きだった。
でも、そのときの私は、「ふつうが、いちばん難しい」という言葉の意味をちゃんと理解していなかった。
「ふつう」よりも、「よくできた」をとることのほうが難しいことだと思っていたから。
だけど、今ならわかる。
「ふつう」は、思っているよりも難しいことだと。
幼き頃、私が「ふつう」だと思っていたこと 結婚して、子どもを産んで、マイホームに暮らし、毎週マイカーでドライブして、ときどきは遠出し、毎日一所懸命に仕事をして、毎日おいしいごはんを家族一緒に食べて、といったこと が、本当はどれほど難しいことなのか、大人になってわかった。
わが家は、特別裕福なわけでなかった。
私は、わが家を「ふつう」と評価していた。
でも、その「ふつう」を維持することが、どれほど大変なことなのか、私は痛感している。
父と母が、つくりあげてくれた「ふつう」は、本当はふつうじゃない。
両親が、精一杯の力でつくりあげてくれた、最高難度のものだった。
私は、両親のような「ふつう」をつくれるかどうかわからない。
きっと両親と同じ「ふつう」をつくる必要はないのだと思う。
だれかの「ふつう」を私の「ふつう」にする必要はない。
私は、私なりの「ふつう」をつくっていけばいい。
「ふつうがいちばん難しい」のだと心に留めながら。