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猫と天秤

自分が絶望的なほど恋愛に向いていないと自覚したのは19歳の頃だった。仲の良い異性の友人に告白され、特に断る理由もなかったので付き合うことにした。交際中、私は自分自身に愕然とすることが何度もあった。

おい、私は今『彼氏』と一緒に歩いてるんだぞ?手を繋いでるんだぞ?綺麗な夜景を見て、「クリスマスも一緒に過ごしたいね」なんて少女漫画みたいなセリフを言われてるんだぞ?それなのに、なぜ心がときめかないんだ????

結局、その相手とは恋人らしいことは何もしないまま半年で別れた。以降も数年に渡って似たようなことを繰り返し、私は他人に対して『恋愛感情』を持てないのかもしれない、と気づいた。これは致命的な欠陥である。

何せ、同世代の友人たちは次々と「結婚しました」「子供が産まれました」と無情な報告をしてくるし、職場では「結婚しないの?いい人紹介してあげるよ」と余計な世話を焼かれる。両親からも「ウチの娘はいい年して、恋人も作らずフラフラしてる」なんて声がチラホラ聞こえるようになり、結婚するのが当然だった時代に産まれた祖母は「いつ結婚するの」と会うたびに尋ねてくる。こうなると、恋愛に興味がない=悪者という気がして、なんだか日々が息苦しくて仕方がなかった。

だが、ある日転機が訪れた。友人が破局したのだ。たしか人生で初めてできた彼氏だったはず。さぞかしショックを受けているだろうと私は心配したが、久しぶりに会った彼女は予想に反して傷ついている様子は全くない。「なんで別れたん?」と恐る恐る訊くと、彼女はあっさり答えた。「だって、同棲したがるくせに猫が嫌いって言うから」

彼女は飼っているオス猫を息子と公言するほど溺愛していた。猫と彼氏を天秤に掛けられた瞬間、彼女が迷わず猫を選んだシーンが浮かぶようだった。「猫が嫌いな奴とか、生理的に無理。もう二度と会わんことにした」そのあまりの清々しさに私は吹き出し、同時に自分の悩みのくだらなさに気づいた。

この世に、恋愛より大切なものはごまんとあるのだ。祖母のように「結婚して子供を産むのは当たり前」という考え方もあるけれど、婚姻や出産を強制する法律はまだないし、先人に倣わなければ死ぬわけでもない。孫の顔を見せてやれない両親には申し訳ないが、私にも恋愛より好きなものがある。

たとえば今のように、自由気ままにキーボードを叩いている時間。自分のためだけにオシャレをするのも楽しいし、職場の女性陣にそれを褒めてもらえるとウキウキする。カラオケもラーメン屋も映画館も、一人で行ったって充分楽しい。誰かと一緒の時はおしゃべりに夢中で気付かなかったものを見つけて、ちょっと得した気分になったりする。

恋人や配偶者がいる人からすれば、私は孤独で可哀想な人間に見えるのかもしれない。けれど、私は一人が必ずしも寂しいことだとは思わないし、恋愛をしなくても満たされている。そう気付いたら、なんだか胸のつかえがすっと取れて、以前よりも息がしやすくなったような気がした。

それからは、結婚の話が出たら自分の考え方をハッキリ話すようになった。大抵の人は不思議そうな顔をするけれど、中には理解を示してくれる人もいる。「今は良くても、十年先、二十年先はどうするの」なんて言葉をかけられたこともあったが、明日のこともわからないのに、何十年も先のことなんて考えたって仕方がない。そう割り切って、手始めに猫を飼った。今なら、愛猫可愛さに人生初の彼氏を振った友人の気持ちがよくわかる。

もし、いつか猫と恋愛を天秤に掛けなければならない事態になったら、私は迷わず猫を選ぶ。

文:アサト

第1回「わたしのノンマリライフ」エッセイ募集コンテストにご応募いただいた方々の中から、アサトさんのエッセイをご紹介しました。

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