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【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❻

 嵐の勢いは少しも衰えていないようだ。広場の植え込みの木の枝が何本か折れ、あっちこっち風に引きずられている。広場にも何軒が小さな店が並んでいた。一軒だけ、灯りがついているようだ。誰かいるのだろうか。ショッピングモール内の上の階にも行ってみようか迷っていたが、僕はモールの外の灯りのついた小さな店に行ってみることにした。

 すでにずぶ濡れだった僕は何の躊躇もなく外に出た。雨と風に叩かれながら、十メートルほど向こうの店の灯りを目指して小走りに走った。ウィンドウのディスプレイにはネックレスや指輪などの装飾品が見えた。僕はそのジュエリー店の扉のバーを握った。


「いらっしゃいませ。あ、大丈夫ですか?」
 中にいたのは黒いスーツに身を包んだ若い男の店員だった。ジュエリー店といえば女性の店員しかいないものと思っていたので意外だった。けれど、やっと人に会えた。
「ひどい雨ですね。どうぞ入ってください」
 僕が一歩店に入ったのを見届けると、店員は店の奥の部屋へ足早に入って行った。他に客は誰もいなかった。重いドアがゆっくりと閉まった。うるさい嵐の音がほどよくマスキングされて、今度は音を立ててふうっと息をついた。音楽もなく、さっきと同じで、一秒経つよりも速く僕の服をつたい落ちる雫が絨毯を叩いていた。周りを見回してみる。狭い店内だが、気品漂うアンティーク調のジュエリーがディスプレイに並んでいた。

 ディスプレイの中に店のロゴらしきものがあった。僕はふと動きを止めた。“JEWELRY EPISODE” とある。どこかで見たような。あっ、と思い出し、僕は今朝駅で受け取ったビラをポケットから取り出した。
——ジュエリー店 「エピソード」 OPEN あなただけのエピソードがジュエリーになります。

 ここだったのか。考えるより先に身体が動いてもう一度店の外に出る。大粒の雨と風がふたたび僕の頭や肩、背中を叩く。見上げるとディスプレイの中にあったロゴと同じ看板がそこにはあった。もう一度ビラを見た。ポケットの中ですでに湿っていたビラはすぐに雨に濡れて柔らかくなり、手のひらに張り付いた。まるであのとき十花とおかと拾ったビラのようにちぎれそうだ。

 僕は手のひらを見つめたまま店に近づいた。ふと気づくと開けっぱなしの扉の向こうで、先ほどの男性店員がタオルを持って立ち、真顔で僕を見ていた。その若い男の目は、わずかに心配そうで、僕の一挙手一投足に注意を払っているようだった。
「さあ、どうぞ中へ。これをお使いください」
 店員は表情を変えずに言った。僕がタオルを受け取ると、店員は素早く僕の背後にまわり、店の扉を閉めた。それから僕がタオルで髪や衣服を拭いているのを、そのまま後ろからじっと見ている気がした。やがて僕の視界のなかに戻ってくると、店員は僕と目は合わさず、その辺のものを整頓するふりをしていた。濡れ鼠になっておかしな行動をする僕を、じろじろ見ないようにするための配慮なのだろう。かえって惨めな気持ちになった。いくら台風とはいえ、こんなに何度もずぶ濡れになるのは、さすがにおかしいだろう。僕はいつからこんなに病める人間になったのか。やっぱり僕は十花の影を引きずりすぎなのだろうか。さっきまでの、ショッピングモール内で湧き起こったユーモアをもう完全に潰してしまいたい気持ちになった。

「ゆっくりしていってください」
 店員が沈黙を破った。真っ直ぐな誠実な態度だった。そうかと思うとふと笑いを漏らした。
「誰も来ないから、話し相手が欲しかったんですよ」
「ああ、ありがとう。申し訳ない、こんなずぶ濡れで」
 店員は決して僕を変な目で見てはいないようだった。少なくともそういうそぶりを少しもしなかった。店員は僕より四、五歳年下のような気がした。なんだか早熟な感じの青年だった。


 店員は僕に椅子を差し出してきた。そしてジュエリーのディスプレイの向こう側に戻ると、戸棚からコーヒーの粉と、カップとソーサーを取り出した。サイフォンの漏斗にコーヒーの粉を入れ、水を入れたフラスコをセットする。慣れた手つきなのだが、細長い指は丁寧にデリケートな器具を扱っている。店内の天井の照明は消え、間接照明やキャンドルがところどころついているだけだった。ゴールドやプラチナ、真珠、さまざまな色の天然石などのアンティーク調のジュエリーたちが、ほの暗い部屋で穏やかに輝いている。胸のあたりにだんだんと落ち着きが戻ってくる。僕はサイフォンのアルコールランプに揺れる炎になんとなく視線をもどす。
「すごいですね」
 店員は入口のガラス戸の向こうに視線を投げて言った。
「お仕事の帰りでしたか」
「ああ、はい。今日は午前中で終わったんだけど、僕だけ残ってて。電車のことをすっかり考えてなくて、いつも後のことを考えてないのが悪い癖なんですけどね」
「あはは、そうなんですね」
 店員は屈託なく笑った。
日下部くさかべあゆむさんですよね」
「ああ、はい」
 たまにだが、こういうときに気づいてくれる人もいる。けれどこの男が僕のことを知っているとは思わなかった。
「やっぱり、声でわかりました」
「僕のことを知っているなんて、嬉しいです。ありがとうございます」
「私、劇団『古都』が好きで作品は毎回見てるんです」
 青年は自分がどんなに舞台好きかを熱心に、けれど控えめに語った。そして僕の仕事について尋ねてきた。けれど決してミーハーな質問はしなかった。僕を一般の人と同じように見てくれ、仕事の苦労やちょっとした楽しみを共感してくれた。

「コーヒー、ごちそうさまです。ずぶ濡れだったから、身体が温まりました。今日はあなたひとりなんですか?」
「はい。今日は私たちの方も午前上がりで、私だけ居残りなんですよ」
「そうなんですか、こんな日に大変ですね。客もいないのに。でもいなければいないで忙しくなるかな」
「怖くなります。風の音はすごいし、窓が割れるんじゃないかとか、ひとりだと余計怖くなっちゃって」
「はは、今のところは停電だけですんで良かったです。照明もあるようだし」
 僕は店内を見回した。
「ちょっと見せてもらっていいかな?」
「ええ、どうぞ」
 僕は席を立って店にあるジュエリーを見てまわった。
「どなたかに贈るご予定があるのですか」
 そう言いながら居残りの青年は店員の顔になり、そっと立ち上がった。
「ああ、ええ。妻になんですけど」
「ご結婚されていたんですね。そこまでは知りませんでした」
「一年前に結婚したんです」
「じゃあ、結婚記念日ですね」
 店員は温かい目で僕を見ていた。決してうわべだけではなく。
「よろしければお選びになるのをお手伝いしますので」
「ああ、実は何がいいかわからなくて困っているんですよね。たまに妻と一緒に見ていても、最後にいらないって言うから」
「遠慮しているんでしょうか」
 いや、ふつうの遠慮とは違う。妻はある指輪を探しているのだ。
「多分、いつか失くした指輪のことを考えているんだと思う。もちろん、妻はそれがどこかで売っているとは思っていないけれど」
「失くした指輪…どんな指輪ですか?」
「むかし、ひとつだけ指輪を持っていて、祖母からもらったらしくて、ずいぶん大切にしていたんだけど、ある日失くしてしまって」
「お祖母様からもらったものだったのですね。この世でふたつとない指輪ですね」
「結婚指輪は着けてくれているんだけど、ファッションで着けるものとなるとね…。僕は何か新しいものを楽しめるようになればいいと思うんだけど…」
「なんだか、思い入れが深いようですね。あるいは、罪悪感があるような気がします」

 僕は少しぎくりとして口をつぐんでしまった。店員の言うとおりだったからだ。深い思い入れと罪悪感。他に何があるだろう。そしてそれと同じものが、僕の中にもあるのだ。

 店員は僕がほかに何か話さないかどうか少し待っていたようだ。少しの沈黙のあと、店員が言った。
「よろしければ、日下部さんと奥様と、大切な指輪に関するお話しを聞かせていただけませんか。私たちはお客さまのお話しを聞いて、そのエピソードをジュエリーにしているんです」
「エピソードを、ジュエリーに、、、?」
 それはビラにも書いてあって、しっかりと僕の心に刺さってはいた。だから僕は知らない振りをした。
「ええ。やり方はさまざまなんですけど、たとえば失くしてしまわれたジュエリーをもう一度着けたい方には同じ素材を探して再現します。お客様のエピソードやアイディアをお聞きして、それにまつわる色や形を取り入れてお作りすることもあります。なので、仕上がりにかかる時間も料金も様々なのですが」
「へえ、そんなこともやっているんですか。とても素敵だと思うんだけど、何を話せばいいか」
「どんなことでもかまいません。お客様のなかにはジュエリーのことでちょっとした相談をされて、こちらは情報を提供させていただくだけのこともあれば、大事な思い出話をされるお客様もいらっしゃいます。途中でお話ししたくなくなったら、そこでやめることもできます。その場合はジュエリーがお作りできないので、料金はいただきません。記念品を差し上げています」
 誠実だが穏やかに店員は説明した。
「じゃあ、せっかくだからお願いしようかな。雨もやみそうにないし」
と僕はこたえた。本心はせっかくだからというのとは少し違った。はじめは僕も世間話のつもりだったが、この男は初対面の僕に対して話を逸らさず聴いてくれ、そして感じるままを僕に投げかけてくれた。さっきはうまくいかなかったが、その先を話せるかもしれない。そしてこんな僕でも、妻の美智には前に進めるなにかを贈ってあげたい気持ちはあるのだ。


「では、どうぞこちらへ」
 僕は店の奥の部屋に案内された。入ってみるとそんなに広くない部屋で、ローテーブル越しに二つのソファが向かい合っていた。それ以外は小さなキッチンと冷蔵庫があるだけだった。シンクの棚にはグラスやカップがいくつか置いてある。天井の電気はやはり消えていたけれど、充電式の間接照明やらキャンドルやらを、店員は店頭から持ってきた。
「こちらにお掛けください」
 ソファのひとつを勧められた。身体をあずけてみると心地良さに襲われ、だいぶ疲れていたことに気がつく。
「寝てしまわないか心配だ」
「安心してください。嵐が去ったころに起こしますので」
 店員はもう一方のソファに腰掛けながらそう言った。
「では始めますね」

 店員は一秒の間を置いた。その目は温かな輝きを帯びて、何か空気が変わるのを感じた。店員は両腕を広げ、大きなゆったりした声でこう言った。
「ジュエリー店 “エピソード” へようこそ!」

 僕は一瞬何も返せなかった。さきほど僕がひとりでふざけていたのを見ていたのか?舞踏会を開いたキャピュレットのようだった。なんだか悪戯めいた響きもあり、マキューシオのようでもあった。

「すみません、舞台風に言ってみましたが、全然なってないですよね。一度でいいから舞台に立ってみたくて」
 店員は恥ずかしそうにしていたが、何も言えなかった。この店員は堂々と楽しそうに、僕に演じてくれた。この世にいない友人に囚われて、思い出と戯れているだけの、僕の澱んだ心を照らすかのように。あるいはいつまでも沼で遊んでいる惨めな僕のところに、この男が喜んで入ってきてくれたかのように。それは僕の錯覚なのだが、僕の心は分別をなくしているようだ。涙で視界がぼやけてしまった。僕はそれが目からこぼれ落ちないように念じながら言った。
「いや、ありがとう。うまいな、君」








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