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心に飴を降らせたい

「今日、お昼食べる暇あるんですか?」

思っていたより笑みを含んだような声色になってしまったから、そのせいかも知れない。わたしよりもいくつか年下で、でも職歴的には幾年か先輩の彼ーーKさんは、わたしから目を逸らすと返事をすることさえ煩わしそうに

「ないっすね」

とだけ短く、口の端を申し訳程度に持ち上げて答えた。


Kさんはまだ若いが、聞いた話によると入社してもう四年ほど経つらしい。まじめで仕事のできる人間にばかり集まるように仕事が増えるのは、どこの業界でも会社でも一様なようだった。
生気の抜けた目で画面を見つめる彼に、いつかの自分が重なる。

人間は、往々にして責任を負う人間と負わない人間に分けられる。
そして責任を負う側に立たされた人間にも例に漏れず向き不向きがあって、それを「責任を負う精神力があるかどうか」であると仮定すると、わたしは残念ながら後者だった。

常に机の脇に高く積まれた書類の山。わたしがやらなければ終わらない、わたしが倒れたら他に分かる人は誰もいない。

わたしがひとつミスをすると数十万、数百万の損害が出る。下手すると会社自体が潰れ、社員数百人とまたその家族数百人が露頭に迷う。

そして何より、わたしを信じて任せてくれている上司、認めてくれている先輩たちに失望されてしまうのではないか。

そういった不安と戦いながら、寝不足の頭と絶えず吐き気を催す腹部に耐え、半食分ほどの昼ごはんを食べてすぐ仕事に戻るとそこから夕飯などもちろん摂れないままに日付変更線付近までノンストップ、電気をこうこうとつけていても心なし暗く感じる事務所でひとりパソコンのモニターと睨み合う日々。

弱っちいわたしが壊れてしまうには十分な重さだった。

生きることは傷を負い続けることだ。日常生活を送るだけで、避けようのない傷を抱えトラウマを植え付けられていく。

中にはそういうものを感じない人たちもいるようだけれど、おそらく一握りだと思う。(あるいは一握りのこちら側が、心に傷のある人間同士これが世界の全てだとばかりに慰め合おうと集まっているから多数側だと勘違いしているのか。どちらにしても、自分を根拠なしにマイノリティだと思うことは容易ではない)

わたしにもいくつか癒されていない傷があって、忘れたいのに風化されてくれない思い出と感情がある。

その中の一つが、責任の重さに負けて逃げた前職だった。

「つまむ暇くらいならありそうですか?サンドイッチか何かついでに買って来ますよ」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

視線を合わせたままのきっぱりとした拒絶にそうですか、と笑みを返しながら、脳裏に浮かぶのは一年前の自分、だけではない。

何かを抱え込む癖のある人間の周りには、そういう人間が多い。やはり、周りには似たようなタイプばかりを置きたがるのが人間らしい。当時の恋人、友人、仲の良い先輩や上司、そして後輩。原因こそ違えど仕事が生活の全てであり、思考の全てだった。良くも、悪くも。

そんな誰かと傷を庇い合い慰め合うことは、無意味なようでいてその実、溺れかけたわたしには唯一の寄る辺だった。
水に浮かんだ筏のように不安定でありながら、それすらも持てていなかったら、わたしは深くまで沈んでしまってきっともう息の吸い方も忘れてしまっていただろう。

スーツのくたびれたサラリーマン、地味な色を身に纏った光のないOLに囲まれ、明るいセブンイレブンで思い出したのはきっと、今昼ごはんにもありつけずに仕事をしているKさんではなかった。

あのころのわたしに、彼に、彼女に。

夜中に入ったコンビニで、愛想のかけらもなかったはずのわたしに「1日お疲れ様でした」と声をかけてれたおばちゃんスタッフに、思わず涙ぐんだわたしに。
桜の散る頃、ボンネットに通勤路の優しい花弁がそっと腰を下ろすまで春の訪れに気付けずにいたわたしに。

わたしを全てにしなければ、今にも溺れてしまいそうだった彼に。


隣の先輩が席を立ったタイミングでKさんはそろそろとやって来て、椅子に座ったわたしと目線を合わせるためにかゆるりとしゃがみ込んだ。

「サンドイッチ、買って来てくれたんですか」

手を止めた。少し照れ臭くなって小さく頷く。

「野菜ジュース、飲めるか分からなくて、甘いのにしました」

「飲みます。野菜不足なんで」

小さく笑う。

人間は勝手な生き物だ。
もう手の届かない場所にいる、かつて助けられなかった彼。傷つき続けた彼女。わたしの気持ちは目の前のKさんには向いていないのに、感謝の言葉だけはしっかりと受け取っている。

あの日、彼らに一つのサンドイッチでも渡せていたら。

あのころ、悪意のない笑みがわたしに、彼らに向けられていたら。誰かの誠意と思いやりが形に見えていたら。

いつだって何かを心に残し続けるのは、傷ついた誰かとその誰かを大切に思う助けられなかった誰かで、傷を負わせた誰かではない。いかに無意味か分かっていても、膿をしぼり尽くすことができない。

目の前にいない誰かに施しをすることはとても慰めになった。少しだけかさぶたができる予兆がした。

遠くにいるわたしの大切な人たちに、Kさんが出会うことはきっと永遠にない。
Kさんからその行為が優しさとなって渡ることはないけれど、少なくともそれはわたしの心を優しくした。それで十分だった。

誰にも優しくできなかったころの自分を、少しずつ、こうして供養できればいい。
そうして、あのころの彼らも。


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