「あなたには文才があるね。ここの表現とか、ぱっぱっぱとコラージュのように情景の断片が浮き上がってくる。そうね、朝井リョウみたいな」 プロの小説家にそんな風に言われて、それだけで舞い上がった。朝井リョウ。調べてみて「桐島、部活やめるってよ」の作者と知り、ずいぶん軽そうなタイトルの作品を書く作家なのか、とがっかりする。フリマサイトで大量に出品されていた古本から、最も安いのを購入して読んでみる。 面白かった、20歳に満たない年齢でこんなにも青春のコマを鮮やかに描きだして、しかも本
夫のつくるみそ汁が毎朝おいしい。煮干しでだしを取ったみそ汁。 鍋にお椀4杯分の水を入れ、大きめの煮干しの頭を外し、お腹の真ん中を縦にぽりっと割くように真っぷたつに割って、中の縮こまった黒い内臓をとり除く。5匹くらいを、そうやって水の中に落とす。点火、中火でゆっくり沸騰へと導く。 湯が沸く間に野菜に取りかかる。夫が好きな、甘い野菜が主役になることが多い。玉ねぎは半円にスライスし、かぼちゃも一口大の幅で、つつましく5ミリくらいの厚さに切る。 だしにもなる玉ねぎを先に入れる。その
ごそごそと乗り込むスクールバス。黄色いベースに黒い模様を散らしたボディは遠目にはポップで可愛いけれど、間近で見ると意外と少し古びていてごつい。やはりごつい顎をした目つきの鋭い運転手にハイと声を掛け、ぎ、ぎ、と通路を進み後方の窓側の席に座る。黙ってバス停に並んでいた生徒たちが、やはり黙ってぞろぞろと乗り込む。眠たい朝の、熱の低い表情と空気が車内に充満していく。 「隣に座っていい?」英語で声をかけられる。誰が座っても構わないようにとわざわざ頬杖をついて外を見ていたのに、とた
するすると落ちていく気持ちを止められない。 さめざめと泣きたいのに、泣けない。 なぜなのかわからない。 自分が何を感じているのかわからない。 ただ、感覚が、無防備に開いているのがわかる。 こうなると手がつけられなくなるのはわかっている。 記憶の底から浮かび上がる、カタンカタンという鉄でできた鯛焼き器をひっくり返す音。強い夏の日差しが嘘のような薄暗い店内。耳の上まで切り詰めた、茶色い短髪の奥さん。年月を経て深みを増したアンティークのテーブルと椅子。古い映画館から運ばれてきた
ゆるやかなウエーブの肩まで届きそうな髪、きりっとした眉にくっきりとした二重の瞳、やや青白い肌、日本人にしては彫りの深い顔立ち、背は高く肩幅も広いが、ニューヨークでは華奢なほうに見える体つきに、彼はクラシカルな黒いダブルのスーツをまとい、白い手袋までつけていた。 「どうぞお乗りください」 ホテルの前に並ぶ数台のリムジンから、自分が社長達とともに乗り込む車両はどれかと探っていた砂実へ、彼はそう声をかけた。海外出張の度にあらかじめドライバーを手配していたが、いつもは割とカジュアル
木々の隙間から差し込む日の光。むせかえるようなセミの鳴き声。7月の長野。かなり山奥にあるのだろうと思っていが、駅からタクシーに15分ほど乗り、ああ、だんだん山の中に入ってきたな、というタイミングで車が止まった。降りると緑の香りが鼻腔に流れ込む。木造の平屋の戸をくぐり、靴が無造作に並べられた玄関をあがり、受付の呼び鈴を鳴らす。しんと静か。ガラス戸の向こうに緑に囲まれたウッドデッキが見える。右手に続く広間では、寝間着のような服装で女性がごろんと寝転がっているのが見える。風呂上がり
■エントリーナンバー1:オレンジヌガー 緻密な表面、こっくりと硬い焦げ茶色にの中にクラッシュした浅いオレンジ色のつぶつぶが入る。ややぺちゃんこ気味の三角おにぎりのようなシルエット。時折塩粒のような細かいきらめきが混じる、裏側にはベージュの半透明の飴を貼り付けたような。チョコレートヌガー、キャラメル、クランチ、岩塩を勢いよくざくざくっと混ぜてがーっと固めました。 ■エントリーナンバー2:あずき氷 ぶくぶくと吹き上がるお汁粉の表面をさっと固めてすくって、砂糖をまぶして冷やし固め
もの心ついた時から誰かしら好きな男の子がいた。だいたい色が白くて、目が綺麗に丸くて、笑顔の屈託のない、いわゆる美少年で何人もの女の子が心を奪われてしまう定番のような男の子のことを。奥手で恥ずかしがり屋だったから、好きな人なんていないふりをして、その男の子が他の子と仲良くなるのを見てそれが自分ではないことに心を痛めたりしていた。 中学校に入学して初日から早速一目惚れした。横顔が三日月のお月様みたいで、肌が白くて切れ長の目で、静けさが漂っていて、どきんとした。彼のことはクラスが
ごつい黒の中に、虹色のメタリックな光が混ざり、自然のものとは思えない硬質なきらめきを放つ石。直径5センチくらい、砕かれたコンクリートのように尖った、つまりいわゆる普通の石ころのフォルムに、見たことのない色と光が宿っている。正方形のプレートの上に乗せられた、同じくらいの大きさの石が整然と10個ほど並び、小さなスポットライトを当てられ、それぞれの色に輝きながらも奇妙な静けさを持って鎮座している。 ABCカーペットというなんだか単純なイメージの名前とは裏腹に、アジアや中東、北欧な
真っ黒な楕円形ですべすべとした、手のひらにのる大きさの石がある。すべらか、なめらか、ひんやりと冷たくて、表面が詰まっていて、ほおずりしても心地よい。たしか小学校3年生くらいの時に、青森の祖父母の家に夏休みに遊びに行き、いとこたちと一緒に連れて行ってもらった山の中の、暗門の滝で拾ったもののはずだ。 夏休みごとに、山や海、自然の多いところによく連れて行ってもらっていたのもあり、暗門の滝にたどり着く前後の記憶は曖昧だ。途中まで車で向かい山に入り登った先に、玉のような石が集まった
リモート生活を送っている横浜の実家から、歩いて15分ほどの場所に天井が高く心地よいカフェがあり、週2回程度通っている。途中、竹林の隣の急な坂道を下り、緑の茂る川沿いを抜けて車道に出る。横浜、と呼ぶのがはばかられるほど、鬱蒼とした緑が生い茂りせせらぎが聞こえる道だ。集中力が途切れがちになる昼過ぎに出かけ、暗くならないうちに戻ることが多いのことが多いのだが、ある時すっかり日が暮れるまで過ごしていた。 何も考えずいつもと同じ道で家に帰ると、川沿いの道が吸い込まれるように暗かった。
■あらすじ 鍼灸師である著者が、ふとしたきっかけでネルソン・マンデラ氏と知り合い南アフリカへ渡り、現地で数十の家に泊まりながら治療を行う中で出会った人々のあり方を丁寧に描いたエッセイ。 長く続いたアパルトヘイトの時代からマンデラ氏が大統領に就任する1994年前後、日々愛おしそうに料理をする男性、スープと手作りの黒パンでもてなす夫婦、政権交代からの開放を喜びレストランに繰り出す女性たち。一見心地よい日常を大切にしている、平和な空気の漂う彼らは、実は過去にあらゆる拷問を受けな