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ノエル

  ごそごそと乗り込むスクールバス。黄色いベースに黒い模様を散らしたボディは遠目にはポップで可愛いけれど、間近で見ると意外と少し古びていてごつい。やはりごつい顎をした目つきの鋭い運転手にハイと声を掛け、ぎ、ぎ、と通路を進み後方の窓側の席に座る。黙ってバス停に並んでいた生徒たちが、やはり黙ってぞろぞろと乗り込む。眠たい朝の、熱の低い表情と空気が車内に充満していく。

「隣に座っていい?」英語で声をかけられる。誰が座っても構わないようにとわざわざ頬杖をついて外を見ていたのに、とため息をつきたくなる気持ちを押しとどめ振り向くと、ヒョロリと背の高い男の子が立っていた。白い頬に赤いニキビと無精ひげ、少し傷んだこげ茶の長い髪を後ろに束ね、臙脂色のだぶりとしたパーカーを着て、ニコニコと微笑むその瞳は濃いブラウン。Yes, と答えまたそっぽを見るように外を見る。英語はしゃべれないから緊張する。でも朝のスクールバスでは誰も話さないということを、この三日間ですでに学んだ。静かな車内のまま、バスは出発する。

「イディヨファタイトゥゲディバス?」しんとした車内の中で、また彼が話しかけてくる。ふわりと甘い香水が漂う。英語は分からない、男子と何を話したらいいかも分からない。太い眉とまばらな髭がちょっとオジサンみたいだし、そのくせ腰まで届く髪なんて変だし、こんなに至近距離では緊張してしまうし、何より静かな車内でみんなに聞かれているようで気が引ける。

"I don't understand English." 小さく、短く、英語は話せないからもうほっておいて、という気持ちを込めて言う。彼はちょっと驚いた顔をして、さきほどよりもゆっくりと"I'm Noel.  And you?" と私にも聞き取れるように尋ねる。Misa、と仕方なく答える。ゆっくり、ゆっくりの会話で、彼がメキシコ人で、17歳で、1年前からこのカリフォルニアのハイスクールに通っているのを理解する。彼も、私が日本人で、14歳で、つい3日前からこの学校に通い始めているのを知る。

 彼ががさごそとリュックを漁り、皺の寄ったルーズリーフとブルーのBicのボールペンを取り出し、四つに折りたたんで膝の上に書きつける。NOELと書いて、これはサンタクロースという意味だよという。私は漢字で自分の名前を書いて、これがミサだよ、と言う。その横に、「乃絵留」と書いて、日本語のノエルだよと言ってみる。ノエルの顔が輝く。受験勉強で積み重ねた私の読み書き力は、筆談式コミュニケーションでは遺憾なくその成果を発揮した。お互いの膝の上で、こりこり、こりこり、ボールペンを取って書いて渡しあっているうちに、学校へ着いてそれぞれの教室へ微笑みながら別れた。

 その後も週に一度はノエルとバスで隣り合わせに座ってゆっくりとした筆談を続けていたが、2か月経つと私の母が運転免許を取り、当初の予定通り車通学になったため、私のバス通学の日々はあっさりと幕を下ろした。

 ノエルも私も学校で「移民生徒向けの基礎英語コース」を受けていたが、彼は私よりひとつ上のレベルのクラスだったこともあり、キャンパスではたまにすれ違う程度だった。いつもシルバーチェーンを腰からじゃらりと垂らし、鋲を打った黒革のブレスレットや大きなスカルのリングをして、パンクでどこか吸血鬼っぽくもあった。「移民生徒向けの基礎英語コース」の生徒の大半は、メキシコ、プエルトリコ、コロンビア、チリなどの南米のヒスパニック系で占められており、彼らは互いに固まって勢いのあるスペイン語で陽気にはしゃぎ、小さな南米社会をそこにしっかりと築き上げていたが、同じくメキシコ人であるはずのノエルはいつもその帝国から離れ一人で過ごし、ほんのたまに2-3人の女生徒たちといるばかりだった。

 ある日の帰り道、メキシコ人のヘクターたちとは一緒に過ごさないの?と何気なく聞くと、「僕はみんなの中に入れないんだよ、一人なんだ」と寂しそうに笑った。なぜ、とは聞くことができなかった。彼は笑顔でByeと去っていった。

 ある時ノエルに似顔絵を描いてあげたら喜んで、少し考えこむ顔をしてから首につけていたペンダントを外し私の手のひらに乗せた。黒い革のコードに、つるりとした小ぶりの五角形の黒い天然石が付いている。「これ、カエルだよ。幸運のお守り。ミサにあげる」びっくりして返そうとしたけれど、ノンと笑って両手を上げ絶対に受け取らない。私の好みではなかったけれど、コードも石もすべすべとして気持ちがいい。

 バスで初めてルーズリーフを交わしてから1年経ったころ、突然ノエルがメキシコに帰ることになったとクラスメートから聞いた。いつもいつも微笑んでいたけれど、その瞳はどこかやっぱりいつも寂しそうだった。もうその頃には二人の間に筆談ルーズリーフのやり取りはなくて、もう私は英語で最低限のことは話せるようになっていて、もうノエル以外にも一緒に過ごす友達が増えていて、だからもうノエルとはあまり話さなくなっていた。出会ったはじめの頃は異性であることを意識しすぎて、性的な目で見られたらどうしようという恐怖を持って接していたノエルが、実際にいなくなると思うと、足元がすこんと暗く抜けるようだった。クラスメートから彼が2週間後にアメリカを発つと聞いて、彼になんと声をかけたらよいか分からなくて、その日ノエルの姿を見かけた際に近寄って、メキシコに帰るって聞いたよ、今までどうもありがとう、元気でね、と簡単に照れ隠しのように言った。ノエルはいつものように柔らかく笑って、ありがとう、ミサも元気でね、と言って去っていった。

 家に帰って、ジュエリーボックスにしまい込んでいたカエルのペンダントを取り出した。小さな五角形のカエルは変わらずつやつやすべすべとしていた。少し指でなでてから、鏡を見ながらつけてみた。黒い髪に意外とよくマッチしていた。初めてスクールバスで出会った時のことを思った。ノエルが私を放置しないで、根気よく、会話のスピードをコントロールして、ルーズリーフを取り出して、なんとか二人の間の情報を、そして空気を行き交いさせようと努力をしてくれたのを思った。異性だからと心に構えをもっていた私を、ノエルはいつも優しく微笑んで、必要以上に踏み込むようなことはせずに柔らかく声をかけてくれた。少し垂れた目が寂しそうだった。彼は、これからどこへ行くんだろう。メキシコのどこへ帰り、何をして、誰と暮らしていくんだろう。

 翌日、お気に入りのターコイズブルーのタンクトップにカエルのペンダントを合わせて登校した。ノエルに見せて、最初にバスで私に声を掛けてくれてありがとう、素敵なペンダントをくれてありがとう、私の友達になってくれてありがとう、メキシコのどこに帰って何をするの、これが私のメールアドレスだから、ときどき送ってね、忘れないからね。このペンダント、大事にするね。

 そんな風に、言いたかった。いつもの教室にノエルがいなかったのでヘクターに聞いたら「あいつはもう来ないよ。昨日が最後の登校日だったんだ」と首を振った。慌てて彼の連絡先を教えて欲しいと聞き回ったけれど、ヘクターも、その他のヒスパニックのクラスメートも、ときどき一緒に過ごしていた女の子たちでさえ、誰も知らなかった。

僕は一人なんだよ、とつぶやくノエルの顔が浮かんで、胸が痛んだ。

こんなにもらっていたのに、私はたいして彼のことを知ろうとしなかった。彼の家族、アメリカに来た理由、どんなバイトをしているのか、誰と住んでいるのか、どのバンドが好きなのか、好きな食べ物は何か、休みの日は何をしているのか、何に幸せを感じ、何に困っているか、なぜ帰るのか、帰ったら何をするのか。

感謝の言葉もろくにかけなかった。自分がだんだんこの学校に馴染んできて、痩せているけれど髭を生やし男性ホルモンを感じさせるノエルに近づくのが気恥ずかしくて、せっかく会ってもついさらさらとした会話にとどめてしまっていた。友達として、向こうから歩み寄ってきてくれたのに。自分でいつもお守りのようにつけていた、素敵なペンダントまでくれたのに。最後にちゃんと、伝えればよかった。

「あなたがいてくれて良かった」