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ことばに疑いをかける

自分でミニ物語「絶対に嘘をつく男」を書いて、矛盾の構造が少し面白いなと感じたので、自画自賛的で気持ち悪いですがそれをここに書いてみようと思います。


ミニ物語「絶対に嘘をつく男」(前の投稿)

あるところに絶対に嘘をつく男がいた。
ある賢人は、その人に向かってこう尋ねた。
「そなたが、絶対に嘘をつく男か?」
その人は答えた。「いかにも、私が絶対に嘘をつく男である。」


以上の物語が矛盾を含んでいることは簡単に気づけるが、矛盾を階層的に含んでいることには気づけるだろうか。

その人が、絶対に嘘をつく男である場合、
「私が絶対に嘘をつく男である。」という台詞は嘘になるので
「私は絶対に嘘をつかない=真実のみを言う男である」という意味になる。しかし、これは絶対に嘘をつく男であるという前提条件と矛盾するので、前提条件が間違っていることになる。

では、その男は嘘をついてないとする。
「私が絶対に嘘をつく男である。」という台詞は嘘ではないので
その男は絶対に嘘をつくことになる。このとき男は嘘をついてないとする前提条件と矛盾する。

ということは、前提条件「あるところに絶対に嘘をつく男がいた。」が正しいとしても間違っているとしても、矛盾が生じるのである。

このようにして前提条件さえも矛盾の回路に入っている場合、次はどこを疑えばいいのだろう。

ミニ物語「絶対に噓をつく男」

「次はどこを疑えばいいのだろう。」
という感じで締めくくって、これ以上の思考の散策は読み手に任せようというところで放り投げた。前提条件を疑ってもダメなら前提条件を解釈する仕方が間違っているのだろうと一通り考えた後、疲れてしまって考えるのをやめた。

時間をいくつか空けて考えていると「ことばそのものは真である」という解釈が間違っていることを思いついた。つまり、「ことばは矛盾を包容する」という至極当たり前なことに行き着いた。


ことばに疑いをかける

現実世界は、矛盾を受け入れることはできない。もしこの世に本当になんでも貫く矛が存在するとしたら、どんな矛でも貫くことのできない盾は存在しない。
しかし、ことばでは簡単にそれができる。矛盾が矛盾のままことばの世界に存在することができ、階層的になることもできる。同時に、ことばは現実世界とも矛盾することができ、それは「嘘」として我々に認識される。
この当たり前の事実から何が得られるかというと、ことばによって表現された全ての情報は矛盾あるいは嘘を含みうるという、これまた当たり前な知見である。

しかし我々はまた、言語学者のソシュールが述べたようにことばを通じて現実世界を理解する。日本では7色に見える虹が西洋では虹が6色に見えるように、世界はことばによって分節される。

現実世界である現象が起こったとき、それに関する様々な事実や解釈がことばによって表現され、そのことばを通じて我々は理解する。そのことばが表現される過程で、ことばに矛盾やら嘘がいとも簡単に混じり込む。これは、ニュースやネットの記事などについても同様である。ことばとして情報を発信した場合、発信者の偏見に基づく嘘などがことばに簡単に混じり込む。
そのようにして生成されたことばを鵜呑みにしていると、我々の理解の中に気づかぬうちに矛盾やら嘘やらが積み重なり、結果として誤った現実世界の捉え方をしかねない。そのため、鵜呑みする前に一度立ち止まってそのことばに矛盾や嘘が混じりこんでないかを吟味し、ときには自身のフィルターによって濾過を行い、ときには想像によってことばを補い、自分の価値観や感覚と照らし合わせてことばを変換して理解する必要がある。しかしこの過程で、やはりことばには簡単に矛盾やら嘘が混じり込むことを忘れてはならず、自身の理解に対して疑いをかける営みを絶えず繰り返す必要がある。


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