「いただきます」出すか出さないか問題

私がまだ大学生だった頃、少し悩んでいたことがある。それは「ぼっち飯の際、いただきますを口に出すか出さないか問題」だ。9月という中途半端な時期に卒業した私は、4月からの約5か月間ほぼ毎日ぼっち飯をかましていた。さびれた食堂にポツンと座り、サバの味噌煮定食を前にして手を合わせる。「ぃ、ぃ、ただきマ..suu.....(あれ、、いただきますってどうしてたっけ...)」と心の中の「いただきます」のやり場に困る日々が続いた。何も言わずに食べ始めれば良さそうなものだが、変な罪悪感のようなものがじわりと広がるのだった。ふと、「この罪悪感は何だ?」と思った。そういえば大学1年生の頃、同期の男子が「俺、1人でもちゃんといただきます言える女の子が好っきゃわぁー」と言っていた。漫画『宇宙兄弟』でも、主人公ムッタがせりかさん(恋心を寄せる女性)の「1人いただきます」を目撃し、更に惚れ込むというシーンがある。たしかに、【いただきますを言える女性=純粋無垢で良い子】という方程式は容易く頭に浮かぶ。

しかし冷静になって考えてみたい。食堂でのぼっち飯の際、「いただきます」を口に出す必要は本当にあるのだろうか。

ここで一旦「いただきます」の意味について考えてみる。「いただきます」とは食品に関わるものへ感謝の意を示す言葉だ(多分←)。以下、ざっくりとその感謝の対象をまとめてみた。

①食材(命)

②製造者

③料理人

④その他の従業員とか

まず、①②はその場にいない者たちである。特に、①の命はお空の上のはるか遠いところに行ってしまっている。その為、むしろ心の中でささやく方が確実に届くのではないかという気さえする(気がするだけ、確実なんてない)。③④は同じ食堂内にいる者だが、多くの場合、声が届かないほど離れた場所にいる。つまり、「いただきます」を声にしたところで誰にも届かないのだ!(よっぽど大声で叫ばない限り!)

では、何のために口に出すのだろうか。「うーん、周囲へのアピール...?」というなんとも捻くれた考えが浮かんだ。長い時間をかけて刷り込まれた「一人いただきます=良い子!道徳的に正しいのだ!」という方程式が私の中に良心を作り、罪悪感を生み出す種となっていたのか。

この日から、私は胸をはって「いただきます」を言わないことにした。ちなみに、誰かと食事をする際は「一緒に食べてくれてありがとう」の意を込めて「いただきます」を言っている。

(※純粋な心で「いただきます」を口に出している人を批判しているわけではありません。そういう方はどうかそのまま続けてください。道を踏み外さないで。)