入り込む感覚を忘れてしまった
傍観者のポジションが一番心地よいからそこに居座るのだけれど、体験を純粋に楽しむことはできない。
純粋に楽しむっていうのは、その瞬間その体験の中に入っていて一体化している状態と表現したらいいかな。
多角的な捉え方をせずに、我を忘れて夢中になっているとも言える。
傍観者ってある意味、冷めた視点っていう捉え方もできるわけだ。
または観察しすぎて何を選択したらいいかわからないといった状況になる。
よく考えると感情が揺れることを拒否しているという捉え方もできる。
その体験を通じて得ることに対し、思うことがあるからこその傍観者のポジション。
(傍観者に対して悪い印象がついてしまう理由は、気づいていながら何もしない人だもんね。)
その場の状況を俯瞰しすぎて、その場で得られる体験価値を自分で下げてしまっている。
深く自分の真意に触れようとすると、自分の感情と周りの視線などによって複雑に絡まっているということもある。
この場ではこういう人物像がいいだろうっていう変な考えをしてしまい、自分の本心が何かを忘れてしまったりする。
作品に対してついつい製作者の意図を探ろうとしたり、自分ならどうするかという想像を働かせてしまうこともある。
1つのことに対して、いろいろなことを吸収しようとする姿勢はもちろん大事。
抽象化して物事を見ることによって応用をきかせることもできるわけだし。
傍観者ポジションってその体験に対して距離があるから、仮に嫌な体験だったとしても少しは落ち着いて判断できるということもある。
傍観者ポジションを好む人って、自分の主張を言わないといけない時って困ることが多い。
いろいろなことが思い浮かんで、何を言えばいいのかわからないし、その発言によって影響することもどうしようみたいな。
単純に自分が思うことを言えばいい話なんだけど、複雑に絡み合ってしまうと距離を置きたくなる。
色々と例を挙げてみたけれど、自分の弱さが目立つね.....
物事を俯瞰できるっというメリットはあるけれど、それでは得られる体験価値が分散してしまうよね。
体験価値ってどこに焦点を当てるかで変わってしまうけど、楽しみの中に入るという点においては下がると思う。
でも、楽しみを得られることも人によって違うからどうなんだろう。
入り込めたらいいんだろうけど、入り込めなくてもそこで楽しみを見出せばいいのかもしれない。
俯瞰してしまうのはしょうがないとして、そこで得られることに意識を向けたらいいのだと思う。
入り込めないならその視点のままでいいという許可をしてみると良いかもしれない。
とはいえ、純度100%の体験は入り込まないと得られないと思う。
笑って泣いて、はしゃいで喜んで、悲しんで泣き叫んで。
そんな感情むき出しのドロドロしたものに面白さを感じないと、このリアルな世界を真に堪能できない。
子供みたいな感覚という表現をすればわかりやすい。
妄想にひたらず、現実を変化させるには物理的な行動が必要という話にもつながってくる。
念力で現実を創造できない。影響を与えることができるのは、具体的なものだ。
どんな捉え方をしようと人それぞれだからなんとも言えないけど、自分について改めて考えてみるのもいいかもしれない。
要は切り替えだと思うけどね。
フォーカス当てるところで見えることが違ってくるから、何を得たいかによってその場で対応していく感じ。
入り込まないということを実は自分で選択していたのかもしれない。
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よくわからない話になってしまった気がするけど、何かのきっかけになれば幸いです。物理的に現実を変化させたいと思った場合、まずは現実を純度100%で体験してみるというのもいいかもしれません。
なんかいいなと感じたら、缶コーヒーください。ありがとうございます。スキです。