意識するから起こるという捉え方から解決することはできないのか
この世界はただそこにあるというだけだが、物や現象に対して自分のフィルターを通して見ることによって複雑に認識することができる。
言葉というのも、物と意味を結びつけているからこそ他者との会話ができる。そして、ただの言葉なのにそこに自分の感情を乗せてしまうことだってある。
発信者の言葉と受信者の言葉の違いは、お互いが通すフィルターが異なることによって起きてしまう。
この記事で書きたいことは、そうした言葉や現象は個々のフィルターがあるため、0から構築する方法を取っていくことはできないかということ。
目の前の出来事を過去の経験から判断することは重要だし、大概それはあっているかもしれない。しかし、今この瞬間その判断が正しくて未来にどう影響しているのか判断した方が良いと思う。
もちろん、言葉の意味を再構築することなど無理だろうし、物事に対していうと歴史があるからこその今という捉え方もできる。
しかし、いつまでも過去の出来事を引きずって、その現象が果たしていい方向に向かうのだろうか。
歴史から学ぶことはたくさんあるし、過去の出来事の積み重ねによって今がある。
でも、これからどうしていきたいのかが重要であって、そこに対して今どうすべきなのかしかない。
こういう人間はいつもダメだ、この出来事の後には必ず起こること、過去お前がしてきたことは忘れないぞ。
こうした出来事に対してのネガティブな捉え方で、今その行動をする先に本当に望む未来があるのだろうか。
誰しもが、幸せを望んでいてみんな自由に楽しくいきたいということは同じだ。
その幸せの形は人それぞれだから、道のりは違うだろうけど、向かっているところは同じなはず。
思い込みによって人や物事を判断してしまい、今の現象を正しく見ようとしない。そして、望まぬ未来を自ら選択してしまう。
普通はこうだから。今までもしていたこと。当たり前にやること。
そうした概念によって囚われすぎていないだろうか。身近な世界が全てに共通しているという思い込みをしていないだろうか。
たとえ、世界からの反対意見が多いとしても、自分が欲しい現実を堂々と欲することはできないだろうか。
手の届く範囲内だけでも、幸せな世界だと信じることはできないだろうか。
歴史を知らないからそんなことを言えるんだという話がある。今まで、苦しんできた人がいるんだぞというようなことだ。
悲惨なことがあった事実を知っておくことは重要だと思うけど、それによってそのが捉え方が発生してしまうという認識はないのだろうか。
境界意識を発生させることでフィルターができてしまうということを言いたい。
もともとそんなことは気にもしていなかったのに、そういうことがあると認識してしてしまうことによって生きづらくなる。
昔の人間はそういう捉え方をしていたかもしれないが、今の人間も果たしてその捉え方をしているのだろうか。
おかしいことをおかしいと声をあげて、共感を集めることは重要だし、問題を顕在化することで解決できることもあるだろう。
しかし、その先のステージに行くにはどのような振る舞いをすればいけるのだろうか。
このままいくと全てが抑制されて、全ての行動がいけないことと判断され余計に不自由になりそうだ。
このような問題は全ての人間が一気に変えることは難しいだろう。でも、気づいた人間から新しい世界へ進んでいかなければならない。
そして、固定概念が少ない若い人たちが、新しい概念を取り入れていかなければならない。
もうすでに楽しい自由な世界があるとして、今すべきことはなんなのか。
望む世界が今あるとして、その意識は本当に必要なことなのか。
誰しもが自由に楽しくいきていける世界があるとすれば、どのような意識をすればいいのか。
本当はもうそうなっているにも関わらず、間違った意識がフィルターを作り出し、複雑化しているのではないだろうか。
身近なところだけでも、自由な世界があると信じて堂々と振舞っていく。
もう私達は悩まなくていい、ただ在るとした上でこの世界を遊べばいいんだ。
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世界が荒れていたとしても、自分の世界だけは穏やかにいきていきたいものです。リラックス。全てはOKなのです。
傍観者の戯論
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