アラフォーの老い
1985年生まれのアラフォーのわたし。日々、老いを感じることが増えてきた。
あれは2年前だったか、笑ったときの目尻のシワに気付いた時には本当にギョッとした。たまたま目の前に鏡があって、そこにうつる自分と目が合った。すぐに笑いは消え、もう若くないのだというしょんぼりとした気持ちだけが残った。
ほうれい線も目立つようになった。とくに左側がくっきりしていて、笑うと深い溝になる。暗がりのショーウィンドウや車の窓ガラスに映った顔が1番酷くて、それを見た途端、慌ててきちんとした照明のある鏡の前に立ち、マシな顔を演出したくなる。さっきの顔は何かの手違いで、こちらが本来の顔なのだと思い込みたいのだ。
火傷や虫刺されのあとは、なかなか消えなくなった。昔はあっという間に消えたのに、今はどうかするともう永遠に消えないんじゃないかっていうくらい、そこだけ変色したまましぶとく残っている。
それだけではない。食事中、やたらと歯の間にものが挟まるようになった。野菜や肉の繊維が入り込んで歯磨きをしても取れないことすらある。加齢に伴って歯茎が痩せてくるのだ。かつては分からなかった爪楊枝の存在意義が、大人になった今ようやくわかるようになった。
最近、奥歯の痛みを感じて歯医者へ行ったところ歯髄炎の診断を受け、歯の神経を抜く必要があると言われた。とてもショックだった。年齢相応の、と医者が慰めのように付け加えた言葉が余計に物悲しさを際立たせた。
この世に存在するすべてのものがそうであるように、わたしもまた確実に経年変化しているのだ。窓際で日に晒されたカレンダーがいつの間にか色褪せていくのと同じように、私の肉体もつるりとした質感と輝きとを徐々に失っている。
それは「しあわせは いつも 自分の心が決める」などという、世間でヘビロテされまくっている言葉でもって発想の転換を試みたところで、あまりにも残酷過ぎる真実だ。
おそらく私のようなアラフォー世代の人たちは大概同じような悩みを抱えているのではないだろうか。ひとつ違うことがあるとすれば、私は自分について考える時間があまりにも多いということだ。同世代の女性たちが子どもや夫といった創設家族に向けているベクトルのすべてが、自分に向いている。よく既婚女性が未婚女性の容姿を褒めるときの枕詞として「あの人は独身だから」とか「あの人は子供がいないから」とか使うけれど、たしかに時間もお金も独り占めできるという点では反論の余地はない。
とは言え、絶賛シングルライフ中のわたしの目から見て、自分が世の既婚女性たちよりも若さを温存しているとは思えない。むしろ街に出れば、ファッションもスタイルも完璧な若いママたちがベビーカーを押している姿のほうが強く視線を捕える。彼女たちの放つキラキラの残像を視界の端に残しながら一人で歩き出す時、私には何もないのだと感じる。己の若さも、外付けの若さも。
だけど、人生のどこかの時点に戻りたいとは思わない。戻りたいと願うほどの愛しい過去はないし、数々の辛酸をもう一度味わいたいとは到底思えない。ぜんぶ、乗り越えてきたのだから。
年齢とは、この世界と共に過ごした時間。
老いはつらく悲しい。
だけど、身体的な衰えと内面の経験値とを切り離して考えたとき、後者に自分なりの愛着があることはたしかだ。きちんとラベンリングして、記憶の引き出しにそっとしまっておきたい。前者には、気休めだとは知りながら、サプリメントと美容クリームでもってわずかな抵抗を続けていこう。
いま車検の見積もりにきたガソスタで手に取った雑誌。まさかの表紙があっちゃん。時の流れを感じた。
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