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長い思考を楽しむ孤独ー哲学と現代社会とビジネスとー

珍しくnote内の記事からピックアップします。編集部のオススメにあがっていたので、目にした方も多いかもしれません。

以前も京大の人文学系講義が無料開放されてますよ、ってな話題を取り上げました。引き続き、今回は「哲学」について。

昨今のビジネス界隈において、哲学への関心や、哲学の重要度が上がり散らかしておるのです。

タイトルの『失われた孤独。あるいは「長い思考力」』について、共鳴した記述を引用しますと、

ハンナ・アーレントは〈寂しさ〉と〈孤独〉を分けるべきだと言っています。〈寂しさ〉は、一人でいることに耐えられず、他人を求める心の状態。〈孤独〉とは、自分自身と過ごすことができる状態
常時接続の世界が奪ってしまったのは、〈孤独〉の方ですね。

SNSによって奪われたものの代表格ですよね。孤独な時間によって得られるものは多い。人々と常時接続されることで「反射」的に行動するシーンが増え、相手への想像力を働かせるような「長い思考」の出番が減ってしまっている、と。

じゃあどうすればいいの、って思う方は、ここまで読んでいないような気もしますが、念の為。
○○なら○○しろ」みたいな冗長性を欠いて単純化したメッセージを求めている方には不向きな内容です。私見です。

これもそのまま言い表した記述があります。

この能力には〈ネガティブ・ケイパビリティ〉という名前があります。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙して、即断せずにわからないままに留め、いったん噛み含める能力です。テクノロジーがこの力を奪い続けている。人は、ネガティブ・ケイパビリティや孤独を手放し続けている。


ーー

実は僕がnoteで色々とやり出す前に感じていた強い問題意識ー社会に向けたーのひとつに、

世の中には単純化されたメッセージが多すぎる。そして広まりすぎる。

というものがありまして。

でもこれは仕方ないことなんですよね。多くの人はこのネガティブ・ケイパビリティがさほど高くなく、「○○なら○○しろ」という単純なメッセージに惹かれたり安心したりするのは当然なんです。また、これは正解を求める思考、つまり正解があると考える前提を持った思考によっても強化されるものだと思います。

○○している○○が実践している5つの習慣
実は△△は間違い!○○するだけでスッキリ○○!
○○なほど○○する!かんたん5分で毎日続く

こういうメッセージは、多くの人を喚起し、時に"バズ"を生みます。
さらに加速させる要因に、Web界隈の"数の経済"が噛み合ってしまっていることもあると思います。

これが悪いというわけではないんです。
しかし、もっと余白や余韻を味わい、抽象度が高い思考を回すことや、答えを導くプロセスを楽しむ人々だっているんですよね。そういう人たちが楽しめるような"界隈"があってもいいと思うんです。


と、言っている僕のこの意見に対してすら
「つまり、何が言いたいの?」と、単純化を求める方だっているかもしれません。

だから、そういうとこよ。そういう質問が出てしまうことなんだって。

でも仕方ないことなんです。抽象的な思考を繰り広げるには、ネガティブ・ケイパビリティに加えて、幅広い知識も必要なんです。

この文章には、『哲学者が持つふたつの特殊な能力』についての見解が書かれていました。

一見異なるものを重ねながら思考する習慣があるからこそ、〈パターン認識〉の能力が高い。

〈情報処理能力の高さ〉だと思います。(中略) 複雑に絡まったテーマや議論を整理しながら、問題や目的を言い当て、明晰にするのも哲学者が得意なことだと思います。

皆が哲学者を目指す必要はないんですけど、誰かが述べたことに対して「あーはいはい、そういう話あるよね。それってさ、○○で言うとさ、、」みたいな反応があってこそ盛り上がる話はあるんですよね。


なお、ビジネスと哲学の結びつきでは、最近こんな記事がありました。
よろしければ合わせてどうぞ。


ーー

とかなんとか言うておりますが、まぁ僕も偉そうなことを言えた立場なんかではなくて、たかが知れてます笑
でも、知性と理性をフルに活かして、高等生物らしく生きていたいのですよね。

学ぶことも実践すべきことも、まだまだたくさんあるし、社会や周りの皆さんに還元していく、お返ししていく動きは全然足りていないどこまでやっても満足することはないのでしょう。

世の中は答えが出るほど単純明快にはできていないから。だから、長い思考を楽しみながら、答えにたどり着けないプロセスを味わいながら、思いもよらぬ糸口に驚きながら過ごしていきたい。

あわよくば、それを同じ様に感じ取れる人々と、面白みを共有しながら過ごしていければ素敵だなぁ、と思うのです。

なんてね。


ということで、お付き合いいただきありがとうございました。

お相手は わたくし
納木 まもる  でした。

次回も楽しんでもらえますように。

末尾ハンコ

<編集後記>
いやーしかし、ガチな方がおっしゃることは本当に面白いですね。
僕が自分を"中途半端だ"とは、度々言葉にしてきているんですけど、今回インタビューを受けている谷川さんのような方を見ると、ますます強く思います笑

ただ、"中途半端"と言ってしまうこともそれはそれで憚られる半端さもありまして、一定水準以上に何かを"持っている"と評価される立場であることも理解していたりもします。

念の為、誤解無きよう言及すると、僕が自分自身を"中途半端だ"とするのは、あくまでも僕が僕に対して求める基準に過ぎません。
「あなたが中途半端なら、わたしはどうなるの」と感じる方がいるのなら、僕は他人にこの基準を当てはめることはありませんので、上手く切り分けて捉えてもらえると嬉しいです。


僕が文中で表現したような"人々との関係性"を実現するにおいて、noteはかなりいい線いっているプラットフォームだと感じます。長い思考を回すにも向いていると思います。

一方で、自由度の高さゆえ、それと、かなりマス認知が高まってしまったことゆえに、参加している方々の価値観も利用方法も期待値もかなりの広がりが出ているのも事実だと感じています。
当然に、摩擦や行き違いも起きやすい状況になっているでしょう。

なんでこういう摩擦が起きるのか、なんでこんな想いをしなければいけないのか、心のどこかでモヤモヤすることもあれば、その根本を探求したくなるのもまた人の性なのだと。

でも、これもまた、単純明快なことではないのですよね、きっと
長い思考を回しながら、自分なりの軸足から仮説を複数立てて、どこかのタイミングで一本に繋がる時を待つ、というのも、このnoteという街を楽しむために必要な姿勢なのだろうかなぁ。
なんて思うのでした。

バズるも結構。共感も結構。それも楽しみ方の一つだし、
モヤつくのも、旅立ちたくなるのも、それもまた同時に生み出されるものなのだなぁ、とか。


あーあ、また真面目な文章を書いてしまった笑
何やら琴線に触れた感覚があり、つい熱くなってしまいました。知性と理性とはどこへいったのかw

ということで、最後に。
テーマにも合うかと思い、noteの街に腰を落ち着けるか迷っていた辺りで読んだ記事を置いておきます。この流れに逆らうためにも、僕は誰かに何かを伝える努力をしてみようと思ったのでした。





読んでいただいてありがとうございます。貴重な時間をいただいていることは自覚しつつ、窮屈にならない程度にやっていきます。