海と愛と私のなまえ
父は私の名前を海を見ながら考えたという、広く深く心を持って欲しい、どこまでも続く海のようにと、ぼんやりと海を見つめて決めたのだとか
私は自分の名前を凄く気に入っている、自分の名前が大好きだ。大好きで大切だから気安く呼ばれるのが好きではない。よく自分の名前が古臭くて好きじゃないとかキラキラネームで困っているなんて人もいるけれど私はその反対で自分の名前が大好きで大切で大事にしているから気の知れない距離感が遠い人に下の名前で馴れ馴れしく呼ばれると、とても嫌悪感を感じたりする。
父が海を見て名付けたという何かの繋がりがあるのか私は海が好きだ。泳ぐのはそんなに得意ではないし海に遊びに行くとかそういうこともしない。
でも父と同じように海を眺めるのが好きだ。
寄せては返すあの波と遠くまで続く終わりのない海、浅瀬で白く泡立つ海、眺めているとなんだかとても気持ちが軽くなる。そしていつも泣きそうになる。
広い、ただその広さだけに圧倒され感動してボーッと眺めるだけでただそれだけで安心する。悩んだ時は銭函の海を眺めに行ったりもしていた。
何かに逆らい続けることはない、抗うのではなく流れに任せていい時があるというと
反対に津波のように押し寄せる何かに対して必死に抵抗したり逃げてもいいということ
海底にはまだまだ知らない生き物が沢山いるという、研究者や学者すら知らない未知の世界がある。広く深くという言葉は魅力的だ。
そんな海を眺めるのが好きな私は今年を迎えてすぐのこと伊達市、虻田、洞爺と一日で巡る機会があった。
虻田の海は美しかった、これほどにも美しい景色があったのかと感動して目には少しばかりの涙が溜まった。身を切るような冷えきった寒さだった、そんなことを忘れてしばらくずっとずっと海を眺めた。太陽に照らされてキラキラと光る水面は一筋の光の通り道が出来ていて美しく波は形を変え抗うことなく揺られ続けていた。海を覗くと底が見えた、透き通った海の近くにはヒトデが落ちていたりウニの殻が落ちていたり漁に使う網が引っかかっていたり船が止まっていたりちょっとだけワクワクもした。
虻田での海を眺めた時、私は何故か不思議と愛情について考えたこと覚えている。愛情ってなんなんだろうと昔から考えていた。私は少しばかり欠落しているところがあるのか愛情が感じられないだとか薄いだとかドライだとかそんなようなことを言われることもある、自分でもなにか人を好きになることが分からなくて愛するとはなんなのか分からずきっと何か欠けているのだろうと思って生きてきた。
けれどどこまでも遠く遠くずっと続いている海の水面を見て気付いたのは愛情というのはただ誰か深く想う事ではないのか、と何となく思った。
愛情深いという言葉があるように慈愛という表現があるように大切に深く想い温めることなのだろうと
父が私に名付けたこの名も深い愛情を持つことを意味しているのではないか、人を愛する事の意味がわからないと考えていた私が海を見て愛するということは深く想うこと、と辿り着けたことでより一層、自分の名を愛しく大切に思えた瞬間だった。
これからもこの名を大切に、愛情をもって接してくれる人に沢山呼ばれ更に愛しく大事に思って生きていこうと、私は思う。
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