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【小説】自己忘却セミナー【80枚】
一
夕方五時の放送が響く。破(わ)れたスピーカーの音に続いて、夕焼け小焼けの曲が流れる。
「何だあの音は!」と男が撥ね上がった。
「何だって、五時だろ」
相手の男はちゃぶ台を挟んで答えた。こちらは心持鉤のある鼻を、スポーツ新聞に向けたままである。
「あの陰惨な音、五時だから何だというのだ。何故、おれに知らせる」
男は片手にボールペンを持ったまま藤木を見下ろす。ちゃぶ台には履歴書がのる。
「昨日だって、一昨日だって、毎日鳴ってるぜ」
藤木は引っくり返った正宗の瓶に目をつけた。ちゃぶ台にのった青磁の鉢には、うなぎの骨が二本ばかり残る。
「履歴書は書けたのか」と一升瓶から目を離して、障子に赤く滲む夕日の影に目をやりながら、履歴書を書く花房に声だけで聞いた。
「ああ、また間違えた!」
「酒を飲みながら履歴書なんて書いているからだろ」
「日曜の夕方にしらふで履歴書なんか書いていられるか。ああ! 今度は日付を間違えた」と花房はペンに力を込めた。
「鉛筆で下書きをせい」
「いや、ボールペンのせいで書き損なったわけではない。今日が何日かなどおれは知っている。わかっているが、この履歴書というペラ紙には思う様記せんのだ。あ!」
「今度は何だ」
「ポールペンが壊れた。ううん」と花房は大の字に仰向けになった。天井に目を向けている。
「今日もこうして履歴書を書いて一日を費やして。毎日毎日、日付が変わる他、一向変わらぬ履歴書を書いて、日が暮れて」と畳の上へ転がり返る。
花房は起き直って、履歴書を摑むと、片手で振り上げた。
「これは何の写経だ! おれが何の履歴だ。いつどこに所属していたかで何を知りたいんだ。自己ピーアールとは何だ。意味がわからん」
「自分はこういう者だから、こういう事をしたいんだって書けばいいんだよ。そもそも何をやりたいんだ」と藤木はスポーツ新聞を畳みながら向き直った。
「おれはサラリーマンになりたかったのだ」
「なんだか普通だな」と立ち上がって電燈の鍵を捩った。花房の部屋が箪笥の隅を残して明るくなった。
「そうだ、おれは普通になろう、なろう、としてきた」
「全然なってないけどな」
「おれはサラリーマンで、しかも総務部に入りたかった」
「いまどき総務ってもなあ。募集あるのか。うちの会社でも、総務の募集はこのところ聞かないからな。小児の頃に何になりたかったとかないのか」
「小学校教師が、将来なりたいものを画用紙に書いて来い、という宿題を出した事があった。おれはなりたくないものはあったが、なりたいものなどなかった」
「何になりたくなかったんだ」
「魚屋だ」
「そう言えばおまえの家、魚屋だったな」
「築地から魚を仕入れ、ある程度の利益を上乗せして客に渡していた」
「実家の商売を継ぎたくないというのはよく聞く話だけどな」
「魚屋には銀色に光る冷蔵庫があった。おれは歳の暮れになるたびに手伝わされ、番頭の命に随って、繰り返し巨大な冷蔵庫に入った。そして、冷凍鮪の臭い! ああ、おれは幾度嘔吐しそうになったか。店先に立つ魚売りからの沙汰があるまで冷蔵庫だ。いや、冷凍庫だったか」
「両方だろ」
「思い出せん。しかしその仕打ちがおれに魚屋との対立を決定付けたのだ。魚屋の向いには肉屋があった。魚屋と対立した幼きおれは、肉屋に憧れた。しかしそこにも冷蔵庫はあった。おれは見たのだ。あの銀色の巨大な冷蔵庫のなかに牛や豚が吊り下がっていたのを。おれは驚愕のあまり隣のおでん屋に行って、『何かふわふわしたものを』と頼んだほどた。見知らぬ親爺に話しかけられただけで、嘔吐したほどの神経の持ち主だった幼きおれは、獣肉屋にも入らなくなった」
「それで宿題は何を描いたんだ」
「セールスマンだ」
「セールスマンか」と藤木は聞き返した。
「いずれ一流の大学に行き、大企業のサラリーマンになるものと思い込んでいた。それより他に考えつかなかった」
「セールスマンじゃなかったのか」
「当時のおれは、サラリーマンとセールスマンの別がなかったのだ」
「商店街で育ったからな。見た事のあるサラリーマンがセールスマンだったんだろ」
「おれは民家の玄関先に立つ男を画用紙に写し出した。それを制したのが、魚屋(ととや)の番頭だ。おれの教育係を自認していた番頭は、『なにしてるの』とこうきた。おれが将来なりたいものを描くという宿題だから、セールスマンにしたと言えば、奇怪にも、『他になりたいものはないのか』といやな表情になって糾し始めた。サラリーマンになる事しか頭になかった幼きおれは、答えに窮して俯いてしまった。おれを黙らせて何をしたか」
「何をしたんだ」
「宇宙飛行士にさせたのだ。無残にも、セールスマンの背広は宇宙服に、民家は宇宙ステーションに塗り潰された。あの時の宿題にエックス線か赤外線でも当ててみるがいい。憔悴したセールスマンの姿が朧に浮かび上がってくるはずだ」
「そこが迷いの始りか。いまだに就職の希望もプログラマーだったり、事務員だったり闇雲だからな」
「おれは三浪した後、気の進まぬ三流大学に首席で入って、四流の成績で卒業し、経済学得業士となったが、卒業後はそのまま次の段階であるはずのサラリーマンになるものと思っていた。しかし就職がこれほど敷居の高い物とは思っていなかった。やがておれが面接に行こうとすれば、決まって仏間の鉦が連打される様になった」
「仏間なんてどこにあるんだ」
「当時はいわゆる実家いた。おれの家が魚屋だった頃だ。灰色の昔の事だ。しかしいわば居候に過ぎなかった」
「そうか。神仏に縋って、この三年の間にどこか受かったっけ」
「それが、いかなるからくりか、さっぱり受からぬ。受かりそうには見えるのだが、おれには抜けられぬ堅い関門があるらしいのだ」と花房は目を閉じた。
「三十近い男が、勤めに出た経験がないからなあ」
「承知の上だ。だが、もはや募集広告に記された『未経験歓迎』と言う会社は受け尽くした。『未経験歓迎』という事は、誰でもいい、従っておれでも構わぬという事ではないのか。不思議な事に、おれの入社を拒んだはずである会社が再び募集している。募集年齢を今度は二十七歳までとして、おれが応募できぬ様にしてまたもや広告している。そればかりではない。次の号を見れば、未経験歓迎に加え『簡単な仕事です。モデル月収三十万』などと汗をかきながら走る男が背広を着たイラスト入りだ」
「何でそこまで受からんのかな。おまえ、ちゃんと背広を着て行ったよな」
「無論だ。髪も梳かし、ひげも剃った。先週、床屋帰りに営業の仕事を受けに行った時な」
「無茶をするな」
「『当社は清潔感のある服務規程があります』と面接官が告げた。『当社は』ってのは何だ。表向きの事かと思ったが、清潔感などと言う事は感じだけ与えりゃいいんだろ。上面だ、上面。おれの方がよほど清潔だ。おれは潔癖症だぞ」
「上面が大事なんだよ」
「ネクタイとはなんだ。意味がわからん」
「意味がわからん物事はしなけりゃいいんだよ」
「おまえ、背広どれくらいの割で洗う。一月くらいか」
「いや、そうだな。一月って事はないな。何ヶ月かに一ぺん。あまり覚えていないな」と藤木は腕を組んだ。
「だろ、おれなどシャツもズボンも一日で洗うからな。排気ガスの臭いなどつけた事もない。シャツばかりじゃない。手袋だって毎日洗うし、鞄だって外でいやな事がありゃすぐ洗うからな。この間など洗濯槽に挟まって粉々になっていた。ゴムの焦げる臭いまでしていたぞ」
「まあ、身なりがちゃんとしてりゃ大丈夫なはずだが」
「先週もそうして占いの館に行ったのだ」
「道に迷って行ったのか」
「面接に決まっている。事務員を募っていたからな。金文字の看板を掲げた占いの館を訪ね、ある小部屋に通されたのだか、面接官が並んで腰かけている。数えたら数は五人だった。大人が五人がかりで何を見届ける気なのか。あまりの一方的な情況に吐きそうになりながら、人目につく席に坐った。最左翼に構えた面接官が眉間に皺を寄せて、『志望理由をお願いします』と世間に行き渡った言葉を使ってきたから、おれも面接の実用書通りに返した。つまり嘘を交えて答えたのだが、あろう事か、最左翼の面接官はその交ぜた嘘の部分ばかりに興味を示してくる。おれは次々と嘘から嘘を生み出し続け、面接官はおれの返答を悉くほじくり返してくる。――おれに質問する事をやめよ。自ら断定する物言いをするがいい。おれは志望動機のこの問答に頭がじりじりしてきた。やがてすべてが偽りの答を思いつく限りに作り上げていた。――これは面接ではなく、面詰ではないのか。よいから帰らせてくれないか。おもむろに、最右翼にいた面接官が、『ところで』と優しい含み声で口を開いた。おれが向き直ると、『お体は大丈夫ですか。お見受けしたところ、ねえ』続いて、『今まで、どんなご病気に罹られましたか』――これは一体何の小部屋か。おれは一体何の追及をされているのか」
「面接で体を労われてどうするんだ。そこは受かったのか」
「何も報告がない。連絡しますと言うから、今か今かと、今日か今日かと、毎日柱や床を艶布巾を二枚使って磨きながら待ったのだが。空約束果てしない」
「床を磨いてどうするんだ」
「働いたら忙しくなるだろ。今のうちにしておくべきだと思ってな」
「おまえは仮面の被り方が拙なすぎるんだよ」
「ん、なんだそれは。たとえか」と花房は膝を進めた。
「面接が苦手って事だ。素顔が隠れていないんだよ。スーツにしろ、違う人間に扮装しているわけだからな、本来。舞台だと思って、もっともらしいセリフを吐いてりゃいいんだよ」
「おれは俳優ではない。面接の忌まわしい点は、立場が対等でない事だ。どうして奴等は揃いも揃って、おれの事ばかり根掘り葉掘り聞いてくるのだ。ああも人目に付く様に席を設えておきながら」
「まあ、面接だからな。その場の権力所有の割合が違うだろ。九対一の割くらいで」
「あんな席はまづいだろ。『どうぞ』と促しておきながら、坐った先々で、『なぜですか』『どうしてそうしたんですか』知らん! 忘れ果てたわ! なんだって今更昔の事ばかり掘って聞いてくるのだ。異端糺問僧にでもなったつもりか。端から席など勧めず、どうせなら立たせたままでやってみろ。『どうぞ』という丁寧な言葉と次から始まる状況が合ってないだろ。過ぎ去って埋もれたものをどうして会議室で浮かび上がらせたがるのか」
「それが面接だろ」
「未経験歓迎というから出向けば、『これまで何をしていましたか』と実績を問うてくるから不思議だ。そう、『何でまたうちの会社を』と。何だ、アンケートか。感想を聞きたいのか。この間も、『将来何になりたいですか』だと。なんて事を聞くんだ! 知るものか!」
「そりゃ、経済学部出身の奴がプログラマーになろうとすれば聞いてくるだろう」
「なぜ奴等は、聞いてはいけない事を聞いてくるのだ。面接室と言う個室が奴等のたがを外すのか。そして面接室という舞台で、人の心を抉り出そうという忌まわしい残酷劇が始まるのだ。哀れな道化が、一方的に吟味されながら踊るのだ。面接官が、『花房さん』と呼ぶ。見知らぬ親爺に名を呼ばれる筋合いはない。どのみち、またと出会わないんだから、おれとおまえの間に名などいらぬわ」
「今迄、何社くらいに応募したんだ」
「二百五十社だ」と花房は打ち明けた。
「そりゃ社会のせいだな。行くべきは区の福祉課だろ」
「そんな所へ出向いたところで、働けと言われるだけだ」
「役人とおまえじゃ境涯がかけ離れているからな。理解の端にも至らんか。しかし普通、それだけ正面切って入ろうとして入れなければ、大抵横っちょから入るもんだがな」
「それもたとえか」
「知り合いの紹介とかだよ。叔父さんとか、古いよしみとか。コネだな。おまえ、コネなさそうだものなあ」
「おれは、正面入口しか知らぬ」
「入り口と言うか、今の情況の出口が先だろう」と藤木は、壁にかかる世界地図に目をやった。
「どこかに出口はないか」と花房は、胡坐の足を組み直す。
「何か身を助ける様な物があればいいんだろうが」
「ある。おれは菓子作りが得意なのだ。三日前も蕎麦饅頭を拵えた」
「ずいぶんしをらしい趣味だな。しかし、それを生かせんか」
「すでに試みた。先週の話だ。百貨店から割引券を束ねた小冊子が届いたたから出向いて、地下のパン屋に並んだ。前には壺を提げて犬を抱える者がいた。犬は棚に並んだロオズ色のパンに鼻先をつけていた。おれの後にはどうしてか人がつかない。婆さんが来て、『なんで並んでんですか』と聞いてきたから、『パンだ』と答えた。婆さんは並ばずに去った」
「パンだとしても、なんで並ぶかな」
「二時から名に負うパンが五十円引きとあったからな」
「わざわざ二時に行くか」
「百貨店に着いたのは十二時だ」
「二時まで何をしていたんだ」
「もちろん割引券を使っていた。二十円引きで納豆巻きを買った。『切りますか』と聞いてくるから、『当たり前だ』と答えた。その板前は両手で帽子を被り直すと、手を洗わずに納豆巻きを切りだした。並びでは、コロッケ売りが店を出していた。コロッケ屋の店先に爺さんがいた。行商人は少なくなったコロッケを前に出していた。爺さんは、開襟シャツの胸ポケットに割引券の束を差している」
「遊園地の客と同じ姿だな。チケット片手に廻って」
「『これ何』『カニクリームコロッケです』『ああそう。こっちはどんなの』『サンマルツィアーノ牛と言いまして、イタリアの牛(ぎゅう)を使ったコロッケになります』『ああねイタリアのね』爺さんは、手でコロッケの形を作って見せた。『じゃあこれ三つぐらいちょうだい』と勘定を済ませるのを待って、おれも割引券を用いた。コロッケをさして、『これ何が入ってんの』『牛肉とじゃか芋です』『じゃあ一つ』と注文した」
「納豆巻きだろ。どういう食い合わせだ」
「いや、食えたぞ。屋上に出る階段に居並んで、弁当を食う者の間を体を横にして抜け、屋上に出た」
「外で食ったのか。真夏の屋上だろ」
「立ったまま水を飲むサラリーマンが一人いた。何のために屋上で日を浴びているのかわからない。あるいは壺を提げた者が犬の綱を解いて屋上に放っていた。鳩が屋上の敷石を踏んでいた。おれは腰かけに坐って、納豆巻きとコロッケを食った。鳩が正面から歩いてくる。右を向けば右からも向かってくる。左に避ければ、左から来た」
「鳩も食いたくなったんだろうよ」
「鳩は何を見ているのかわからぬ目をして立っていたが、食い切ってしまえば、横を向いて日陰に向かった」
「おまえは日向にいたのか」
「日が高いところから射して、人の入るべき日陰がなかった。屋上に建つ時計が二時十分前を指したから、屋上を出た。両脇を水槽の並ぶ路に入れば、水族がガラスのなかに陳列されていた。おれは両棲動物の前で足を止めた。水槽に入った浮島に緑亀が山と積み上がって、下の亀が動く度に、水に雪崩落ちては、また積み直しに掛かる。隣の水槽では、腹の赤いイモリが同じく浮島に七段くらいに重なっていたが、こちらはまったく動かぬ。おれは地下に下りてパン売り場を目指した。パン屋は地下から百貨店に入る玄関の脇にあった。入り口では頭に布を巻いた婆さんがパン屋の列を見るや、魚の跳ねる如く人々の間を行き抜けて並んだ。出店からは、『はい、八百円のが五百円』『今から二枚で六百円でいいよ』『新じゃがだ。そんな値段で買えないよ。迷わないでよ』との轡(くつわ)虫(むし)の鳴く様な声を出して客を呼ぶ。入り口では爺さんが、百貨店に入ったなり、『何だこの地下は。どうなってるんだ』と叫んで、立ち止まった」
「百貨店の地下も混乱のけしきを見せているからなあ。遊園地みたいな曲が入り口から洩れ出ているし」
「おれの順番に到ったから、ガラスケースに納まったパンを人差し指で示し、『これ』と命じたのだが、『デニッシュドーナツですか』とはっきりと訊き返された。並びで誂えさせていた婆さんが目を向けた。おれの方に。おれがデニッシュドーナツを食う事など、何人にも知られたくなかった。おれのほかは売り子一人が承知すればいいのだ。『あとデニッシュドーナツね』と婆さんが付け加えた。おれは険呑さを感じて、『いや、やっぱりこれ』とケースの上に盛られた玄米パンを指差した。今度こそ売り子は躊躇わずに袋に入れると、袋を逆上がりさせて、口に封をしてよこした」
「仕事の話はどうなったんだ」
「パンの袋を提げて、地下道に出る角を曲がると掲示板を見かけた。張り出された『サンドイッチ製造 急募』という広告がおれに希望を与えた。急募というからには先着順のはずだ。ただちにそのチラシをひっぺがし、パン屋に踊り込んだ」
「玄米パン片手だからな。パン屋も喜んだだろう」
「パン屋の親方は、おれの身の上の事は問うてこずに、掌で額をこすりながらパン作りの話をしていた。おれは簡単な畳み椅子に坐って、間の抜けぬ様に相槌を打ってやった。聞きとれぬところもあったが、感想も質問も聞いてこなかった。最後に、『週に二日でも三日でもよい』と言った。おれは承知した。『一年も二年もやってくれ』と言った。おれは働きたくなくなってきた。『試用期間は二週間です』と言うからそれは何だと聞き返せば、形ばかりのものだと回答した。おれが知りたかったのは、そのうちならばこちらから止しても無事で済むのかという事だ」
「まあ、一応は受かったんだろ」
「あくる日からおれは全労働能力を注ぎ、サンドイッチを作った。まず、イギリスパンを四角い盥に敷き並べ、牛乳パックに入った卵液をかけた。次に辛子を塗った。また野菜を敷き伸べ、あるいは肉片を置いた。――この様な漫然とした食い物を拵えている第一歩は何であったのか。隣では、頭に白い手ぬぐいを巻いた男が人々に食わせるために鳥獣の肉片を火で焙っている。合点がゆかぬ事におれの背後で見ている女がある。何故、目を離さぬのだ。おれの後ろに限って口をへの字の逆さにしたまま見ている。おれはどんなに窮屈な思いで、イギリスパンに獣肉を重ねたであろう。しかし、おれはサンドイッチを作り上げた。おお、おれは仕事をなし終えた! 社会に出て働いたのだ! 後ろの監視人が時計を見ろと指図した。促されるまま、時計に眼を着けてしまったおれに、『時間のかかりすぎです』と歯の隙間から慳貪の一念を洩らして吐いたものだ。おお! 眼光豆粒より狭小な監視者よ! 時計など断然拒否すべき近代の病ではないか。作れと言ったり、急げと言ったり、時給八百円で要求が二つもあるのか。加えて帰り際、おれと時を違わず労働を終えた者が二人いた。一人はおれより七、八歳くらい年下らしい男で、別の一人はおれより十ばかり下に見えた女だ。裏に行って、細長い納戸で着替えた。女は奥でカーテンを引いて着替えている。男は着替え終わった。おれも着替え終わった。しかし、おれは帰れなかった。カーテンの奥に荷物を置いてあったからだ。おれは術なく突っ立って待った。どうしたか男も待っている。帰ろうとしない。なにやら顔を心持俯かせて苦い顔を渋くしている。不思議に喋らない。心が隔たったままでもお構いなしだ。おれであればこういう場合、後から入ってきた者に気を遣って話しかけるはずだが、だんまりだ。しかし何故帰らぬのか。女はまだ着替えている。三十分費やして出てきた。おれは荷を取りに奥へ入った。男と女がおれに構わず連れ立って、笑み戯れながら出て行った。帰りの挨拶も交わさずに」
「女を待っていただけか。昔の銭湯みたいだな。お互いに何で帰らないんだと思っていたんだろう」
「腑に落ちぬ物が心の裏に顫動を呼び起した様だった。はっきりしたのは、そのせいで時給が実質七百円になったという事だ」
「おまえが馴染んでいないのも、はっきりわかるが」
「次の日は、いわゆる遅番だ。勤務開始の十分前に着いて、着替えようと細長い部屋に向かったら『女子着替え中』という札に制された。遣る瀬なく立っていたら、十分ほどして三角巾にエプロンをした女が二人出て来た。『おはようございます』と挨拶したら、けったいな顔をした。おれは早速入って着替えたのだが、パン屋の親方に、『遅れるな』と言われた。遅れたわけではない」
「パン屋の親方の近視眼的な世界から見たら、遅刻ということなんだろ」
「その日から、くるみ色をした髪の少女が一人やってきた。いたく歓迎されている様に見えた。おまけに、『初日だからゆっくりやっていい』と容赦されている。おれの時にはなかったセリフだ。昨日以来の監視人は、おれの後ろで口をへの字にしたままおれだけを見ている。――この隷属関係は一体何か。おれはちぐはぐな心持に覆われながら、漫然としたサンドイッチを拵えた。ところに、『奥へ行け』と女が言った。おれは言われるまま店の奥へと急行した。そこには銀色に光る巨大な冷凍庫があった。何故パン屋にまで冷凍庫があるのだ! 鼻を冷凍鮪の臭いがつんざいた。沈んでいた記憶がよみがえる。あろう事か入れと命ずる。おお、また冷凍庫か! 外はこんなにぴかぴか光っているのに、なかはあんなにも暗黒が!」
「冷凍庫で辞めたのか」
「話はじつにこれからなのだ。その日の帰り、遅番で疲れ果てたおれは、百貨店の裏口の通行手形を店に忘れてしまった。店は閉まった以上、取りに戻れぬ。出口で他人の荷物を調べている守衛に、礼儀正しく伝えて帰ろうとしたのだが、取って来いと言う。この取り扱いはどうした事か。店が閉まって入れぬと言っても承知せずに、通せぬと言うのだ。ああ、パン屋から帰らしてもらえぬ! 出口はそこにあるのに通せん棒だ。おれは今年で何歳か! おれはどうにもできずにその場で立っていた。守衛といえば、おれの事などまったく知らぬ風で他人を立たせ、自分は坐ったまま検査を続けていた。おれはその日の労働を終えた人々からの好奇の目に晒された。胃から何かが競り上がってくる様だった。これが限界情況なのか。哲学概論で幾度聞いても判然としなかった情況なのか」
「いや、限界情況を作り出しているのは、その守衛じゃなくて、おまえだからな。選ぶべき行動から目を逸らして、一般的な妥協点を見出そうとしているおまえが」
「おれは堪らず、閉まった店へ徒労を承知で行く事にした。そうだ! またしても道化として踊らされるのだ! ひねこびた根性を満足させるために。おれは気を落ちつけて、『ならば、行って来るから荷物を見ていてくれ』と言い掛けるに被せて、『否、そんなものは見ておけない』と肩越しに打ち消したのだ。おお、遮断機のごとき守衛よ! 己を器械となす者よ! 汝はなにゆえ巡査に擬した身なりをしているのか。こうじた挙句、おれは嘔吐しそうになった。そこへパン屋の親方が袋の様なズボンを履いて、アルバイトの女と出てきたから吐かずに済んだ。親方が守衛に阻むのを止めよと言っていた間、女は眉間に皺を寄せながら、何故かおれから身を隠すかの様に親方の陰に立っていた」
「初日はどうしたんだ。何事もなく通れたんだろ」
「初日は社員通用口など知らず、早番だったから表から堂々と帰ったのだ。家に帰ったものの、こう踏みつけにされる様な検査が毎日あっては体が持たぬ。冷や水を浴びせる事以外に他人の扱いを知らぬのか。明日もあの守衛の前に立たされるのだ。なぜ出口を抜け様とするおれを待ち伏せするのか。おれは憲法も法律も東京都条例にも従っているのに、何故百貨店の裏口に発生した規則で懊悩せねばならないのだ」
「だからいやなら止めれば済むんだよ。かりそめの欲念と使命感がごた混ぜになった奴の言う事なんか、聞く必要ないだろ」
「使命感を消すために、奴等をジーパンとTシャツに替えてくれ。手ぶらの者を出口から通してやってくれ」と手を宙に泳がせる。
「誰に頼んでるんだ」
「それからパン屋の工房の壁から時計を下してくれ。社会に張りめぐらせた複雑な編み目をほどいてくれ。繰り返される習わしが沈殿してゆく場に、出口を求めて運動している魂を立たせないでくれ。ああ、明日はいかなる挙動で通ればよいのだ。明日も何としてもおれを見下すであろう。また一人だけ立たされるのだ。立ちながら物を言われるのだ。おれは脈が早くなり、体の内に慄(おのの)きが走りだした。頭がじりじりしてきたので、翌朝、親方に電話をする事にした。翌朝、親方の方から電話がかかってきた。『仕事が遅いので辞めてよい』おお、試用期間を利用された」
「おまえは、昔っからそういうのによく引っかかるよな。一人だけ教師に髪が長いから切れとか言われたり、クラスで一人だけ平常点がマイナスだったり」
「そう、おれの行く先行く先で、奴等は勝手に局地的規則を定めて、他人を罠にかけるのだ。おお、この虚妄の立法府! 口に出して人に押し付けんとする事の起源を示してみよ。健忘と隠蔽に頼らずに、権威の出所を現わしてから人を従わせんとするがいい。手順を抜いてはいけない」
「おれだったらその場で辞めて出てくるけどな」
「奴等は他人の一度の失敗を、その時の気分によって見逃さず、摑んだ上で高く掲げたり突き放したりして、わざわざ人前で晒し者にするのだ。おお、なぜ異常な熱を込めて人の鞄の口を開けさせるのか。そして鞄の底に何を期待するのか」
「どのみち、そういう意地腐れに当たったって事は、とっとと辞めるのがしぜんだな」
「あの日、おれがなりゆくままに情況を打ち捨てておけば、どうなったのだろうか。奴等は始終の事を頭に入れて物を言っているのか。おれはまだパンをこねていたかもしれん。しかしパン屋ではなく、かねてよりの志であるサラリーマンになるべきだ」
「まあ、まずは面接だな。そのうち受かるだろ」
藤木が起き上がると花房も立った。藤木は玄関へ。花房は茶を焙じる支度に二畳の台所に入り、ガス台に置きっぱなしの薬缶に水を汲み、湯を沸かした。
流し台の脇に置いたガラスのボウルに投げ入れてあった茶漉しを取ってマグカップにのせ、奥にある茶筒の蓋を開けて、筒をかたげた。薬缶に湯気が立ったから火から薬缶を下して、茶漉しからジャムの空壜に注ぐ。茶漉しを左手に薬缶を右手で持って、薬缶を傾ければ蓋の外れかかるのを、小指を伸ばしてつまみを抑え、茶をジャム壜に満たした。茶の入った壜の口をクレーンの様に摑み盆に載せ、、ちゃぶ台まで持って行き、一人胡坐をかいて履歴書を眺めている。
茶を啜って、残ったうなぎの骨を口に放り込んだ。
二
この章、みみそぎまんじゅうを参考に。
風立った空に月がさしのぼり、花房が電燈の灯った商店街を進んでいると、萬屋の店頭にジャムの入った瓶が積んであった。
壜に挟まれて三百円と値札が立つ。
花房が一本摑んで見れば、ラベルにはブルーベリージャムが八百八十グラム入って、エジプト産と記されていた。
エジプトと言えばナイル川であるから、きっとこのブルーベリーもナイル川のほとりに育ったに違いない。花房は店頭に立ったまま思いをめぐらし、『五円』と出されたガムの山を崩して底まであさる背広の親爺から離れ、ジャムのために金銭を払った。
アパートに戻って、『プレサーブスタイル』と印刷さたブルーベリージャムの壜を流しで洗って封を切った。宙を舞うシャボン玉程度にブルーベリーの実が浮かび上がっている。
割箸で掬って嘗めた花房には、果物よりもむしろ飴の味がした。
上面(うわつら)を過ぎれば、ブルーベリーの層は終いであった。
一週間かかって、ヨーグルトにつけて食いきってしまえば、ジャム壜は空になる。
花房は晩飯の後に壜を洗って、飾りのない寸胴の壜の口に茶漉しをはめ、茶の葉を入れ、ちゃぶ台にのせた。茶漉しの縁がちょうど壜の口に釣り合って、蓋の様になったところに、台所からたぎった薬缶を持って来て湯を差し、薬缶はガス台に戻した。
左手で茶漉しを上げ、右手で壜の口を手前に傾けて茶を啜った。傾けた壜を起して茶漉しをはめる。それを繰り返す。冷めてきたところで、ジョッキの様に飲み干した。
あくる月曜日、花房は、山掛け豆腐に風呂吹大根の夕食を済ませ、ちゃぶ台に置いた壜に湯気の吹き出る薬缶の湯を一度に注いだ。
壜のうちでは、熱湯が玉とほとばしった。硝子に罅の入る音が立って、一条の裂け目が壜の口から底まで雷の如く下りた。縦に入った筋から茶がカーテンの如く噴き出す。
花房はただ眺めていた。頭では片づくまでの段取りを数えていた。ポット一杯の茶は裂けたガラスの継ぎ目から流れ果てた。花房が持ち上げて、壜の胴と底が離れた。
ちゃぶ台にひろがって滴り落ちた茶は、下の半畳ほどの敷物に行きついた。
夜の空気を伝って、電車の枕木を揺らす音が、花房のアパートにまで流れてくる。
あくる火曜日、花房がちゃぶ台を背にして、部屋の隅に据え置いたテレビをつければ、午の天気予報が色のない空を映していた。
「雨は六時以頃降る見込みです。では、これからの雲の動きを見てみましょう」
テレビ画面には関東甲信越地方の地図が示され、十時十一時と時の進むのに合わせて、雨雲の近づく画面が映る。
画面の上では三時に東京の上に雨の振り出しを告げる水色がかかった。
「う、もしかしたら、雨の降るのは少し早まるかもしれません」とアナウンサーは一度歯を鳴らして、後ろにある画面に向って肩を引きながら報じた。
花房は洗濯機の電源を入れて水を張り、洗濯機の上に渡した板から洗剤の箱を下した。蓋を開けたらスプーンが見えなかったから、箱を傾けて粉の洗剤を洗濯機に流し込んだ。
洗濯機の脇に置いた籐籠から、寝巻や枕カバーを投げ込み、タオルと肌着と網に入れたスリッパを入れ、水に浸かる洗濯物を掌で押して水の深さを計った。手首の上までは水に浸ったから、ズボンを一本、裏返して加えた。
花房は流しに立ち、ご飯をのせた納豆パックを立ち食いで済ませると、割箸を曲げて流しの屑捨てに打ち遣った。二回目の濯ぎに合わせて、棚から柔軟剤を下して洗濯機の蓋を開け、定量の二倍を入れた。樹脂製の籠を持って風呂場のシャワーをかけて水を切り、洗濯機の前に置いた。洗濯機から電子音が鳴り、花房は灰じろの空の下、窓を開けて干し出した。
アパートの庭に鳩が下りて、栗の木の下で草の間を啄んでいる。
洗った黒のズボンの内側に、白い物が幾筋もついていた。他の服には見当たらない。顔を寄せて見れば、粉の洗剤である。内側とはいえ、裏に返して洗ったのであれば表である。風呂場に入ってはたいたが、落ちるけしきがない。空の洗濯機に戻した。
花房は洗った服を軒下に吊るした。竿を出して干し終えると、台所で巻き物になったキッチンペーパーを五枚繫がったまま外し、窓の手摺に被せておき、洗濯ハンガーの鎖にくわえさせてある洗濯ばさみで端を留め、洗った敷物を拡げて干した。スリッパは四角い洗濯ハンガーにのせた。
『さて、出掛けるか』と花房は考えたが、部屋のあちこちに目を配るうちに、考えていた事から離れてしまった。鳩が鳴き出した。
花房は箪笥の真鍮製の金物を打ったところにもたれかけておいた、物価新報という新聞を立ち読みして、それを畳んで柱の時計を見れば、二時二十分過ぎを指していた。
窓辺に向かい、Tシャツの脇の下を抓んだ。乾いている様でもあり、まだしけている様にも感ぜられた。
続いてTシャツの襟ぐりから手を入れて、脇の縫い目に触れた。目を瞑って集注した。どうやら乾いている、と自ら出した結論に頷いて、Tシャツをハンガーから外した。
Yシャツのボタン辺りから、虫がうごめいて落ちた。
虫は空中で翅を振るうと、浮き上がり、花房に向かって来た。
花房はのけぞった。起き直って、手をすぼめて甲虫を打ち落とそうとした。甲虫はそれをかわして、どうしても花房の肩に止まろうとする。花房は身をかわし、また息を吹き掛けたが、マスクをしていた。
花房は後ろに跳ねて、ストーブを倒しながら窓を開け、風の道を作ると、甲虫は窓から流れ出た。
花房はTシャツを箪笥にしまい、ストーブには洗剤を吹き掛けて、キッチンペーパーで拭いた。
続いてストーブを左手で提げ持ち、窓際に抱え上げて外へ向け、右手で上面のスイッチをひねった。底から突き出したスイッチを押せばストーブから風が吹いてくる。目に見えて塵も出てくる。
外からの風に押し流され、塵が部屋に舞いこむ。底のスイッチを離し、畳をキッチンペーパーで拭き、ついでに窓の下の壁も拭く。
今度は蛇口から空き瓶に水を注ぎ入れ、これを扉の抑えとして玄関扉を開け放し、サンダルをつま先で探って履き、ストーブをアパートの外廊下に向けた。底のスイッチを入れれば、黒く波打った埃が飛び出て落ちた。二分ほど風を出す。ストーブはコードを巻いて、押入にしまった。埃の塊を拾ってビニール袋に入れ、口を締めた。
窓を閉めに行けば、指の先ほどの甲虫が窓の下框に挟まっていた。
干支の楊枝入れが並ぶ箪笥の上からティッシュを一枚取ってくる。虫は端まで到って行き悩んでいる。
ティッシュを虫に被せた。虫は動きを止めた。花房は親指と人差し指で挟んで引き、ティッシュを丸めて窓の外へ出し、拡げて指で弾いた。虫は草の茂ったアパートの地面に下りる。
花房は窓を閉めると、縁のない貸間の古畳に右を下にして横になって、黒塗りの箪笥の傍に丸まるタオルケットを腹にまで引き寄せた。
敷物の裾が風にそよぐ窓の外のけしきを思いながら、仰向けに寝た。
アパートの庭では、雀が十羽ほども群がって舞い降りた。下りるや否や歩きだして、囀りながら草の間を啄み始めた。鳩はうろたえたけしきで、雀の間で頭を前後に振っている。
花房が目を覚まして頭をもたげたところに、樽を転がす様な音が轟いて、耳を傾けた途端に窓の外が閃いた。
花房はタオルケットを踏みぬくと、及び腰で窓に寄って、開ければ地面は乾いている。
雷は打ち続けに鳴る。
花房は流しで手を洗って来てから、手近に干してある手拭の端に触って見た。
手拭、靴下、Tシャツの類は生乾きになっていたものの、バスタオル、ズボン下などは何も乾いていない。
ハンガーを入れた際に、雨だれが一、二と手摺に落ちて弾けた。
ハンガーを部屋の隅の鴨居と鴨居に渡した竿に掛けて、針金ハンガーに掛かっていた寝巻は、敷きのべた蒲団の上に拡げた。枕カバーは洗濯ばさみ付の三角ハンガーから外し、竿に掛けた洗濯ハンガーに被せた。
スリッパは部屋の行李の幅に合わせて蓋にのせ、Yシャツは襟のところで玄関のドアノブに引っかけた。
半乾きの敷き物をちゃぶ台の下に敷く。
押入れから除湿機を持ち出して、ハンガーの下に据えた。
ハンガーの鎖にてんとう虫が止まっている。花房が気付いたところで、てんとう虫は翅を振るって浮き上がった。
浮いて再びハンガーへ潜り込んだ。
花房が手拭を捲ると、てんとう虫は靴下に止まっている。
花房はてんとう虫を靴下でくるみ、洗濯ばさみから引き外して窓へ出た。丸めた靴下を拡げて、人差し指で弾いた。
てんとう虫は羽を収めたまま、地面に置いてある朝顔用の鉢へ入り込んだ。
雨が落ちてきた。続いて雨が塊となって降り注ぎ、稲妻が走った。
テレビをつけて天気予報を映し出せば、「この雨、上空に雨雲がかかっているんですね」とアメダスを見ながら背広の男が報じたのに、花房は「当たり前だ」と呟いてテレビを切った。
除湿機の唸りに重なって、つぶてを打つ如き雨の音が屋根から響く。
半時ばかりして、射し込む日の光がタオルケットの端に落ちた頃、花房が起き出して窓を開けてみれば、地面には手摺の影が濃く描かれている。その上に雨が音もなくシャワーを撒くかの様に降っていた。花房は窓を半ば開けたまま、雨のそぼ降るけしきを眺めた。軒の連なりを見廻しても洗濯物を出している家はなかった。
テレビでは、お天気おねえさんの天気予報を映していた。
「今日、夜から夕立があるかもしれません。思いきって傘マークをつけちゃいました」
あくる日、空はところどころ蒼く抜けている。
花房は、手をかざして窓から路地に沿って走る電線の向こうを見上げて佇んだ。雲の合間から日が寄ってくる。
窓を閉めて、昨日洗えなかった服の他、手拭、腹巻、マスクを洗濯機に入れ、花房は午の天気予報を見た。
「千葉に雨雲が発生しています。昨日の雨雲がまだ関東地方に掛かっていまして、抜けるのは夕方になってからでしょう」
それから空は俄然として晴れた。
花房が仰ぎ見たところ、白い雲が蒼く澄んだ空を渡っている。
シャツは、天竺木綿の織物だから脱水を三十秒にして、太いハンガーに掛けた。今日は晴れているから、残りの物も脱水を掛けずに干す。絡み合う洗濯物をほぐしながら取り出して、空いた洗濯機に、毛布を入れる。
窓辺でバスタオルの短い辺の端と端を挟んで垂らす。しかしマスクや、靴下、手袋などを干すうちに洗濯バサミの悉くが塞がった。また洗濯が終った。
ズボン下を外して、別のズボン下と重ね、手拭、靴下を二枚三枚重ねて干す。マスクは、ゴム紐を洗濯ばさみに引っかけた。空いたところに毛布を畳み、折口を下にして、吊るした。
洗濯物を外しては干し、干しては外す。シャツをハンガーから外して七部袖のTシャツをを掛け、上にシャツを羽織らせ、黒いズボンの上にもシャツを掛けた。ハンカチを床に落とした。
プラスチック製のハンガーはたわんでいる。
花房が窓を閉めようとしたところ、路地を隔てた三軒向こうの二階家で、手摺に掛けた蒲団を叩き始めた。雲のふき晴れた空の下、花房は見上げたり、洗濯物に触れたり、三角ハンガーを差し上げ、左右に打ち振ったりしていたが、蒲団叩きは止まない。
蒲団を叩く音にのって、箒で掃く音が聞こえて来た。
見れば筋向うの横丁に建つ三階の屋上に男が立ち、箒で掃いている。昨日の雨にもかかわらず、砂埃が舞い上る。
花房はマスクをしていたが、埃臭く感じた。
ズボン下を二本外してはたく。窓下の籠に入れる。タオルを外してはたく。タオルから水飛沫が上がる。その度に見ても、男は変わらぬ姿で砂埃を風にのせて舞い上げている。
花房が籠に入れ終えれば、掃く音は収まった。男も消えていた。
花房は洗濯ハンガーを風呂場に持って行き、シャワーを掛けて洗うと、両手で縁を摑み、上下に振って水を切った。鴨居に掛けて、水を含んだ洗濯物を部屋の隅で干し直した。
日は子午線高度を過ぎて行く。
バスタオルやズボンの裾から水が滴り落ちる。
花房は台所からジャムの空壜を持って、雫を受けるところに据えた。
花房が起き上がったところで、プラスチック製の鎖の二本が切れて床になだれ落ちた。
蒲団叩きの音は止んでいた。
洗濯物は洗濯機に落とし込んだ。テレビでは明日の予報を知らせている。
「明日は晴れのち曇り。雨が降らない事もありません」
花房はラジオをつけたが、考えても仕事がないから寝た。
傾きかかった日を受けながら、花房はあかね色を帯びたタオルケットを掛けて眠る。
「明後日から梅雨前線そっくりの前線が近づいてきます」とつけっ放しのラジオから流れた。
三
「なんだ今の自転車は。いきなりおれの後ろを掠めて行きやがった。何で人に近づいて来るんだ」と言いながら、花房は扉を開けて食堂に入る。
「気にしないからだろ」藤木も続く。
「おれは驚くぞ」
「普通は驚かないんだろ」
「いらっしゃいませ。二名様ですか。お好きな席へどうぞ」と前掛け姿の親爺が挨拶をした。
「何、おれが選ぶのか。うむむ。どこにすべきか」と花房が頸を廻らして探り出そうとする。
「どこでも適当でいいんじゃないか」と後ろから藤木が急かした。
店内は窓側に二人相対して食事をする席が並び、四人の客が坐る。奥に丸テーブルが、手前に長テーブルが置かれている。
「うむむ、ここでいいか」
二人は入ったとっつきの席に着く。花房は長テーブルの端に坐った。
「ここでよかったかな」と花房は落ち着かぬけしきで店内を見回している。
「おれは構わんが、窓際の方がよかったんじゃないか」
「しかし窓際はまずい。人目につきすぎるし、隣のテーブルに客が来たら食った気がせん」
「ご注文はお決まりでしょうか」と給仕の女性が注文を取りに来た。
「自然カレーとハウスワインの白。ボトルで」と花房はメニューを手にして注文した。
「おれも自然カレーだな」
「自然カレーとは、選りすぐりの野菜が入った物らしいな」と花房はメニューを持ったままである。
「まあ、六百円だからな。何の事はないだろう」
「他は牛カレーに、豚カレーか。なぜ野菜だけ『自然』なんだ」
「他は家畜だからな」
「うむ、そうか」
店の親爺が客に水を運んできた。
「お冷いかがですか」
「結構です」と女性がコップの上を手で覆う。
「おれたちの席には水がないな」と花房が呟いた。
「そうだな」
「どうも、おれの扱いがよくない気がしてきた」
店の親爺は花房の話に気づき、小声で、「あの席注文取った」と給仕に聞く。
「はい」と給仕は頷いた。
「水持っていって」と耳打ちした。
給仕が水とスープと酒を載せた盆を持って来た。
「こちらランチのスープになります」とスープを置いて去る。
「今なんと言ったのだ」
「ランチのスープだとよ」と藤木はスープのカップを引き寄せた。
「しかし、水とスープと酒をいっぺんに持ってくるものか」
「水は忘れていたんだろ」
「そうか、まあ飲もう。これが水だな」
花房は蒼いガラスコップに入った水をぐいと飲む。
「なんだこれは」と噴き出した。
「どうした」
「ぬるい。仰天するほどぬるい水だ。飲んでみろ」
「そうか」
藤木もぐいと飲む。
「そうだな。日向に置いといた様な水だな」
「こんなぬるい水は滅多にないぞ。これは酒だな。なんだ。酒の方が冷えているではないか。どういうもてなしだ」
壁際の客が連れ立ち、レジへ向かう。花房の頭の上で店の親爺に家政の報告をしている。壁際の棚に並んだほうれん草を取り、前掛けの親爺に渡す。親爺は手提げ袋に入れて代金と引き換える。
これらを花房の頸の後ろでやりとりした。
「この席でよかったかな」と花房は、閉まりかかった扉を見詰めている。
「結果的には変わりゃせんよ。多少忙しないが」
給仕が花房の背をかする如く、後ろを行ったり来たりする。
「どうしておれはこう、おつな席を選ぶんだ。いや、それはともかくとして、なぜこんな所に席があるのだ」
「店の都合だろ。そのまんなかの丸テーブルにでも何でしなかったんだ」
「いや、二人で来たのに四人掛けのテーブルに坐るのは憚るだろ」
「妙なところで憚るな。好きに坐れってんだから、どこでもいいんだよ」
「ううん、どうもその辺の勘所がわからんのだ」
店内の照明が消えた。窓より差し込む日の光が床に影を作る。
「電気が消えたぞ」と花房が天井を見上げた。電気の球が、外からの光に淡く映し出されている。
「そうだな」
「店も空いたな。おれたちしかいない。まったくあの丸テーブルに坐るんだった」とテーブルを見る。
藤木は、半分になったワインの瓶を手ずからグラスに注ぐ。
「三時過ぎだからな。客も途切れる時間だろ」
「しかし、電気を消すか」
「他に客がいないからな」
「まだ食い始めてもいないぞ」
「そういう営業方針なんだろ。気に入らないなら、次から来なけりゃいいだけだ」
「どうしておれはこう、へんてこな所ばかりより分けて選ぶんだ」
「昔からそうだよな。わざわざ目に立つ席を選んでは、そわそわして」
「そうなんだよ。おれはよかれと思って選んでいるのに、数あるうちから居た堪れぬ所を選び抜くのだ」
「変な席って目立つだろ。目につく物を選んでいるだけじゃないのか」
「おれもいろいろと考えているはずだ」と花房はスープを飲み干した。
「この店だって、入った先から空いていただろ。混み合っていたとしても、昼を過ぎているんだから、空くって思いつきそうなものだがな」
「うむ。そこまで思いが廻らなかった」
給仕がカレーを運んで来て退く。
「なんだこれは」
「どうした」
「おまえのは福神漬けが山盛りで、おれのは三切れしかないぞ」
「欲しけりゃやるが」と藤木は、スプーンでカレーをひと混ぜして食い始める。
「いや、構うな。いや、腑に落ちない。うむむ」
二人、黙ってカレーを食う。二人のスプーンで皿を突く音のみが響く。
「人参もじゃが芋も玉葱も、でかいままだ。さぞ切るのが楽だろうな。うまいか」と花房は噛んだ人参を呑み込んでから聞いた。
「まあ食えるな」と藤木はカレーをかき回せた。
「おれもそうだ。ラー油かソースはないのか。これはなんだ。じゃが芋か。あっ、芋の芽があるぞ。すべて残っている。気をつけろ」
「こっちは芋がなかったぞ。人参ばかりだ。まあ、人参も似たもんだが」
「おれが選んだんだ。店も席もカレーも。それで水は後回し。席はレジ前。カレーは普通で、じゃが芋の芽がついたまま」と花房は目を瞑った。
「おれは選択肢があるところでは弱いのだ」とまた目を開いた。
「そうなのか」
「こんな、六百円もする自然カレーを誂(あつら)えさせたのはそのためだ」と花房はひと匙口に入れてはジャガイモを転がし、またひと匙口に入れては噛む間にスプーンで芽を取る。
「おまえ、どうしてこの店に入ったんだ」
「看板が出ていて、自然カレーが六百円だったから他と比べて価が手頃だし、二、三日、野菜と米を食っていなかったからな。その辺の忙しない店は落ち着かなさそうだし」
「全部外れているじゃないか」
「そうなんだ。看板を見た時は、こう思いのほかの事があるとは考えなかった。どうなっているのか」
「おまえ、先が読めないんだよ。今の有様を見て、先の行動を決めているんだ」
「おれは今を見ている。今を見て先々を決めているんだ」
「それよりか、自分以外の現在が動かないと思って決めているんだよ。外界が不定と考えないと言うか、他人が動かないと思ってるんだ」
「いや、しかし、うむむ」
「この席だって、坐った時は平気だったんだろ。後ろを通る奴もいないし」
「坐った直後に予感はしたのだ」
「カレーだって、値を基に決めたんだし」
「カレーが出てきた時には、『これは』と思った」
「うまい物だとか健康だとか一遍に思うからわからなくなるんだよ。どれか一つにしろ。一つにしてそれがよかったら満足してろ」
「おれはメニューだとか、買い物がよくわからなくてな」
「おまえ、買い溜めの日とか決めて、一日買出しに動いているからなあ」
「特売の日にまとめて買った方が得じゃないか」
「それで一日さまよってんだろ」
「昨日の夜も、新宿三丁目で降りて銀行に立ち寄って、伊勢丹に入って文房具屋に行ったのだ」
「平日の夜に、よくやるな」
「その後、自然食品の店に寄って、西口の方まで歩いてアイス屋行って、ルミネを通って電車で帰った」
「大荷物を抱えて電車に乗ったのか」
「いや、買ったのは貝と揚げ物だけだ」
「何をしに行ったんだ」
「一昨日からこう思い巡らせていたのだ。明日は新宿三丁目で降りて六時までに銀行に立ち寄って、文房具屋から伊勢丹に行って、自然食品の店で野菜を買って、アイスが月に一度の特売の日だからアイス屋で食べて、ルミネで牛乳買って帰ろうとしたんだ」
「伊勢丹には何を買いに行ったんだ」
「米だ。米を買おうかと思って行ったが、その場に立ったら買ってもいいものか、と訝しく思えてきてな」
「なんで伊勢丹で米を買うんだよ」
「この間、地下の食べ物売り場に行った時に『無農薬』とあったからな。そのうち買おうかと思っていた」
「思いつきを前々からの予定であったかの様に思っただけだろ。ありもしない選択肢を自ら作ってごたつかせているだけだ。しかも買わなかったんだろ」
「米を目の前にしたら買っていいものか、わからなくなってな」
「他の所も似た様なものか」
「自然食品の店では、野菜を買おうとしたのに、踏ん切りがつかなくなった。思い切って買うべきだったのか」
「思いを切って買わなくていいんだよ。おまえは」
「アイス屋に入れば躓くかの様に走る小児がアイス片手に席に向かって、若者に叱られていた」
「どういう所なんだ」
「小児は風船玉の様に小さくなっていた。席が二つしかなくてな。十人くらいが俯き加減でアイスを立ち食いしていた」
「おまえもそうしていたんだろ」
「おれは何をしていたのか。特売のアイスを命じたら、『そこにある紙に書いてよこせ』と言う意味の事を指図された」
「特売日は客が給仕も兼ねるんだな」
「『これはいけない』と思い返したんだが、自分を止められずに、客より一段高い場に立つ店員に渡してしまった。アイスを食ったところで、潤った気はしなかった」
「金を握って、わざわざ来てくれて、食い物と交換してやれば済むんだから『お客様』だな」
「それで時計を見れば六時だ。近くのデパートで閉店間際の特売をするまでまだ間があったが、百貨店に進んだ」
「おまえ、自分の都合で動いていないぞ」
「百貨店では『イタリア展』が催されていた。コック姿の白人が、『味見味見』と薬缶から白くて小さなコップに色の濃い液体を注いで、差し出したから、嘗めればチョコレートだった。またジーパンを履いた白人が、オリブ油を塗ったパンの並んだ盆を出す。あるいは髪を後ろで縛った白人の女が、『どうですか』と唐辛子入りのチョコを渡す」
「それ、うまいのか」
「辛いだけだった」
「西瓜に塩を掛けたり、あんこに塩を混ぜて甘さを引き立てるのとは違う様だな。イタリア人も、昨日今日、チョコレートに唐辛子を入れ始めたわけじゃないだろう。イタリア人には風味が引き立つと感じるのか」
「チョコレートに唐辛子を振った様な味だった。出入り口の手前では、大理石に鑿を振るっていた職人が顔を真っ赤にしていた」
「おまえは何か買ったのか」
「いや。黒い羅紗服を着た若い女が見ていたのが気になってな」と花房はワインをグラスに注いであおった。
「何だそれは」
「何だか知らぬが、獣肉の燻製を試し食いする十人ほどの群れを、反対側のショーケースを背に見ていた女がいてな。掌を肘に嵌めて腕を組んで。反省が急激に発達してくる様だった。惨めな気持ちを植え付けられる前に彼の地を去った。かくの如き感情の萌芽は一度芽生えてしまえば、他の感情で胡麻化そうとも失せやしないのだ」
「まあ、そうして、人の性質は形作られるんだよな」
「おれは性質の変化を恐れ、閉店セールに向った。思った通り、魚屋が特売をしていた。何が安いのかと人のたかるケースに行けば、『四つで千円』と言う。おれも入って、客に押しのけられつつも、『これにする』と始終価の話をする魚屋に手渡した」
「閉店間際に行けば、一言目から値段の話か。それで何を買ったんだ」
「貝だ」
「貝ばかり四つもか」
「いや、貝だけは浅利が三つに小柱が二つで五つだった。おれは貝を食いたかったからな。千円という値にはためらったが、買ってしまった。続いて、二列に並べと聞こえた方を見たら、多くの大人が芋天を買うために列をなしていた。おれも買いたかったが、並びたくはないからな。隣ではコロッケが百円均一になっていた。客が一人きりだったからおれも並んだ。先の客がコロッケ四つとクリームコロッケを二つ、二つと一つずつに分けて入れてくれと命じていた。夜の九時過ぎにおすそ分けだろうか」
「それはただ、今日食う分と明日の昼にでも食う分と、分けるのが面倒だから店員にやらせたんだ。袋は一緒でいいとか言っていただろ」
「そうだ。しかし、忙しい店員はそんなけったいな注文など、聞いた先から忘れたらしく、コロッケ四つとクリームコロッケ二つを、一つの箱に入れた。客は言い付けを繰り返し、やはり袋は一つでいいと言っていた」
「皆、タイムサービスだろうが、後ろに人が待っていようが、気ままにしているんだよ。おまえだったら思い付いても口に出さんだろう」
「そうなんだよ。先の客はコロッケ二つとクリームコロッケ一つを、紙の箱に入れてもらっていたんだが、おれの時はコロッケ二つと、鰯のフライ一本だったんだ。鰯のフライはさしわたし十五センチもあったか。男の店員が稲荷寿司でも入れそうな箱に詰めようと、コロッケ二つを入れ、鰯をコロッケの上に載せたが、蓋が閉まるはずもない。家に帰ったら鰯のコロッケになっていた」
「大きい箱に入れろって、注文つければ済んだ話だ」
「いや、言うべきかよくわからなくてな、後ろに並んでいたし」
「そもそも買わずに済む話だ。コロッケを買おう、安くコロッケを買おう、と頭を一杯にしちまうから。どうせ、五十円かそこらしか安くなっていないんだろ」
「コロッケは三十円引きで、鰯は五十円引きだ」
「変らないじゃないか。そもそも、コロッケは食いたかったのか」
「いや、安くなったから、食いたくなった」
「そりゃ、食いたくなったんじゃなくて、買いたくなったんだ。商売人に釣られているんだよ。閉店間際の特売ったって、一つの商法だろ。スーパーのチラシに『醤油先着百名限り』とあればその百人のうちの一人になりたがるものだ」
「おれは、余計な物ばかり買った。競り市に行ったわけではないのに。そもそも味噌を買いに行ったのだ。味噌売り場で手にしたのだが、思い切れなかった」
「大方、二十円でも引かれていたら、買っていたんだろうな」
「そうだ。本当は伊勢丹も文房具屋も銀行も寄りたくなかったんだ。実際、寄らずとも済んだんだ」
「自分では、細かに案じて動いているつもりかもしれないが、行動があてずっぽうに見えるぞ。平日の夜に、一人で新宿をたゆたって」
「おれは何を選んでも少々つつまれ気味になる」
「幻の選択肢を選んでいるからだろうな。平日の夜に新宿で下車する選択肢も、イタリア展に出かける選択肢も、コロッケを買う選択肢もおまえにはないんだよ。あるのはとっとと帰ってくるという行動だけだ」
「うむむ」
「選択肢を自分で勝手に作り出すから迷うんだよ。存在していない選択肢をあるかの様に思うのは、得をしたいという気分に惑わされているんだろうがな」
「おれは帰りの電車で思った。こんなに貝を買うべきだったのか。おれはアパートに帰って、冷えた上に潰れたコロッケと、鰯のフライを片づけた。じつはわかめも買ったのだ」
「それも値引きか。値引きセールは何か買わなきゃいけないっていう意味合いじゃないんだからな。発作を止めろ。安いのは店が決めた定価との比較であって、おまえの好みや用事とかかわりがないじゃないか。前、わかめは歯ごたえがないと決めつけていたのに」
「店に行くと、ひどく酔った様に抑えがきかなくなるんだ」
「思いを晴らすための行動しか頭になくなるんだよ」
「しかし、わかめがパックに山と詰め込まれていた。明日に残したら後悔も残る気がしてな。根こそぎ食おうとして、浅利に湯をかけて消毒して、春雨を茹でてわかめをのせた。それが丼一杯もあって、醤油をかけたがうまくなかった」
「そこで何故春雨か」
「米も蕎麦もうどんもスパゲティもなかったからな」
「主食を買う事以外の選択肢を作り出すな」
「とにかく食えたものではなかったが、気を取り直して冷蔵庫に一つだけ残っていた卵をかけて炒めてみた」
「食えたのか」
「だめだった。今は冷蔵庫にあるが、どうしたものか」
「目先の欲得というか、その場で突如発生した商売に手を出さない方がいいぞ。思い描いた結果を欲しがるから、限界情況になるんだよ。おまえみたいなのは、結果に向かって驀進するんじゃなくて、その時その場で、一番楽な行動をしてりゃ済みそうだかな。社会的なものも持っていないんだし。アイス屋だって、そのけったいな有様がいやなら、同じ行動するな。うつるぞ」と藤木は日の光を半分背で受けて水を飲んだ。
入日の斜掛けに射していた店内を、天井の明りが一斉に照らす。
「おお、電気がついたぞ」
「準備中が終わったんだろ」と藤木は空の皿にスプーンを入れた。
「おお、明かりでじゃが芋が見える。芽のついたままの窪みがまた一つ」
鈴の音とともに扉が開き、学生風の女性が二人連れで入って来た。
花房は二人に見入る。女性は四人掛けのテーブルに着く。
「あ、二人でも四人の席に坐ったぞ」と藤木に言う。
「好きな所に坐れってんだから坐りゃあいいんだよ」
「ここは従業員が空き時間に飯をかっこむべき所だ」
「おまえの席はな」
店内に音曲が流れ始めた。
「曲が始まったぞ」と頸を伸ばして廻らせた。
「夜の営業が開始したんだろ」
「しかし、どこか変だ。いちいち合点がゆかぬ。おれだって客なのに」
花房、スプーンで掬いきれぬルウを、スプーンの背で滑らせたじゃが芋の切り口で拭きとって食いきった。
「おまえ、言う割に汁一滴も残さないよな」
「もったいないだろ」
「最近じゃ、賞味期限前でも食い物を捨てる輩がいるらしいぜ」
「おれは捨てんぞ」
「しかも、残す残さないの話じゃなくて、賞味期限まで一年もありながら捨てるのもいるらしい」
「昔、うちの冷蔵庫にあったソーセージやサラミなど、賞味期限が一年以上前だった。もちろん食った」
「食ったのか」
「おれが食わなきゃ誰も片づけん」
「だから腹壊して保健室で寝てるんだよ」
「牛乳だって、なぜか買ってきた日が賞味期限だったからな」
「それ、スーパーで賞味期限が来たから半額にしてあった奴だろ」
「そういや、シールを剝した跡が毎度ついていた」
「半額、って貼ってあったんだな」
「それが、大抵三本買ってきた。飲むのはおれだけ。買い物も食事も、何故か魚屋のお手伝いさんがしていたが」
「賞味期限が切れてない物はあったのか」
「ううん、チーズからドレッシングまでみな切れていた。数カ月から年単位で。カレー粉は賞味期限の欄が黒マジックで消されていたし、油のラベルはそこだけ剝されていたからわからんが」
「切れているに決まってんだろ。おまえんち、改訂前の昔のパッケージとかあったもんな。そんなもん食って、腹が丈夫ならばいいんだが、おまえ、すぐ保健室行ってたし。気分が悪いって」
「小児の頃、腹を壊していたのは自家中毒になってしまったからだ」
「何だい、自家中毒ってのは」
「何かくたびれたり、気の塞ぐ事があった時、己の体の内に毒を作り出さずにはいられずに、嘔吐を催すのだ。嘔吐を感じながらおれはこの世界で育った」
「それでも、それだけでかくなりゃ、たいしたもんだ」
「そう、おれはでかくなった。吐きながらもぐんぐん伸びた」
「いや、吐くのはよ、腐ったもん食ったからだろ」
「違う違う、小児の頃の薬三昧は自家中毒だ」
「人の家の晩飯に難癖つけるわけじゃないが、昔おまえん家で食ったら、飯はいつの世に炊いたか知れない代物だったし」
「あれは家の方針で、米は三日くらいまとめて炊いて保温しておくんだ。商売人は忙しいからな。家で食うのはおれだけだったし。かつて、おれは修学旅行に行った。一週間後に帰って来て、保温中の炊飯器を開けたらば、修学旅行の出掛けに見たけしきと変わっていなかった。しゃもじで掬った穴がそのままに」
「それ食ったのか」
「その晩にオムライスとなって出てきた」
「やっぱり自家中毒じゃなくて、腐りかかった物を食べていたから体がせっせと外に出していたんだよ」
「別にまずくはなかったが、おれはビタミン剤を飲まねば、たちまち口内炎にかかっていた。近頃だな、ビタミン剤なしでも口内炎にならなくなったのは」
「体が吸収したくなかったんだろ。それを『体が弱いから』で片付けられて。まさか医者も腐ったもん食わされているとは思い到らないだろう」
「しかし、自家中毒は過ぎた話だ。現実は冷蔵庫だ。浅利とわかめをどうしよう。したたか食ったのに」
「マヨネーズはないのか」
「ない」
「浅利に合うのは味噌だが」
「今日は買わん」
「あと思いつくのはクラム・チャウダーだな」
「クラム・チャウダーか。牛乳はある。小麦粉はないが、じゃが芋はある。どうやって拵(こしら)えるのだ」
「料理はうといが、ブイヨンとかいるんじゃないか」
「ブイヨンか。三日前に鯛のあらならあったのだか」
「どうしておまえのうちに鯛のあらがあるんだ」
「閉店セールで、捻り鉢巻きを不粋にしめた魚屋が二百円のところを百円だと言ったからな。しかし、レジの男は濁りつつ光る眼で『二百円』と告げた。おれは即座に文化的身振りでもって、魚屋の言い値と違った旨を示したのだ」
「そこまでして買ってどうすんだ」
「煮付けにした。たちどころに腹を下したが」
「あくを取れよ。まあ、ブイヨンは浅利のだしでおまえには十分だろ」
「あと、醤油を入れたら味が整いそうだ。あと春雨も。まあ、作り方は、帰って広辞苑を開く事にする。よし、クラム・チャウダーを作ろう」と花房は立ち上がり、「勘定!」と両手を頭の上で交差して店の者を呼ぶ。
「レジでお願いします」と店の親爺は言い残して、レジに向かった。
「レジ!? 今さらレジも何もあるものか。店に来た時からおれはレジの前を離れていないぞ。勘定は別々で頼む。よし、おれは支払った。帰ってもいいのだな」
「とにかくおまえは要らぬ選択肢を作るなよ。好きにやれ」と藤木は、財布に釣り銭をしまう。
「おお、おれは選択肢を作るまいぞ。おれは選択肢がないところでは強いのだ。そして、今はクラム・チャウダーだ」と扉を開けて、そのまま走り出た。
「来週の日曜に行くからな! いろよ!」と藤木も店を出て、暮れ残る薄明かりに向かって商店街を走り去る花房に高声で伝えた。
「おお!」と花房は振り返らずに、手を挙げて応えた。
四
花房の部屋の片隅に杉の手拭掛けがある。
この手拭掛けは、飾り物のない花房の部屋にとっては床の間の用もなしていて、日毎、柄の入った手拭が掛けられる。梨や桃の柄の入った手拭は、この部屋のためには椿や山茶花の代わりとなっている。
今日は、南瓜を染め抜いた手拭が掛かってある。
その手拭掛けの脇に埃が溜まる。隅に寄って溜まらずに、手拭掛けからも壁からも間をあけて、溜まったというより、その場に発生している様に見える。
一日放っておけば、綿埃が出る。除けても同じ所に埃が生じ、楕円から始まり、菱形になったり、正方形に近くなったり、簀の様に隙間ができたかと思えば、小さい塊が合わさった様にと形を変えつつ大きくなる。
花房は一昨日、西瓜の手拭に替えた際に、塊を足の先で払ってみた。隅に遣ったはずが、昨日の夕に気付けば元の所にある。一回り大きくなった。
いつ元に戻るのかを確かめるために、再び足で払って、昨日寝る前に見るつもりで見なかった。
昼近くになって起き出して見れば、元の所にあったから、少なくとも十六時間以内には戻っている。
花房は、埃をつまんで台所にある屑籠に落とした。
部屋に戻って、腰高の箪笥の前に立った。拳を背骨近くの肉にあてて、捩じ込む様に揉む。手を肩に組み合わせては、頸をめぐらせて顎を高くそり返した。
顎を引くと、箪笥の上から仏和辞典を取り、埃の溜まる所に置いた。
口もとに満足した色を表すと、台所に入った。
流しの下の戸棚を開けてスパゲティを出して、また戻した。冷蔵庫からキャベツと卵を取り出し、キャベツをまな板の上で裏に返し、芯の根元に包丁を突き入れ、葉を一枚一枚外しては水で洗って鍋に入れた。卵も入れて茹でた。その間に冷蔵庫から出した玉葱を薄く切り、台所の床で西瓜とともに袋に入ったままの就職雑誌をめくる。
『餃子専門店 幹部募集 時給千円』
『十月一日韓国料理店オープン! 料理長募集』
『脱フリーター! 正社員 職種ティシュ配り 月給十八万上』などと求人広告が出ていたが、花房は見るべき物のないけしきで玄関の古新聞入れに積んだ。
台所に入って、湯気の立った卵をお玉に掬い、水を張ったボウルに落とす。流しの上の戸棚のつまみから吊った笊を取り、流しに置き、鍋のキャベツを笊に取った。
まな板で茹でた卵を叩く。殻のまわりにぐるりと罅を入れた卵を、揉む様に捻って殻を外した。
どんぶりに卵を入れ、箸箱から出したフォークの背で押し崩して、キャベツとともにマヨネーズと胡椒に、粒マスタードを加えてサラダにした。空いた鍋に塩とスパゲティを入れて、サラダの味見をしながら茹で、笊にあけて皿に盛った。
花房が、塩茹でスパゲティを作ろうと台所に立った時、台所の戸棚の時計は一時を示していた。今は二時十五分を差している。
花房は時計を見て、たまげた様な顔をした。
スパゲティを一本食った花房が冷蔵庫から卵を出して、まな板の上で叩いた拍子に殻が潰れて身が出た。
黄身と白身がまな板の上にのっている。
スプーンを両手に持って、白身を寄せる。寄せた先から広がっていく。花房は、黄身のみを掬って、塩茹でスパゲティにのせ、フォークでまぜ、蟹の塩漬けを添えて、胡椒と山葵をつけた。
残った白身が震えている。白身をスプーンで掻き寄せる度に白身はあらぬ方へ行く。行って、まな板からいざり落ちた。
「あっ」と花房は、短く言った。白身は階段を下りる様に床まで逃げて行った。
花房は玄関から持って来た新聞紙を拡げて包み込もうとした。また、ビニール袋を持ち出し、両手で引っ張り、白身と床の間に挿し入れて掬おうとした。
新聞紙は破れ、ビニールは白身を拡げ、床には卵ワックスが掛かった。花房は新聞紙を積み重ね、踏み潰した。
日が傾き出した頃、藤木が玄関を開けて花房を呼ぶ。
「いるかー」
花房はちゃぶ台の向こうに、冷えたスパゲティを食っている。
「何だ飯か」
「すぐに済む」と箸を二度上げ下げしただけで、残りを口に入れてしまう。
藤木は上がり込むと、
「落花生を買ってきたぞ」とちゃぶ台に新聞とともに置いた。
「そうか。落花生は好物だ」
「徳用袋だからな。腰を据えて山と食え」とちゃぶ台を前にして胡坐をかき、袋の口を開ける。
「徳用か。いくらしたんだ」と花房も胡坐をかく。
「四百円だったかな。剝いた殻はどうする」
「徳用じゃないのはいくらなんだ。このティシュの箱が空いている」と花房は、箱の上面を排して、口を拡げた。
「ええと、二百いくらだったかな。これの半分で」
「そうか。なら儲けだな」
「おまえは普段一人で食うのなら、普通のにしとけ」
「ん、何故だ」
「徳用ったって、いったん食い始めたら、食いきっちまうだろ。あれば食う。あるから食う。落花生は手が休まらないからな。剝いては口に入れる。小袋にしておけば、食ってもそれきり。得するためには、薬の如く分量を計って食わねばならないぜ。一度で小袋以上食っちまうだろ。実際は」
「うむ。そうか」
「そういや、わかめは食えたのか」
「キャベツの芯と、人参が手に入ったから、刻んでもろとも油炒めにした」
「何味にしたんだ」
「何も入れない。ただの油炒めだ」
「うまかったか」
「飯を食べ、油炒めを口に入れる。二、三度繰り返すうちに、吐き気がしてきた。嘔吐感を紛らせるために思い付いて、唐辛子を振りかけたらば食える物になった」
「調味料がないくせに香辛料はあるのか」
「味噌醤油の類は控えんと、物の味がわからんだろ」
「しかし味気ないだろう」
「おれが言ったのは、人参なら人参の味と言う事だ」
「人参の状態を味わうのか。しかし料理だからな、味わいも見ないとな」
「薬味で整うぞ。香辛料は絶対だ。山葵を蕎麦つゆにとくのでも、辛い限りまで入れて、むしろ山葵を味わう。唐辛子胡椒の類も、かけられるものなら大抵掛ける。生姜やマスタードの類もあるにこした事はない。食べられないのは、茗荷とらっきょうくらいなものだ」
「食べ物は、元は生きたり生えたりしている生物だからな。それを食う方の都合で食べ物と呼ぶわけだ。まあ、おまえの場合、生物の何か、気みたいな物を消すために薬味が要るんだろう。自家中毒だし」
「薬味や香辛料は、生物を食い物として整えるものだ。昨日はじゃが芋を茹でて食ったら、やはり気持が悪くなった。胡椒とラー油をかけたら食えた。その後、チョコレートを齧って吐き気も収まった」
「カカオは元々薬というからな。おまえの体にも合っているんだろう。今日は買い物には行かないのか」とスポーツ新聞を拡げた。
「冷蔵庫に蒟蒻がある。そうすると、今日は蒟蒻とお麩の味噌汁になるのだな」
「そんなみそ汁は聞いた事がないが、味噌は買えたんだな」
「昨日、夕暮れの商店街を駆け抜けていたら、八百屋の店先に味噌が置いてあった。百円と書いてある札に引き止められる様に止まって、店先の客の間を潜って買ってきた」
「味噌が見つかってよかったな。必要な物は、遠くを探さずとも身近に置いてある物だ。就職口の方は見つかったか」
「木曜から働き始めて、二日で辞めた。まったく奇怪な所だった!」
「なんだ、一昨日まで働いていたのか。受かったんだな」
「面接は簡単だった。会社の裏口に置かれたベンチで行われた」
「会社に入れてもらえよ」
「面接室よりましだ。二色のズボンを履いた面接官が『…と言う感じですが、どうでしょうか。来ていただけるのでしたら、明日からでも』と言うから承知した。面接官が黄緑色の封筒からタイムカードを出しておれに渡した。『置き場所もないんで。あと、土曜に当番で電話番もありますから』と言う。おれは受取って、『明日は、八時半をめがけて出社すればいいのか』と聞いたら、『八時半。私は来てます』と答えた」
「会社なんだよな」
「背広の男は、『準社員として』と付け加えた」
「何だそれは」
「すぐにおれは知った。待遇の上はアルバイト扱いで、かつ残業代が出ぬ者を、そこでは準社員と呼ぶらしいのだ。もっともおれは承知した。走り書きで入社日と出社時間を写し取って、あくる日、背広を着て出社した。だが、出勤登録器の口にタイムカードを差し込んだところで、『まだ席がないから、地下に行って』と口を四角くして歯を見せる人事部長に言われた。地下! 地の下か! おれは晴れた朝に薄暗いアパートを出て、明るい太陽の下を前進したのだ。ああ、自己紹介をどうしようと案じながらも、心愉快に社会に出たのだ。それなのに、紹介も済まぬうちに地の下に押し込めようというのか、この人事部長は。しかしおれは屈せずに階段を降りて地下へ向かった。そこには灯火の下に一人、ざんばら髪の男が、木の机の上で葉書を前後左右に分けていた。おれはその時直感した。この者はここに住んでいるに違いないと。おれには想像ができぬ。この男が定期券を片手に電車に乗るところなど。『よろしくお願いします』おれは挨拶した。男は言った。『そうですね』と。そうですね? 男の物言いは未知のものだった。従っておれはそれ以上何も言えなかった」
「何だそこは。何の仕事をしたんだ」
「その日は背広を着たまま、会社に附物の男と葉書の分別に終始した」
「背広の意味はあるのか」
「きれいな絵を掛けるべき壁には『今日は営業推進日売るぞ!』『今年こそは自信を持とう』と暗怪な張り紙がしてあった。裸電球一つ、地下室での葉書整理。あれは何か。労働を愉快にしようとするためのものが見当たらぬ。何事がずれての有様なのか。わかりそうでわからぬ。まったくいやで仕方がない。それはあきらかにわかる。だかその他にこの有様を分析すべき質問がわからない。質問がわからないものに答の出ようはずもないのだ。気が腐りそうだったが、あくる日もおれは出社した。何事か、地下室のまんなかに額の狭い中年の男が立っている。おお、こちらを見ているではないか。おれは吐きそうになりながら、朝の挨拶を窓のない地下室でしたのだが、たちまち『声が小さい』と叱りつけられた。このサラリーマンは、何故わざわざ地下室に立ち、これから事を始めようとする存在の前に、躓き石を置くのであるか。おお、なぜ暗い敵意のある目で朝の涼しき心を抱く他人を見るのか。そして昼飯になぜ誰も誘って来ぬのだ。おれは昼過ぎには仇光のする椅子の上でいつ辞めようか、それをいつ言おうかと悶えていたら、五時だ。次の日から来なくてよいと言われて帰った」
「何だか変った所ばかり行くな」
「二日の間、返事以外に何も話さなかった。おれは所属できなかった。日は一日一日と過ぎていく。おれが世間から何を得たのか。原因を悟らせよ。判断基準が向こう側にある。世のなかのそこかしこで絶え間なく誘うから、おれは徒な活動に駆り立てられるのだ。気に入ったから受け入れたのではないのか。おれは毒餌を食む魚ではないのだ。――そういや、一昨日、職業案内所に行ってみた」
「仕事はあったのか」
「『一度検査を受けてみてはいかがですか』と言われた」
「検査ってなんだ」
「職業適性検査だ」
「ああ。おまえに向いている職なんかあるのか」
「おれは検査を受けた。頭の毛を馬の尻尾にした役人がおれを心理検査に掛けた後、『検査結果が出ました』と紙を拡げた。人差し指を紙の上に置いて、『エーと、この組み合わせですから』とあらゆる職業が記された表の上を、人差し指で引いていたが、『おかしいですねえ』と弱った顔つきをして、指は表の端に行き着いた。そして、『あれえ、ありませんね』とその女官は快闊に言い放ったのだ。『あの、向いている職がないんですけど』と顔を上げておれに告知してきた」
「何だ、ないって、そんな事あるのか」
「扱いに窮したらしく、係は眼鏡の上司を連れてきた。『この度はどうも』と、敏速に腰を屈めてその男は話し始めた。ここでも門前払いが進行しだした。『お客様の性分といいますか、お持ちのご性格といいますものは、事務的な仕事をしたがっていながら、限りなく芸術的な嗜好を持たれていらっしゃるようですので、当方と致しましては、そういう方は想定していないものですので、一口に申しますと…』などと役人は金のカフスボタンから出した手を組み合わせながら、目金はブランコのように鼻を離れ、いや、役人の描写はいいのだ。おれは記録係ではない」
「思い出したが、高校の時の職業適性検査で『その他』になっていたな。あれは本当だったわけだ」
「その他! 世間はおれをその他としてしか扱わぬ。用意された席がないという意味合いだ」
「職安までが持てあましたか。おまえの場合は、受かる受からないは、面接した奴が、おまえの事を気に入るか気に入らないかだけだろうな。しかし、おまえには親の遺産があるじゃないか。まあ、自分の好みをわきまえて探すんだな」
「おれは遺産には頼らんぞ。番頭に魚商(ぎょしょう)の株を譲ってやった金も信託銀行に預けたきりだ」
「おまえ、そういうところだけ普通だよな」
「おれは一切合切普通だ」
「信託銀行って、何に投資してるんだ」
「知らん。株式紳士との間で、飽く事を知らぬ株券のとりやりでもしている事だろう。始め、信託を命じに銀行に行ったら、『口座は何かの担保にしないですよね』などと言われた。何の事やら知らずに、『しない』と答えたが、次第によほど無礼な事を言われた気がして来て、耳の根が熱くなってきた。おれは新たな興奮を経験して、話を切って立ちあがった。『止める』と告げたら、奥で事務机に構えて居ていたセーターの親爺が、上着を着直しながらカウンター机に現れた。おれは立ったまま話を聞いていたが、『部下の届きませぬは、私の落度』とカウンター机に頭をめり込ませたから信託させてやった。しかしそれっきりだ。どのみち、おれは金銀の上をもっぱらとして世を過ごすつもりなどない。渡世の品はおれの稼ぎによって手に入れねばならぬ」
「それもまた分相応かもな」
「おれは社会の成員となって働くのだ。来週は履歴書書き方セミナーに参加する事となった」
「今書けばいいだろ」
「わからん。空白だらけの人生だ。しかし新参者として会社に入るには必要だ」と窓に目を遣る。
窓の外が暗くなったけしきに眉をあつめた。
「あっ、夜になったのだな。ちょっと洗濯入れてくる」と言って、花房は籠を取りに風呂場へ向った。
「そろそろ入れといた方がいいかもな。夜から降るって言っていたし」
籠を持ちながら窓辺へ向かった。
「難しい物だな」
「何がだ。洗濯か」
「新参者になると言う事がだ」と言いながら窓を開け、手摺の下を見た。
花房の視線は手摺を伝って、雨の弾けた跡で止まった。
「ああ、まただ! また雨とくる! そんなにおれの服を濡らしたいのか」
「降っていたか」と藤木は、胸のあたりでスポーツ新聞を畳む。
「毎回こうだ。天気予報が何であろうと、毎日曇りのち雨だ。そしておれが気づかぬ間に、音もなく降る!」
「三十分くらい降っていたようだな」と藤木は窓の向こうに目を遣った。
花房は籠を置いて、組紐で吊った四角いハンガーを畳み、方っ端から洗濯物を三角ハンガーごと取っては、籠に入れていく。
「今日は予報通りの曇りのち雨だ」
「当たったな」
花房はセーターを裏返して袖を首から出した。戻して裏返したら、一方の袖は裾から出たが、今一方は襟ぐりから出た。
「裏返しているのか、表に返しているのだかわからん!」と喚いて籠に投げ入れた。
「昨日は一週間前の月曜日の予報で、晴れと言っていた。それが一日一日と晴れ時々曇、曇りのち晴れ、一昨日まで曇り時々晴れの予報だった。おれは洗濯がうまく行くと心ときめかせていた。ところが昨日になってみれば予報は一日じゅう曇りで、そのじつ、昼過ぎまで雨で、のち曇。雨が上がってから干したが、乾かなかった。一昨日は一時間を費やして干した後で雨だ。おれは慌てて取り込んだ。部屋に干し終えたら、からりと晴れたのだ。その前は月、火、水、と三日続けて曇り一時雨の予報で、実際は曇り時々滝の如き雨だ」
花房は籠を持ち上げるや、右足のつま先に力を入れて籠を持ったまま体を後ろへ開いて、洗濯籠を滑らせた。倒れた籠から崩れ出た洗濯物を見下ろしている。開けた窓から栗の花がひとつ散りこんだ。
「拾わなくていいのか」藤木が聞いた。
「いやだ! おれは拾わんぞ。こんなものは嘘だ。何もかも嘘っぱちだ。曇りのち雨の予報で朝の八時から雨とは何事だ!」と窓を閉めて拳を握った。
「落ち着け」と藤木は立って、釣鐘型の電燈のスイッチをひねってから洗濯物を拾って籠に入れた。
「洗濯物を干せそうな空模様にして、そうしておれを誘っていたずらな運動に駆り立てる。昨日は? よし、おれの一日について語ろう。いつ頃か目を覚ましたおれは、体を起こして蒲団を抜け出た。朝食は海苔飯だった。その後は洗濯だ。雨が止むのを待ってハンガーを一つ拡げ、二つ拡げ、洗濯を干した。ズボンの裾から丸まった水色の物が落ちた」
「水色の物ってなんだ」
「靴下だ。続いて乾き具合を確かめては洗濯物の位置を変えた。ちゃぶ台と窓辺を十二往復して、最後の腹巻を取り込んだ。そして五時になり、あの陰惨な音が流れてきた。おお! 洗濯にかまけて一日が暮れてしまったではないか。何だ、この一日は!」
花房は洗濯物を部屋に干し始めた。パイプハンガーを伸ばして、ズボンやシャツを掛けている。バスタオルを伸ばしてパイプハンガーに被せる。靴下は、ハンガーの底の網の部分に敷き並べた。
「今着ているそのシャツはアイロンを掛けてんのか」と藤木が聞いた。
「いや」と花房は、パイプハンガーに洗濯物を掛けている。
「それにしちゃ、皺がよってないな」
「柔軟材を使ったからな」
「おまえ、サラリーマンに向いていないんじゃないか」と藤木が結論付けた。
「そんな事はない。ほかの連中は働いて稼いでいるじゃないか。だからおれも働いて稼ぐのだ。就職運動を続けねばならない。止めるわけにはいかないのだ」
「サラリーマンに何を求めているか知らんが、おまえ、とてもサラリーマンには見えないぜ。たとえば、昼休みにサラリーマンがぞろぞろと歩いているだろ。丸の内なんかで。あの群れにおまえが交じっていたら、異様な感じがしないか。会議室にサラリーマンと並んでいる。背広着て机に坐って会社にいる。何者なんだ」
「そう言われればそういう気もするが。しかし」と壁にかけた暦を見ている。
「面接の予定でもあるのか」
「いや、洗濯の予定を立てているのだ」
「サラリーマンはカレンダーに洗濯の予定を書き込まないだろ」
「おれは二、三日先まで考えて洗濯をしているのだ」
「サラリーマンとは考えの方向性が違ってるからな。たぶん面接する方も、ともに仕事をする事が想像できないんじゃないか。おまえと。そもそも扱いづらそうだし」
「それだ! おれは奴等の仲間に見えぬのだ。鼻利きの面接官は、自分の仲間を探していたのだ。仲間募集と書いておけばよいものを。えい! まったく面接室に入って名を名乗ったおれに、『え?』とは何だ。この面接官め。言葉まで通じないのか。そしてまたしても大きな扉の冷蔵庫!」
「ありがちなパターンで『自分探し』をしていて、サラリーマンにはならずに、フリーターっていうのはあるがな」
「おれは小児の頃からサラリーマンになりたかったのだ。正確な意味は知らんが、『自分探し』などという、迷路の如き言葉は頭に入れても負い目になるだけだ。大学だって別に遊んだ覚えなどないし、四年間で卒業した。資格も取った。まず、コンピューターの資格を取った。会社の支えになると思ったからだ」
「どこもとってくれなかっただろ」
「そうなんだ。徒労に過ぎなかった」
「おまえは、不足して入れないんじゃなくて、何か余計なものがあって会社に入れないんだろうよ」
「努めてとった資格なのに、面接で話題にすら上らなかった。それならば少し難しいものを取ったら入れるだろうと、行政書士を取った」
「一時ブームみたくなっていたな」
「そうだ、『今年は受験生が急増』とチラシに書いてあった。しかし、おれは受かった。それでまあ、会社に入れてくれるだろうと思った」
「おまえ、会社に入る事しか頭にないからなあ。とる方はとった後の事を考えているから。高校大学だって入る事しか頭にないから、入った後で成績が下がるんだよ。行政書士でも入れてくれなかっただろ」
「面接で『大学を出て、行政書士まで取ってふらふらしてちゃ勿体ないな。どこか大きい事務所に入って、お客さん少し分けてもらえば』と勧められただけだった。おれは慎ましく会社に入ろうと思っただけなのに。独立して事務所を構えるとか、法律家の講師として予備校で教えるとか、大それた事は頭になかった。ただサラリーマンになりたかっただけだ」
「近頃の者とは逆だな。皆『自分らしく』とか言ってるしな。どのみち、自分の本来性なんて、四十五十にならなきゃわからんだろうがな」
「おれは、普通に普通にしようとしていた」
「それがかえって怪しまれるんじゃないのか。おまえ背広着ても、仮装みたいだもんな。就職したいって、何の冗談かと思うぞ。何か企んでいるんじゃないかって」
「おれだって行動してみたのだが、その結果がこれだ」と花房は履歴書をかざした。
「まともに書けるのは学歴だけだ。職歴なぞ書こうにも書き様がない」
「おまえは履歴書に頼って進もうとするな。何で普通になりたがるのかがわからん。背広着て革靴履いたって、だめだ。全然違うんだよ」
「おお、それだのに、おれは、こんな、紙を、毎日、書いて、電話して。こんなもの、こんなもの!」と吐きつけながら履歴書を破る。窓に向かって擲った紙吹雪が畳に降りかかる。
「おまえはどこへ行こうが同じだと思うぞ。サラリーマンの選択肢はないんだよ。仲間入りは諦めるんだな。サラリーマンになりたがってる事自体がよくわからん」
「おれはとにかく魚屋だけにはなりたくなかった」
「おとなしく、魚屋の若旦那株で世を送っていりゃあな」
「うう、頭がぢりぢりする」と頭を揉みながらさすっている。
「もしかして適性とか何も考えずに、漠然と金を稼ぐ手段としてサラリーマンを選んだんじゃないのか」
「うう、サラリーマンは誰でもなれるものと思っていた」
「あれだって、適性があるんだぜ」
「知らなかった。今知った」
「サラリーマンの真似は出来ても、サラリーマンになれる性質とは思えんが。道化が何かの真似は出来ても、その物にはなれないのと同じだ。それでも普通、まわりが考えてやりそうなものだが。ああ、でもおまえを導ける奴なんていないか」
「小児の頃は『勉強しろ』、大人になれば『働け』しか言われなかった」
「しかし、従えなかったからな」
「そうなのだ。おれは従えなかった。ああ、おれは金を稼ごうとしてどれほど浪費したのだ! この間ブータンの首相が来朝して、『GNPを上げても幸せにならなかった』と言って帰った。何をしに来たのだろうか」と首をかしげる。
「とりあえず求人誌のなかにはおまえの道はなさそうだ。後悔する様な境涯でもないだろ。明日は早く起きて散歩でもしたらどうだ。天気予報も、『これから来週まで、毎日の様に晴れるでしょう』と言っていたぜ。日に当たった空気がおまえには要るだろうよ」
藤木とともに玄関から風が吹き込む。ちゃぶ台の下が風の通り道になる。風は茶箪笥の裏を渡り、障子を膨らませて抜けようとする。花房が立ち上がる。
「そうだ、おれは外に出るのだ! いよいよ明るい所を歩むのだ! おお、出口出口」
昨日の月が高い空の端に薄く残り、散歩に都合好く晴れた公園を花房が歩いてくる。花房の頭の上を覆う立木の梢には、瑠璃色の空に、雲雀がさえずる。揚羽蝶が花房の歩みとともに舞う。時折、羽を止めては低いところを滑空している。揚羽蝶の先達をしていた蜆蝶が舞い上がった。
「おお、何という上天気か。おれは外に出た。おれは今、日向を歩いている。おお、おれは脱出したのだ!」と凱歌を奏さんばかりに踊りながら歩いている。
花房の行く手にベンチがあり、大型犬が飼い主の女性の足下に寝ていた。
「むむ、でかい犬がいるな。犬は恐ろしい。しかし、飼い主も心優しそうだし、犬も寝ている。おれは脱け出したのだ、何を恐れようか」
臥していた犬が耳を立て、首をもたげるや跳ね上がり、花房に吠え付く。
花房は叫びながら、ただちに逃げ出した。
「出口を前にして、この土壇場でこのからくりか! おお! 犬の鎖が長すぎる! おれはどこまで逃げればよいのだ!」
了
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