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文学フリマ東京35告知

内容紹介

二〇二二年十一月二十日。文学フリマ東京35のメルキド出版(ブース番号A39ー40)で『REBOX4 特集:ファウスト系』を販売いたします。本誌は、二〇二一年五月創刊のサブカルチャー誌です。創刊号は「書物書簡」「どくしょびより」(大江健三郎『芽むしり仔撃ち』読書会)。第2号は「反映画」特集でアニメ論考、短篇、エッセイ。第3号は「ウエルベック」特集でした。最新4号はゼロ年代の<ファウスト系>(『ファウスト』(講談社)の佐藤友哉、舞城王太郎、滝本竜彦らを中心に東浩紀、宇野常寛、笠井潔、大塚英志、渡部直己、加藤典洋など批評家たちを巻き込んだ文芸運動)を特集します。では詳しい内容紹介をします(表紙は後日公開)。

序文
「セカイの分裂を見つめて」沖鳥灯
加藤典洋「関係の原的負荷」への応答として。あるいは宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で貶められた<ファウスト系>の再評価のために。本ブログの末尾に全文掲載。

二次創作
「死んだらお終い」伊藤なむあひ
佐藤友哉『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』で七十七人の少女を屠った「突き刺しジャック事件」の前日譚。血と諧謔のスピード文体の「鏡家サーガ」をクラシカルな文体で新たに語りなおす。

「小説家と馬鹿げた世界」瀬希瑞世季子
「僕はこれを書くために生まれた」というデビュー作をひっさげて文壇に登場した「僕」。しかしライバルの愛媛川十三(舞城王太郎のキャラクター)に大きく差をつけられて意気消沈の日々。「僕」は実家の千歳市に帰省するが、「この国の小説家を全員殺害」することをもくろむ『殺陣班』の魔の手が忍び寄る。小説家の存在証明、モデル問題、SNSなどの切り口で小説の倫理と戦う。

「ラブレター問題」松原礼二
滝本竜彦『NHKにようこそ!』『超人計画』に触発されて創作。性的不満足の虚無感に苛まれる中年男性のもとにとつぜんラブレターが届いた。差出人は「中原岬」。中年の危機と冒険の遍歴。

論考
「ギャングとシリアルキラー ──佐藤友哉と高橋源一郎の過去、現在、1000年後」佐藤智史
『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎と『青春とシリアルキラー』の佐藤友哉。二人はかつて盛んに交流していた。ギャングとシリアルキラーを「自意識」「青春小説」でつなげ、大江ー中上、太宰治、サリンジャーと「サンプリング」してゆく。はたして高橋と佐藤の関係に「継承」はあったのか。戦後、震災後、そして1000年後の「文学の責務」を問いなおす。

短篇
「すごい愛」鯖
二十一歳の愛菜の生は渇いている。十五歳のとき父が失踪した。いまは母と埼玉で二人暮らし。スイミングスクール、別荘の湖、沖縄、秋刀魚の味、母の紅茶。愛菜は好むと好まざるに拘わらず「水」を求めているかのようだ。ウェットな人間関係に飢える現代のドライな肖像。特集外の短篇。

さらに詩誌『次なる宇宙のために3 境界』と写真句集『繭』を同時刊行し、今年九月の文学フリマ大阪で刊行『山羊の大学』第3号(漫画特集)の販売をします。
同時刊行の冊子を紹介します。
『次なる宇宙のために3 境界』は、長濵よし野と雨澤佑太郎が主宰の詩誌です。今号はゲストに赤司琴梨を迎えました。三人の詩篇と連詩を掲載します。

装画・装幀:森島菜穂

 

巻頭言「うごめく、その線を越えて」



 詩
 雨澤佑太郎「エンプティ」
 赤司琴梨「なみ縫い」ほか二篇
 長濵よし野「遊歩」ほか二篇
 連詩
 長濵よし野・雨澤佑太郎・赤司琴梨「傍らで/かたわらに」
 
『繭』は、昨年好評を博した『游遊』の第二弾。写真をえすてる、俳句を片上長閑が務めます。

『山羊の大学』第3号は、十五名の書き手でお届けします。山中美容室の巻頭漫画を皮切りに「特集1 漫画家と本」「特集2 藤本タツキVS阿部和重」と題して、論考、エッセイ、二次創作をお送りします。特集外の論考、短篇、紀行も充実しております。

写真・装幀:Yoshioka



巻頭漫画
山中美容室
「いいきぶん」
喫茶店で二人組のたわいない会話は大企業のイメージを巡り巡って…… 2Pのショート漫画。

序文
沖鳥灯
「新世紀のサブカルチャー」
藤本タツキと阿部和重をヒッピー/ハッカーの視点を介して、戦後サブカルチャーの覚醒とする。蝶番は『涼宮ハルヒの憂鬱』とゴシック。

特集1 漫画家と本
有島みこ
「平坦な日常でそれでも僕らが生き延びること 大島智子『セッちゃん』論」
戦時中の坂口安吾、戦後の学生運動、平成のオウムと震災、ロストジェネレーションなどの若者たちについて。

木耳
「フィクションの自立性を考える──藤本タツキとゼロ年代批評」
「東・宇野論争」から精緻に東浩紀を読解。さらに『ルックバック』『さよなら絵梨』『フツーに聞いてくれ』を等身大で語る。

Yoshioka
「考察・伏線回収・陰謀論」
『ONE PIECE』と『チェンソーマン』に関するYouTubeやSNSで拡散されるいきすぎた「考察」を慎重かつ大胆に分析。

Kiaro
「感情のアルバム」
高野文子の表紙絵に魅せられてつぎつぎに彼女の作品を読み込んでゆく。『絶対安全剃刀』『おともだち』『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』『るきさん』『黄色い本』『棒がいっぽん』など。

特集2 藤本タツキVS阿部和重(二次創作)
不逢言哉
「イージー・リベンジ!」
会社員たちの深夜の居酒屋トークはMISIAから「アメリカの夜」へと脱線してゆく。DTPデザイナーの筒井は阿部和重『アメリカの夜』の文字列に魅了され、ある「テロ計画」を思いつく。

灰沢清一
「Premium Bomber」
ながやまこはるが何者かに誘拐された!? セブンイレブン神田神保町3丁目店で巻き起こった珍騒動は多種多様な固有名詞を呑み込んでこはるの姉けいこを困惑させる。事件は女性化した阿部和重の登場によりますます混迷の度を深めてゆく。

織沢実
「青い町を、ミルクの河が流れる」
謎の老人・首塚氏を中心にいびつな円を描き躍動する若者たち。後藤明生ばりのとぼけた筆致はやがて町に及ぶカタストロフィさえも逸脱するかのようだ。

論考
ヤマグチ
「ある死者の証言 アシア・ジェバール『墓のない女』第12章について」
アルジェリアの女性作家アシア・ジェバール(1936ー2015)の当該作を歴史の犠牲として美化せず誠実に読もうと試みる。

芳野舞
「遍在する「穴」──ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』第六挿話についての一考察」
20世紀文学を代表し、いまだ数々の謎を投げかける希代の長篇『ユリシーズ』。1904年6月16日のダブリンの一日からあと2年で120周年。そして原著刊行は2022年で100周年。これを記念した読書会を元に書かれた論考になる。

短篇
おさかな そこ
「満月の夜の海の話」
言葉を解す奇妙なタコが「隣人」に語る摩訶不思議な海洋ロマン。抱腹絶倒、驚天動地の物語は真実か? 法螺話か? ライトでビターな奇想小説。

山坂槿
「下山の三島と口紅って三島由紀夫の三島なの?」
クラスメイトの下山に情念を燃やす女子高生らら。深夜突如としてインスタにあげられた下山のポートレイトにららは衝撃を受ける。三島以後のペラい日本語と対峙する同時代文学。

古戸治良
「さかえだ線」
過酷な家庭環境の先輩の実家に電車で同行しようとする融。田舎の路線で交わされる二人の会話と車窓の風景。ダーク日常系の誕生を予感させる。

紀行
佐藤智史
「随想紀行録」
夕日の映える教室で昨冬の旅を回想する。天橋立、難波・日本橋、そして太陽の塔。雄大な自然とちっぽけな存在の自分。この間隙に「歌」は宿るのだ。

委託販売は、山中美容室『ラッキーパンチ 第一短編漫画集』。新作「地層の女」を筆頭に、「在ること自体の気持ちよさ」を漫画にしています。

山中美容室「地層の女」

 
 
二〇二三年五月二十一日の文学フリマ東京36で販売予定『幸せな日常のための同人誌』創刊準備号(フリーペーパー)と『反特集』(フライヤー)の無料配布を行います。
『幸せな日常のための同人誌』は、今ある「幸福な日常」を否認せず如何に創作をしたら良いのか、という主宰の個人的なテーマから出発した同人誌です。
多様な参加者は「幸せな日常」を創作の指針として何を書くかを考えています。
秋文学フリマ東京で無料配布する準備号には同人の座談会と主宰による序文を掲載予定です。
「日常が破壊された」「青春を喪失した」というコロナ以降陥りやすくなった不幸の感覚に風穴を開けるような同人誌を目指します。乞うご期待。
(織沢実)
『反特集』は、「○○特集」にも「○○トリビュート」にも入らない、これまでの言説の隙を突き、新たな視野をもたらす文章たちを収録。谷川俊太郎、放課後のプレアデス、北野武、種村有菜、BASEMENT-TIMES、エウレカセブン、もうひとつの青空、アフロなど年代・ジャンル問わず多種多様な論考を掲載予定。二〇〇二年生まれの読む『イリヤの空、UFOの夏』読書会も併録。
(佐藤智史・前川卓)
 

お品書き


新刊
『REBOX4 特集:ファウスト系』 
 500円
『次なる宇宙のために3 境界』
 500円
『繭』
 500円
『山羊の大学』第3号
 1000円
委託販売
『ラッキーパンチ 第一短編漫画集』山中美容室
 700円
『幸せな日常のための同人誌』創刊準備号
 無料
『反特集』フライヤー
 無料
既刊
『マジカント4号 都市/革命』
 500円
『RE:前衛アンソロジー』
 500円
『晩年はいつも水辺にあって』雨澤佑太郎
 500円
『映画館と公園に放置された長いイモの事』松原義浩
 1000円

『REBOX4 特集:ファウスト系』序文

セカイの分裂を見つめて

沖鳥灯

この場所来るまで分からなかったが
此処だけは今も何故 運命のように香る風
「さくら」ケツメイシ

私はとある病で入院中、阿部和重『グランド・フィナーレ』に関する加藤典洋の以下の発言を読み、理解に苦しんだ記憶がある。本稿はその体験に根ざした加藤への応答として書かれた。

 僕は最近、「関係の原的負荷」という概念をここに投げ込んでみると、特に二〇〇〇年以降の小説を駆動させている力は取り出せるかな、という感じをもっているんですが、簡単にいうと、親に愛されている、心配されている、そういうことが「重荷」だ、それから自由になりたい、というあり方ですね。親の理不尽なことをいうのなら、子供は反抗すればいい。反抗ができる。でも、親がいいと、子供は反抗もできない。「負荷」は内在化されて、だんだん重苦しくなって身動きが取れなくなる。この重荷を悪魔払いするには、自分が死ぬか、親殺しをするしかなくなる。この「関係の原的負荷」をゼロにしたい、そういう衝迫が、いろんな作品を駆動しているんじゃないか、ということなんですけどね。(略)
 舞城王太郎とか佐藤友哉とか星野智幸とか、いまの若い人の小説は、ほとんどそういう関係の「原的な負荷」を全部ナシにしたい、ゼロにしたいというモチーフで一貫しているように見える。
(『群像』(二〇〇五年一月号)「創作合評」)

本誌はゼロ年代に過熱した〈セカイ系文学〉いわゆる〈ファウスト系〉を再発見するために刊行された。人口に膾炙したアニメによる〈セカイ系〉のイメージと〈ファウスト系〉は明らかに異なる。例えば谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』や新海誠『ほしのこえ』と滝本竜彦『NHKにようこそ!』や佐藤友哉「鏡家サーガ」はまるで違うものだろう。相違点の根源には『新世紀エヴァンゲリオン』最終話の需要・解釈が分かれ目なのではないか。言わずと知れた「オタクVSサブカル」論争である! つまり前者のセカイ系はオタクで、後者の〈ファウスト系〉はサブカルというわけだ。さらに「オタクVSヤンキー」の対立が生まれる。オタクの右傾化、文化左翼=オタク、マイルドヤンキーなどの棲み分けの細分化が生じた。とはいえ二〇二〇年代ではこれらの対立は褪色する。オタク、サブカル、ヤンキーは島宇宙化した。あるいは対立はジャンルのモザイク状になった。いま対立といえば「オタクVSフェミニズム」だろうか。この点は二〇一〇年代からの「正しさの時代」が影響している。そして一九九〇年代・二〇〇〇年代(ゼロ年代)のサブカルは東京五輪(二〇二一)の小山田圭吾問題に顕著なように死んだ。
だが二〇二二年はサブカルチャー(本誌ではサブカルをポップカルチャーとし、サブカルチャーをカウンターカルチャーに区分する)の逆襲が待望されている。けっして『オトナ帝国の逆襲』を体現するものではない。言うなれば「サブカルチャー仮死の祭典」だろうか。本誌は『オトナ帝国』のような懐古的「サブカル」に印籠を渡し、「サブカルチャー」=「カウンターカルチャー」を再起動させたい。「反抗の時代」の再燃である。オタクの知識とヤンキーの反抗の混在。現在は右翼のカルト化が嘆かれている。左翼のオタク化が叫ばれている。左右の停滞と失墜を踏まえ、二〇〇〇年代(Y2K)カルチャーを再検討・分析してオタクとヤンキーの「仮死の祭典」を始めよう。右翼の戦争の失敗によって戦後の大衆文学は花開いた。左翼の革命の失敗によって市民社会は目覚めて高度経済成長後のサブカルチャーは活況を呈した。右翼(ヤンキー)と左翼(オタク)の協同は可能か?
本誌の特集〈ファウスト系〉の母胎となる『小説現代十月増刊号』として二〇〇三年十月発行開始の『ファウスト』(講談社文芸第三出版部、編集長太田克史)には、姉妹誌『メフィスト』(講談社、一九九四ー)のメフィスト賞受賞者を始め、当時の「セカイ系」人気ライトノベル作家らが集結した。舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新、滝本竜彦、乙一、奈須きのこ、北山猛邦、竜騎士07、松原真琴、錦メガネ、上遠野浩平、渡辺浩弐、清涼院流水、筒井康隆など。キャッチコピーで「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」と謳うように鬼頭莫宏、西村キヌ、すぎむらしんいち、笹井一個、小畑健、西島大介、武内崇、竹、箸井地図、405など数多くのイラストレーター&漫画家が参加。イラストを活かすためか全頁にわたってノンブルがないのも特徴的だった。『ファウスト』は新書サイズの判型に鈍器ともいうべき分厚さの「レンガ本」だ。三号からは講談社MOOKとして刊行され、台湾、韓国、北米などへの世界進出も果たした。ゼロ年代に登場した『ファウスト』は国内においても当時の若年層を中心に好意的に受け入れられたようだ。私自身は、二〇〇三年当時二十八歳で高齢ニートといってよい社会的ステータスなこともあって、一歩引いてはいたものの熱狂した地方都市読者の一人だった。なかでも『新潮』編集長矢野優のインタビュー(Vol.4)と台湾の先端出版社長らとの座談会(Vol.6 SIDE-A)は刺激的だった。純文学と世界にサブカルチャー文学が浸透してゆく現場の目撃者になった気分だった。ただ「八〇年生まれ以降限定の新人賞」と銘打ったファウスト賞に一九七五年生まれの私は疎外感を覚えた。この反発力で弊サークルを立ち上げた経緯もあるというわけだ。
ゼロ年代という九〇年代と地続きな史観によって生まれた〈ファウスト系〉はJ文学と親和性が高い。J文学は日本文学のマイナー化を促進した。夏目漱石や大江健三郎は売れなくとも権威があった。が、村上春樹以降の純文学は売れなければ消えてしまう。〈ファウスト系〉はJ文学が陥った隘路を脱するための起爆剤たろうとした。が、その試みはあえなく失敗に終わる。いま特定の作家や文学ムーブメントを同人誌で特集することによって「権威と売り上げ」という狭量な価値判断を突破する場を作りたい。
『ファウスト』は〈二〇〇〇年代ムーブメント〉を象徴する媒体だろう。二〇一一年のvol.9で「解散」が宣言されたが、いまだに終刊はしていない。創刊の二〇〇三年はイラク戦争勃発、解散宣言の二〇一一年は東日本大震災発生であり、ゼロ年代の始まりと終わりに当てはまる。
代表的執筆陣の一人佐藤友哉は近年のインタビューでゼロ年代と三・一一の関係を述べている。佐藤は九〇年代からゼロ年代は「シリアルキラーの時代」だとする。確かに少年犯罪や通り魔などの凶悪犯罪がワイドショーや週刊誌などのメディアを席巻した時代だ。がしかし、三・一一によって社会のムードは一変したという。こうした震災史観は根強い。佐藤は震災後の空気の移り変わりと同時に、自身の結婚における心境の変化も語っている。「社会など存在しません、あるのは個人と家族だけです」(マーガレット・サッチャー)ではないが、佐藤は震災後の社会秩序の崩壊による空気・規制の強化と日常回帰を共に経験したようだ。
いっぽう私は先述のように一九七五年生まれのオタク第二世代でロストジェネレーションである。佐藤は一九八〇年生まれのオタク第三世代で同じくロスジェネだ。同世代に又吉直樹、石沢麻依らがいる。広義のロスジェネは、宇野常寛の論法に従えば「日常の中にロマンなんかない」「仮想現実的」「レイプ・ファンタジー」という厭世観に陥っているのだろう。確かに宇野の批判は私に当てはまるものだ。がしかし本稿では、宇野の『ゼロ年代の想像力』で貶められた〈ファウスト系〉および佐藤を文学史上で再評価したい。
佐藤は、角川ホラー文庫や講談社ノベルス(京極夏彦や浦賀和宏)の影響を強く受けて二〇〇一年メフィスト賞を受賞し、ミステリからスタートした。二〇〇四年頃より純文学に越境。二〇〇五年『子供たち怒る怒る怒る』、二〇〇七年『灰色のダイエットコカコーラ』野間文芸新人賞落選。受賞に消極的な選考委員に阿部和重がいた。私はJ文学との断絶を目の当たりにして失望した。『ファウスト』で人気の絶頂に達し、二〇〇七年『1000の小説とバックベアード』三島由紀夫賞受賞。二〇〇八年、先述の『ゼロ年代の想像力』や渡部直己の批判を受けて二〇〇九年『デンデラ』で応答。その後はいくつかの単行本を刊行するも、文芸誌で散発的に短篇を発表する低空飛行がつづく。とはいえ『ペンギン・ブックスが選んだ日本の短篇29』(新潮社、二〇一九)で「今まで通り」(二〇一二)が編者のジェイ・ルービンに取り上げられ、村上春樹が「ダークな寓話」と評したのは快挙だろう。そして二〇二二年『青春とシリアルキラー』『少年探偵には向かない事件』で、ダンテと新本格の地獄巡り・ルーツ巡りと共に逆襲を果たす。
〈セカイ系〉の隆盛と「時代」は切っても切り離せない。九〇年代の冷戦終結、湾岸戦争、バブル崩壊、震災、オウムで日本の転落は起きた。二一世紀は九・一一に端を発するアメリカの凋落、三・一一以後のポリティカル・コレクトネスや自己実現の台頭、さらに感染症の世界的蔓延および北の大地での国家間紛争、元首相射殺、英国女王逝去、仏巨匠安楽死などにより、世界秩序は塗り替えられつつある。二〇二二年の現在において世界の勢力範囲は分裂から分断へと移り変わっている。本誌は分断からもういちど分裂を見つめ直すために、過去の文学ムーブメント〈ファウスト系〉の再定義を目指す。激動の時代、文学の世界ではいま何が起きているのか? それを見定めるにはノスタルジーではない「小さな過去」の積み重ねによる個別の歴史を構想する試みが求められるのではないか。文学を定義することは時代の精神を捉え直すことだろう。二一世紀とは何なのか。今世紀に生きる人々のアイデンティティの実在は可能か。その手がかりを〈ファウスト系〉に見出したい。些末で無力な行為であったとしても、あの時代を生きたもの、あの時代を考えるもの、いまの時代を生きるもの、時代の途上で死んでいったものと共に、つねにすでに〈小さな過去〉は反復する。
「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」
 
日常は退屈だ。画一的な学校教育が先鋭化する中学生活に私は吐き気を催した。頭髪管理、詰襟学生服、部活動強制、内申点などブラック校則は私が中学時代の一九八八年~一九九〇年にも存在した。学生運動の熱気はとうの昔にシラケて、高度経済成長後の校内暴力が一段落した「踊り場」のような時代に生きた私には、新たな脅威「退屈な日常」がのしかかっていた。
抑圧・管理・監視の小さな社会=学校。私はそれをボイコットすることで読書に出会った。読書とは反権力だ。とはいえこの感覚は一九九〇年のものだ。宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で以下のように述べる。

 この「社会」は、九五年を、『エヴァ』を、そしてセカイ系を通過したあとの「社会」である。そこにあるのは秩序立ったピラミッドではなく、混乱したバトルロワイヤル状況である。何が正しいか、黙っていれば大人が示してくれて、それに従ったり反抗すればいいという単純なしくみでは動いていない。「社会」の与える抑圧は秩序ではなく無秩序であり、不自由の息苦しさではなく、自由のもたらす不安である。何が正しいか、価値があるかは勝手に決めればいい。そしてその正しさはバトルロワイヤルに勝ち抜いたもの(権力を得たもの)が決め、しかもその座は安泰ではない。
(ハヤカワ文庫、一二六頁)

確かに現代はオタクとヤンキーの反抗が機能しない。だがそれは秩序の喪失を意味しない。フーコーやドゥルーズの議論を待つまでもなく現代社会は抑圧的な権力に圧し潰されている。むろん宇野の指摘するように現代の権力は被権力者に自由の幻想を与えている。そして知らぬうちにすべてを骨抜きにされるのだ。一九九〇年から二〇二二年まで連綿とつづいていることだろう。私はこうした現状認識において読書=反権力はいまでも有効だと思う。〈ファウスト系〉を宇野は手厳しく前掲書で批判する。なぜなら〈ファウスト系〉は時代遅れなのだからと宇野は主張する。

 初期〈ファウスト〉の作家たち──たとえば佐藤友哉や舞城王太郎が語っていたのは一種の絶望である。それは(一九九五年以降の)社会像の変化に対応できず、どうしていいかわからずに迷走し、立ち尽くし、引きこもるしかなかったというポスト団塊ジュニア世代(いわゆる「ロストジェネレーション世代」の中核)に顕著な、パフォーマンスとして語られる絶望(ごっこ)である。
(同書、一四四頁)

宇野のように「ほんとうに痛い」=「正しく絶望すること」を声高に要求することは二〇一〇年代の「正しさの時代」を容認することだろう。この態度はギスギスしたよそよそしい社会の空気を作りはしまいか。共同体の破壊である。私は抑圧的な権力をモラル強化の徹底という自由の破壊行為に留まらずに撃ちたいのだ。〈ファウスト系〉は「負け」=「青春」=「戦後」をメタ的に引き受けた反権力のダークな闘争なのだ。とくに舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』や佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』に顕著だろう。では反権力とは何か?
「反体制はカネになる」とヒース&ポッターはいう。彼らはもともと反権力は差異化のゲームによってカネを生み出すと主張した。とはいえ一般的には「反体制」が権力を奪取したとき反権力は転向して「カネになる」のだろう。「造反有理」「革命無罪」を掲げて中華人民共和国を建国した毛沢東は読書の人だった。毛は晩年に酒池肉林に溺れたという。フランス革命では革命の指導者ロベスピエールは革命後に恐怖政治を敷いた。それは諸外国の外圧のためだったという見方もできよう。反権力は権力を保持しようとすると内外の反発をまねき腐敗してしまう。党派的・政党的な政治体制に根本的な構造上の欠陥があるからではないだろうか。サルトルは『いまこそ、希望を』(レヴィとの共著・光文社古典新訳文庫)において

 政治的統一というものはなかった。けれども、一九世紀のあいだずっと、それに二〇世紀の初頭は、左翼の人間は、だいたいにおいて政治的かつ人間的な原理を参照していて、そこから発して、思想や運動を考えていたように感じられる。左翼とは、そういうものでしかありえないしね。
(六三頁)

晩年のサルトルは一九・二〇世紀の政党政治・党利党略に堕落した左翼を否定する。一八世紀の革命前の集会、デモや新聞、ビラなどの運動にこそ左翼の本来の姿があるとした。反権力としての読書は、この運動に留まる力が必要なのではないか。これこそ抑圧装置を打破する活力の源であろう。
反権力を帯びるような読書を誘う小説群として〈ファウスト系〉を評価したい。一九六〇年代の政治的人間と性的人間の対立構造は一九九〇年代において褪色して経済と性の生存競争となった。九〇年代のJ文学はそれに対峙する暴力と性の前景化だろう。つづくゼロ年代の〈ファウスト系〉も血と暴力の闘争であった。ゼロ年代に台頭したマンガ・アニメ・ゲーム的なオタクカルチャーのリアリズムに太宰治以降の小島信夫や大江健三郎、中上健次らの「血」を導入すること。これらは村上春樹一強へのカウンターになった。かつアメリカ文学の文脈が強い。サリンジャー、オースター、トム・ジョーンズあるいはそれらを摂取した高橋源一郎など。とくに滝本竜彦はドイツ語圏のニーチェ、フロイトまたはアメリカ西海岸のニューエイジの影響もあるだろう。ポストパンク、グランジ、オルタナ系譜の中村一義、ナンバーガール、スーパーカーなどの邦ロックの影響も色濃い。真のポスト・エヴァ(ポスト・セカイ系)といえる『少女革命ウテナ』(一九九七)、『serial experiments lain』(一九九八)、『攻殻機動隊SAC』(二〇〇二ー二〇〇三)、『コードギアス 反逆のルルーシュ』(二〇〇六ー二〇〇七、二〇〇八)、『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一)、『輪るピングドラム』(二〇一一)、『PSYCHO-PASS サイコパス』(二〇一二ー二〇一三、二〇一四、二〇一九)などとの連関も考えられよう。
東浩紀は率先として当誌を評価して『ファウスト』にも執筆陣として名を連ねている。東責任編集『美少女ゲームの臨界点』(二〇〇四)ではたびたび『ファウスト』に言及する。

 既存の文学業界やライトノベル業界からは反発もありますが、『ファウスト』は美少女ゲームがはからずも抱えてしまった「文学性」と、それが生みだした方法論に対するひとつの解答だと思います。
(佐藤心、三五頁)
 
また『美少女ゲームの臨界点』には滝本竜彦の変名・夜ノ杜零司「えいえんはないよ。いや嘘たぶんあると思うよ。」という小説が掲載された。
だがゼロ年代批評と〈ファウスト系〉の蜜月は長くは続かなかった。それは東の奈須きのこ批判や宇野常寛『ゼロ年代の想像力』などいくつかの要因があるのだろう。作家個々人のたぐいまれな活動を集結させた〈ファウスト系〉は文壇やアカデミズムの父権的な評価ゲームに戸惑い、サブカルオタクの党派的・政党的な活動に陥り、批評家からの無関心・総批判によって一網打尽にされた感が強い。私見ではヤンキーの直接行動が不足していたのではないか。舞城のラブ&ピース転向、佐藤の出版セカンド童貞、滝本のラノベ保守本流化など、〈ファウスト系〉はテンデバラバラに見えていたが、pha、ロベス、佐藤友哉、滝本竜彦、海猫沢めろんの「文学系ロックバンド」エリーツの再結成(二〇二〇)と同人誌『ELITES』(二〇二〇ー)の創刊、そして佐藤友哉デビュー二十周年記念復刊企画(二〇二一ー)など、佐藤曰く「復讐」という宣言と共に〈ファウスト系〉市場が活況を呈しはじめているのは間違いない。このような〈新生ファウスト系〉のパンク精神の直接行動がかつての連帯による失速の二の舞にならないことを祈るばかりだ。そのためには運動を一点収斂しない拡散力が必要であり、それは読者一人ひとりの活動にかかっていると思う。具体的には同人誌刊行、読書会やフェスの開催だろう。文学のムーブメントは、政治的統一ではない分裂を見つめつづけるものたちの集合によってその真価が問われるはずだ。いちどは消えたかのように見え、いま再熱しようと市場を窺っている〈ファウスト系〉はこの時代にいかに響くのだろうか。オタクの虚構の共同性(ゼロ年代=オタクの理想郷)とヤンキーの現実の行動性(二〇年代=オタクパンクの誕生)の未来はどこから来てどこへ向かうのか。
加藤の「関係の原的負荷」は親子の権力ゲームに留まっていた。本稿はそれへの論駁として「社会」を強調したつもりだ。ドゥルーズ&ガタリは現代問題を「ファミリーロマンス」に還元することを激しく批判した。果たして加藤の本意が家族の承認ゲームに終始する話であったかは没後のために定かではない。私の加藤への応答は「正しさ」を標榜したものではない。「赤色のモスコミュール」(佐藤友哉)のように鈍く光ることを願ってやまない。
最後に今年九月に亡くなった宮沢章夫の言葉を引く。

〈本を背負って、町に出よう〉

本と町は〈セカイ〉ではなく〈政治〉でもない、いわば〈シャカイ〉だろう。

※準備不足により、笠井潔と大塚英志への言及は控えました。今後の弊サークルの活動にご注目ください。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。イベント当日わたくしは欠席しますが、兄と寄稿者、委託の方々の協力で販売いたします。いまだコロナ影響下なのでくれぐれも予防対策を整えてご来場ください。また12月にはBOOTHにて通販開始予定です。なにとぞよろしくお願いいたします。

二〇二二年十一月三日
沖鳥灯/松原礼二


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