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インクルージョン!異質な人たちの集団にマイノリティとして入ってしまったとき 

昨日、きっかけづくりのワークキャンプ!NPO法人グッド!にお邪魔して、
主催キャンプ200回記念の動画視聴会に参加しました。


どれだけの若者が、この団体のキャンプで自分を取り戻し、自分を作っていったことでしょう。すごいことです。おめでとうございます!


そのあとの雑談の中で、20代の大学院生(男性)から、
日頃、大学の研究室に女性が多くて居場所のなさを感じておられる
という話を聞きました。
彼は、「女性に囲まれた男性の居心地の悪さ」について、
「行き過ぎたフェミニズムはどうかと思うのだけれど、どう思うか」
と聞きました。

それに対して私は、「男性に囲まれた女性の居心地の悪さ」を理解できる貴重な経験をしていますね~と言いつつ、これはジェンダーやフェミニズムの問題ではないですよ~(注1)ということを伝えるために、いろいろとお話ししたのですが、うまく伝えきれなかった感じが残ったので、ここで改めてまとめてみたいと思います。

まず、大前提として、この問題は、インクルージョンの問題として捉えた方がいい、ということがあります。
「ジェンダー」「フェミニズム」に関する問題とされていることの中に、
実はマイノリティやダイバーシティ、インクルージョンの問題として捉え直した方がよいことはしばしばあるように思います。
女性って・・・男性って・・・という言説は、思い込みであることがあって、経験上、逆の性にして言い換えると通じてしまうことが少なくないように思います。

そこで今回、性別に限らず、インクルージョンの問題として考えてみます。

たとえば、日本人がたくさんいる中に、スリランカ人が一人だけ混じっているというような状況があったとき、その状況は、以下のように大きく2つの観点で分類でき、その中でいろいろなパターンがあるのではないかと思います。

1.数の上でのマジョリティが、マイノリティの人に対し、どのような感情を持ち、どのようにふるまうか。
① 尊敬、崇敬のまなざしで見る。
② 好奇心、関心の対象として見る。
③ 多様性を祝福しインクルーシブに仲間として受けいれ互いに学び合う。
④ 違和感、侵入者、侮蔑のまなざしで見る。
⑤ 関心の対象からはずれたものとして、無視する。
⑥ 完全な異物として、集団から積極的に排除する。

今回の事例は、1-④あるいは、1-⑤の事例なのだろうと思います。
このとき、グループと統括するリーダー(例えばクラスの担任)がいるような集団であれば、
集団のダイナミクスからメンバーがよりよいコミュニティのあり方を学ぶように働きかけることが期待されるでしょうけれど、
リーダーがいない場合はそうは行きませんので、
理不尽と感じるかもしれませんが、マイノリティ側にそのコミュニティで生き抜いていくための工夫が必要になります。

たとえば、
・イベントなどの際に共通体験を持って、メンバーが、自分に対して差異よりも共通項が多いと感じるようにする。
・マジョリティにメリットを示して渡す(ギフト。金品を渡す場合もあれば、何らかの貢献をする場合もある)。
・(次の2.のように)むしろ権力者として君臨する。
・混ざることをあきらめ、グループはある目的のもとに機能的に集まっただけのものとみなして、原則として単独行動する。 

などでしょうか。スタート時が大切に思います。
なかなかうまくは行きません。
(どなたか、もっといい方法をご存じでしたら、教えてください)

2.逆に、ある集団の中に少数の権力者がいて、その周りに従属者がいる。つまり、権力者は数の上ではマイノリティなのだけれど、力関係(ダイナミクス)において、上位にある。というとき、数の上でのマジョリティは、
① 自分たちとの差異に価値を置き、希少価値のある権力者を崇め奉る。
② 権力者の力を利用したい者たちが取巻集団を形成し権力を行使する。
(取巻集団が少数の場合もあれば、全員がその権力者の元に集結して近隣の集団を圧倒しようとする場合(戦争など闘いが起きる)もある)
③ 権力を恐れ、できるかぎり距離を置いて、その権力を侵犯せずに安全でいようとする。
④ 権力に対抗して、結束し、パワーバランスを崩そうとする。
⑤ 数の力で権力者を排除する(市民革命)。
というような動きを取る。

 いかがでしょうか。

 民主主義は、このようなマイノリティとマジョリティのアンバランスさを排除し、すべての人の権利を尊重して、お互いの存在をリスペクトし、対話を繰り返す中で、よりよいコミュニティを作っていこうとする考え方です。

 コミュニティが継続していく中では、かならず居心地の悪い者が出てきます。その場合に、そのコミュニティが、一人残らず全員をインクルーシブに包含してまとまりのあるコミュニティの方向に向かおうとするのか、一部を排除したりいじったりすることによって、残りの者たちでまとまりを作ろうとするのか? 
 前者は健全な、デモクラティックなコミュニティと呼ぶことができますが、後者は常に誰かが排除される危険性を持っていて、次第に固く閉じた世界になっていきます。

 私たち日本人はデモクラティックなコミュニティの体験が少なく、上位の者を特に尊重することが求められるヒエラルキーの中で生きているので、
コミュニティ形成において、人の意見を聞いて、自分の意見もしっかり言うという対話を大切にすることがなかなかできません。

 デモクラティックなコミュニティを形成するためには、みんながフラットに一人の話をじっくり聞くという行為が欠かせません。しかし、これはコミュニティ成員が常に意識し、努力していないと容易に崩れます。
 権力は魅力的で、みんなが欲しがるものだからです。
 少なくとも、自分の所属するコミュニティのうちの一つは、そこに戻ってくると一人の人として迎え入れられる、そんな場をキープしていられるといいですね。

(注1:追記)この記事を読まれた古野陽一さんから、コメントをいただきました。
*****
多数の女性の中にポツンと一人を20年以上やってきて・・・
その院生の言う「居心地の悪さ」が自分の中にあるジェンダーバイアスを意識せざるを得ないことから来ているとしたら、それはジェンダーの問題かな、と思います。
「えー、女性がそんなこと言うの」とか「そこは男の出番でしょ」とか脳内で語ってしまっている自分に気付いてザワザワするといった類の居心地の悪さ、です。
*****
そうですね。子どもの頃からの生育の中で、自分に貼りついてしまったジェンダーバイアスが、状況の中で活性化されてしまうわけですね。あるあるです。
そのことに気がつくことができればまだいいのですけれど、なかなか自分では気づけないものです。気づくためにも、この状況が発生しているのが、インクルージョンの問題なのだ、という認識は欠かせないように思います。

今回の例で言えば、
「一人でグループに入っているスリランカ人」に対するイメージが、
 アジア人、発展途上国、肌の色の濃さ なのか、
 敬虔な仏教徒、家族や友達想い、フレンドリー、賢い、なのか。
 イメージがない(意識してこなかった)なのか。
というようなことになるでしょうか。

インクルージョンを考えていくときに、
 自分と異なる、ことをどう楽しめるか、
 異質さをポジティブにみられるか、
 どこに共通点を見つけるか、
ということがポイントになってくるかもしれません。


※ 貴重な質問をしてくださった大学院生に何とか答えたいという思いで書きました。彼の経験と発信が、私の能動的な思考を促してくれました。私は、問いを得て初めて考え始めるので、質問は思考の良いきっかけになります。感謝しています。

※ 写真はグッドにて。
  カバー写真は、室伏淳史さんからの提供です。

#インクルージョン #コミュニティ #ダイバーシティ #フェミニズム
#ジェンダー #一般社団法人ジェイス #NPO法人グッド

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