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仕事に追われ疲れ果てないために私が実践している一つこと

日々の業務が多忙できついと感じたことがない人はいないのではないだろうか?

私自身も今、そんなシーズンを過ごしている。シーズンに限定されるのか?多かれ少なかれ、常に追われている感覚はある。

先日、前職の後輩から「仕事が忙しくて楽しくない」と相談を受けた。理解できる部分もあるな…と思いながら、私が問いかけた言葉は1つ「その一つ一つの仕事に自分の意志は込められているか?」ということだった。つまり、何かしら自分が熱意をもって意志を込めたことが反映されているのか、ということだ。

サラリーマンをやってる以上、原則上司からの指示で仕事が降ってくる。我々はその期待に応えるべく働くわけだ。入社直後、異動直後、転職直後は目新しく、覚えることに必死であるため、対処することに必死になる。しかしながら、慣れは怖い。慣れてくると、同じ仕事でも感じ方が変わってくるのだ。そのうち、上司に対する不満に転換されてくるのだ。私自身、上司に対する不満がない部下など存在しないと思っており、これについては正常であると思っている。加えて、仕事の量が増えてくると、仕事に追われる感覚が強くなり、楽しくないと感じ始めるのだ。私はこの感情についても当然のことだと思う。一方、忙しくて愚痴を言っていても、楽しく仕事をしている人との違いは何なのだろうか?それは「仕事を自分のものにできているかどうか」だと考えている。では、それはどのような意識からくるのだろうか?

誰しも、上司からの指示があった仕事に対してまずアウトプットの期待値を自然に推し量っている”仕事を自分のものにできていない人”は、期待値に届くか届かないかギリギリのラインを推し量って仕事をこなす。一方、”仕事を自分のものしている人”はどうだろうか?期待値は推し量るものの、アウトプットの質に拘って、結果的に期待値を上回るアウトプットを生むのだ。結果的に、上司からの評価もあがり、自分自身のモチベーションも高まるというのは言うまでもない。期待値ギリギリのアウトプットであれば、上司から、感謝の言葉は出てくるかもしれないが、賞賛はされないだろう。

では、期待値を上回るアウトプットを生むときの人の心理とはどんな状態なのだろう。私は”拘り”だと思っている。その人にとって、アウトプットは作品であり、自分の分身みたいなものに感じているのではないだろうか。過去、私は妥協の産物を世に出してしまい(私が作成したスライドが全社で使用され)ずっと恥ずかしい思いをした。本当に後悔している。それ以来、特に社内でオフィシャルに使用するスライド作成には拘りレベルを上げて臨んでいる。

そして、この”拘りのレベル感”が一流と二流の差として出ているのではないかと思っている。私は怠惰な性格であり、決して一流と言えるレベルではないが、あまり出会うことはないが、一流だと感じる人の拘りや集中力は常人とは一線を画していると感じる。

少し話が逸れてしまったが、常に仕事に追われる私が仕事に追われないために実践していることを紹介した。とは言え、働き続ければ身体共に疲れるので、休養はほどほどに取りましょう。


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