はじめに
このノートは、The Psychology of Totalitarianism(Mattias Desmet著)を読み、重要と思われた部分を抜き出して記録したものです。ノートは、章単位の構成となっています。他章のノートを参照する場合、各ノート末の「全体校正」のリンクを参照してください。
このノートは、一読者としての印象を部分的に抜き出たものです。私の意見・感想は含まれていません。しかし、部分的な抜き出しなので、正しい内容を反映していないかもしれません。また、本文での引用情報も含まれていません。従って、本書を正しく理解するためには、ぜひ原文をお読みください。
このノートの目的は、自分としての理解の整理ですが、もし、本書の興味の一助になれば嬉しいです。
Part I: Science and its Psychological Effects /
Chapter 3: The Artificial Society
機械論的イデオロギーの行き着く先はどこなのでしょうか?この問に答えるためには、ガリレオの発見にまで遡らねばなりません。彼が発見したのは、振り子が長く揺れても、短く揺れても、その時間はいつも同じということでした。すなわち、振り子が進む速度は、振り子が描く弧の長さに正比例するので、同じ振り子の運動は常に同じ時間となります。
ガリレオの発見は素晴らしいものでしたが、厳密には正しくなかったのです。ホイヘンスは、振り子時計を作っている時に有ることに気づきました。同じ壁に複数の時計を取り付けると、その振り子が完全に同時に動くことに。彼は、振り子時計同士が何らかの通信をしていると考えました。例えば、壁を介した振動の共有の様に。
実は、振り子の振る舞いは、はガリレオの見出した法則よりも遥かに複雑だったのです。振り子の運動を精密に測定すると次のことが明らかとなりました:1)振り子は常に同じ時間で振れているわけではないこと、2)その時間は、ある時はより長い時間、ある時はより短い時間であること、3)この現象は、単一振り子でも観測できること。当初、振り子の不規則性は、取るに足らない「ノイズ」と考えられました。
しかし、20世紀後半、それが「単なるノイズ」ではないことが判明しました。一見ランダムに見えるこの偏差は、数式で記述できますが、それでも厳密には予測不可能だったのです(振り子が持っている「決定論的予測不能性」という特性については、第9章で再確認します)。しかも、そのパターンは個々の振り子に固有のものだったのです。単純だと思われていた振り子の振る舞いの本質は、創造的かつ不従順(=予測不可能)だったのです。
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自然現象を論理的に合理的に説明することは、それがどんなに包括的であろうと、常にその現象を抽象化することになります。理論的モデルは、決して物事を完全に捉えることができず、常に説明のつかない余白を残します。その余白こそが、そのものの本質なのです。
自然現象を合理的に分析して人工的に再現した場合、その人工現象はオリジナルと同一ではありません。その損失は、必ずしもすぐに目に見えるものではありません。ほとんど見えないこともあります。しかし、それは物理的にも心理的にも非常に重要なことなのです。人間の相互作用のデジタル化、つまり現実の人間の相互作用をデジタルなものに置き換えるという試みは、「この差」を説明する格好の例です。
コロナウイルスの危機をきっかけに、デジタル社会への流れは大きく前進しました。人々は、ウイルスから守られていると感じ、時間を節約し、交通渋滞を避け、エコロジカル・フットプリントを減らし、人との出会いを特徴づけるストレスや不快感から免れることができました。
しかし、このようなオンライン上の存在は、燃え尽き症候群や疲弊を加速させ、今では「デジタルうつ病」と言われるほどです。会話は情報を伝えるだけではありません。会話は、微妙かつ深い身体的な交流です。デジタル化は、この交流を破壊します。
デジタルな会話と現実の会話は同じではありません。このことは、幼児を見れば明らかです。生後6ヶ月間、彼らは驚くべき速さで言語音を聞き分けることを学ぶますが、それは物理的に存在する人の話を聞いているときに限られ、音声やビデオ録画を聞いている時ではないのです。初期の言語学習は、"他者 "の身体的存在と不可分です。子どもは、母親の体温や乳房のミルクで身体的欲求を満たしながら、母親の言語(とボディーランゲージ)を内面化させます。
しかも、この母と子の同調は、生まれる前、つまり子宮の中にいるときから始まります。子どもは子宮の中ですでに母親の声に慣れ親しんでいます。
誕生後、子どもはこの原始的な共鳴をさらに発展させます。母親の音や表情を真似ることで、母親との共生を実現し、母親が感じていることを自分も感じるようになります。母親の喜ぶ顔を見れば、自分も喜びを感じ、悲しい顔を見れば、自分も不幸せを感じます。音のやりとりも同じことが起きます。
子供とその(社会的)環境との早い段階での共鳴は、ユニークな現象を引き起こします。幼い子どもの身体は、一連の振動と緊張の「負荷」を受け、それが身体の最も深い部分に「身体記憶」として埋め込まれます。この「身体記憶」は、身体機能(筋肉、腺、神経、臓器など)をプログラムするだけでなく、特定の心理条件(あるいは障害)の素となります。
だから、特に幼少期には、肉声が極めて重要なのです。声の欠如は、幼い子供にとって致命的なのです。精神科医ルネ・スピッツは、世話をしてくれる人との安定した心理的結びつきがある子供のグループとそれの無い子供のグループを調査しました。その結果、後者のグループの死亡率が優位に高いことを発見しました。
言語交換におけるこの微妙な身体的側面は、生涯を通じて重要であり続けます。大人も幼い子供と同じように、会話をしている間、無意識に相手の表情や姿勢を常に反映しています。相手の主観的経験の深層を計り知れないほど短時間で測定し、反映します。その人が、苦しんでいるのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、それともフリをしているのか、を。
人と人が話すとき、イントネーション、声の調子、顔の表情、体の位置、話す速度などのわずかな変化を感じ取るため、互いを非常に鋭く感じ取ることができる。まるでムクドリの群れの様に、一つの生命体を形成しているのです。
この複雑な現象は、デジタル化されると劣化します。デジタルなインタラクションでは常に一定の遅延があり、香りや温度といった接触のある側面を排除され、選択的であり(相手の顔しか見えない)、接続が切れるかもしれないという不快な予感を生じさせます。この結果、デジタルな交流は無愛想で堅苦しいだけでなく、相手を本当に(物理的に)感じることができないという感覚を生じさせます。
ここから、デジタル化とうつ病の直接的な関連性が見えてきます。デジタルの「繋がり」は、あなたに無力を感じさせます。つまり,実存性の無さと手の届かない存在である他者に対して無力感を感じ,フラストレーションと受動性で反応する(つまり,疲れを感じる).
このように、デジタル化は会話の人間性を失わせます。例えば、教室では実感できる教師の熱意が、光ケーブルを介した旅には耐えられませんし、プロジェクトリーダーのサポートがオンラインミーティングでは希薄になります。
デジタルな会話で、人は「自分がコントロールしている」という感覚(あるものは見せ、あるものは隠すという選択も容易にできる)を得ます。しかし、人はデジタルの壁の向こう側で心理的により安全でより快適に感じる一方で、その代償として「つながり」を失うのです。
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科学は理論を現実に適合させますが、イデオロギーは現実を理論に適合させます。機械論的イデオロギーも、現実をその理論的フィクションに適合させようとするから「イデオロギー」なのです。より具体的な例としては、人工子宮(Figure 3.1)、World Economic ForumのDigicosm(人間の生活がオンライ主体となる)、トランスヒューマニズム(科学技術を用いた人の肉体と知性の飛躍)、イーロン・マスクの脳内に埋め込むマイクロチップ、地球工学などが挙げられます。
機械論的イデオロギーの勝利の音楽は、常に不協和音を含んでいます。今までの経験から、実現した便利さには常に代償が伴い、その代償はたいてい手遅れになってから明らかになります。18世紀のイギリスの画家・詩人であるウィリアム・ブレイクは、世界の機械化がもたらす破壊と非人間的な性質を指摘した先駆けでした。しかし、残念ながら、彼は例外でしたし、今でも例外です。
なぜ人類は、機械論的イデオロギーに絶望的に誘惑されているのでしょうか?理由の一つは、不快な存在は取り除くことができるという、幻想のためです。このことは、現代医学に最もよく表れています。一般的に、苦しみの原因は、身体の機械的な「欠陥」、あるいは病原性細菌やウイルスなどの外的な存在にたどりつきます。この原因は局所的なものであり、患者が心理的・倫理的・道徳的に悩まなくとも、(原則的には)制御、管理、操作することができます:「薬を飲めば治る」や「整形手術をすれば問題から開放される」など。機械論的科学の実応用は人の生活を楽にし得るが、生命の本質を見失いかけています。
啓蒙主義者はユートピア的な楽観主義にしがみつきました。19世紀の工業化は、貴族社会・階級社会・それに付随する地域的な社会構造を消滅させました。新しい世界(機械論的世界)では、人生は無意味で無目的なものになり、宗教的基準も一貫を失った。古い社会では恐怖(地獄や最後の審判)にって抑制されていた不満と攻撃性が、ますます容易に動員されるようにまりました。そして、死後の世界という概念は薄れ、人工的に作られた機械的・科学的な楽園への信仰に置き換わりました。
ここで、全体主義の根底にあるものに言及します。それは、科学的な知識が完璧なヒューマノイド(完全無欠の人間の意味)と理想的な社会を生み出せる、というナイーブな信念です。この考え方は、スターリン主義のプロレタリア社会(唯物史観)やナチの民族主義(優生学と社会ダーウィニズムの応用)に限ったことではありません。プラトンは、優生学が理想的な国家を実現するための行為だと考えました。キプロスでは、セラサミアの撲滅に優生学的手法を用いました。台頭するのトランスヒューマニズムも、この信念と通じるものがあります。
社会的な戦略として、純粋に倫理的な理由だけではなく、合理的な理由を用いて優生学を拒否できるようにすることが重要です。合理的な理由での本質はこうかもしれません:優生学は、「好ましくない」性質を「克服」する限りにおいて、「局所的に」望ましい結果をもたらすことがあっても、全体から見れば、メリットよりもデメリットの方が多い。政府による「親密圏」の規制は、心理的な絶望をもたらし、最終的には身体的な健康の低下をもたらすと考えます。(このテーマについては、最終章でさらに詳しく説明する予定である)。
全体主義とは、「一般化された強迫観念」を論理的に(=科学的手法を用いて)拡張したものです。科学は偶像になったのです。この偶像は、魔法のように存在の悪を癒し、人間の本質を変容させます。次章では、機械論的言説と全体主義的言説の中核をなす特徴の一つである、現実の測定可能性に対する素朴な信仰と、データと統計の過度の使用と誤用について、より深く掘り下げます。
全体構成
Introduction
Part I: Science and its Psychological Effects
Part II: Mass Formation and Totalitarianism
Part III: Beyond the Mechanistic Worldview