はじめに
このノートは、The Psychology of Totalitarianism(Mattias Desmet著)を読み、重要と思われた部分を抜き出して記録したものです。ノートは、章単位の構成となっています。他章のノートを参照する場合、各ノート末の「全体校正」のリンクを参照してください。
このノートは、一読者としての印象を部分的に抜き出たものです。私の意見・感想は含まれていません。しかし、部分的な抜き出しなので、正しい内容を反映していないかもしれません。また、本文での引用情報も含まれていません。従って、本書を正しく理解するためには、ぜひ原文をお読みください。
このノートの目的は、自分としての理解の整理ですが、もし、本書の興味の一助になれば嬉しいです。
Part I: Science and its Psychological Effect /
Chapter 1: Science and Ideology
科学とは、「オープン・マインド」である。啓蒙主義の基礎となった科学の原点は、観察対象への偏見を保留することでした。
科学は、公共の場において、強制と抑圧、見せかけと偽善、欺瞞と嘘に大きく堕落していた宗教的ドグマによる支配を打ち破ったのでした。
数世紀にう渡るオープンマインドな探求は素晴らしい洞察を得ました:物質的な物体を観察すると、その物体自体が変化することを(「何かを見ると、それが変化する」とエルヴィン・シュレーディンガーは宣言しました)。
更に、人間が確実性を獲得できるという幻想も捨てたました。理性と事実に最も厳格に従った偉人たちは、究極的には、物事の本質は論理を超えており、把握することはできないという結論に達しました。
例えば、18世紀にフランスの科学者ラプラスが熱狂的に唱えた物質世界の予測可能性という考え方(ラプラスの悪魔)は、20世紀にアメリカの数学者・気象学者エドワード・ローレンツによって無効とされました。
そして最後に、宇宙は死んだような無方向性(非テレオロジー)の機械的プロセスであるというイメージも、科学的に成り立たないことが証明されました。カオス理論は、機械論では説明できないような形で、物質が常に自己を組織化していることを、真に革命的な方法で示しました。
多くの人は、科学とは「客観的に」観察可能な事実をドライに論理的に結びつけることだと考えています。しかし、科学とは、観察者と現象との間の「共鳴的な親和性」として特徴付けられます。
やがて、科学は、かつて宗教が出発した場所にたどり着きます。
科学の究極に達成したことは、科学が人間の指導原理になり得ないことを悟ることでした。
* * *
しかし、科学の木は初めから別の方向にも枝を伸ばしていました。その方向は、科学の原点とは正反対でした。科学の偉大な成果をもとに、ある人たちは「開明主義」から「信念」に転じました。その人たちにとって科学はイデオロギーとなったのです。その枝は、ハードサイエンスと呼ばれ、機械論的・物質論的な分野です。原理は単純(力学の法則)、対象は具体的(目に見える世界)、実用性は畏敬の念(蒸気機関からテレビ、原子爆弾からインターネットまで)、この科学は人間を魅了するすべてを兼ね備えています。
啓蒙主義以降、機械論的思考は西洋文明のグランドナラティブ(大いなる物語)を提供してきました。
その誕生当初、科学はドグマを排除し、信念を問うオープンマインドな考え方の代名詞でした。しかし、科学は、その進化に伴い、イデオロギー・信念・偏見に変わっていきました。
すべてのイデオロギーがそうであるように、科学も変容を遂げました。最初は、少数派が多数派に反抗するための言説でした。やがて、科学は多数派の言説そのものとなりました。この変容の過程で、科学的言説は、本来の目的とは異なる目的に自らを合わせるようになりました。
* * *
科学的言説がイデオロギー化し、真実を語るという美徳は失われました。このことを最もよく表しているのが、2005年に学界で勃発したいわゆる「再現性の危機」です。
最近の数十年、学者たちはさまざまな取り組みを通じて、研究の質を向上させようと試みてきました。全体として、これらの施策はあまり効果を上げていないようです。2021年、調査対象となった学者の50%が、自分の研究結果を偏った形で発表した経験を匿名で認めました。しかも、その結果が、かなりの過小評価であることはほぼ間違いありません。
「再現性の危機」は、単に研究に対する真剣さ・慎重さの欠如を示すものではありません。何よりもまず、これは科学のあり方の危機です。特に、心理学や医学では悲惨な状況です。
コロナ危機で、一般の人々は、PCR検査の明らかな課題を目撃することで、医学的測定の相対性に初めて気づいたと思います。PCR検査の課題とは、その検査が様々な方法で実施されたため、得られた結果も様々で、その結果もまた様々に解釈されたことでした。測定不可能なものを測定する試みは、PCRによる測定を擬似客観なものにしました。この測定手続きは、研究者を研究対象に近づける代わりに、さらに遠ざけることになりました。研究すべき対象は、「数字」の背後に隠されてしまいました。
科学研究の質の低さは、いくつかの差し迫った疑問を提起しました。その疑問が向けられた対象には、全ての科学雑誌で採用されているブラインド査読システムがあります。ブラインド査読は、専門家の倫理的・道徳的な資質に依存しています。つまり、それは、人間の主観的・人間的な特徴に寄って成立しています。
* * *
偉大な科学(心を開いて理性を追求する科学)も小さな科学(イデオロギーに堕落した科学)も、やがて、もともと視界の外に押しやっていたものに再び遭遇しまし。それは、主観的で倫理的な存在としての人間です。
最も衝撃的なことは、研究者自身が、自分たちの方法論に何か問題があることにほとんど気づいていないことです。彼らは、自らの科学的フィクションを現実のものと思いこみ、事実としての数字と歪んだ反響の結果である数字を混同しています。このことは、多くの人々が科学的なイデオロギーを盲目的に信頼することにも当てはまります。彼らにとって、宗教の崩壊は、イデオロギー的な隠れ場所を失ったことになるからです。マスメディアで然るべき人が発表する数字やグラフは、多くの人々にとって、事実上の現実とみなされます。
全体構成
Introduction
Part I: Science and its Psychological Effects
Part II: Mass Formation and Totalitarianism
Part III: Beyond the Mechanistic Worldview